tonarimachi
六月の或る昼下がりは夏のように暑かった。梅雨はほとんど雨が降らず早々に開けてしまい、連日激しい日光が投げ放たれていた。住宅地を貫く或る道のアスファルトは黒く縮こまった蚯蚓の死骸を何匹も転がしながら、白く干上がっていた。その道の遠くは早過ぎる陽炎を浮かばせた。
少年は学校から帰ってくるなり犬の散歩に出て行った。その歩度は早かったので直に暑さを喰らい、よく流れる透明な汗をかいていた。陽炎の立つ道の十字路の通りざまに遠くを眺めやった少年は、同い年ほどの一人の女子生徒が脚を投げ出すように歩いているのを見た。陽炎によって輪郭を曖昧にした姿の中にも、紺色のベストとスカートの制服が揺らいで見え、ベストから溢れた白いシャツの襟と半袖は日をよく照り返し、一等目立った。
少年が立ち止まるとその女子生徒は力無さげに手を振った。
「ゴン助! 」
女子生徒は少し早歩きになりながら犬の名前を呼んだ。犬もその声に呼応し、つながったリードを緊張で漲らせ、垂れた耳を羽搏かせて、少年を引いて力強く進んだ。
少年と女子生徒はもともと顔馴染みでもなかったが、少年は散歩で、女子生徒は通学路でこの道を使っていたことからよく顔を合わせるようになり、やがて挨拶するようになり、そして三ヶ月ほど前から犬をきっかけに話す仲になった。
「よぉ」
「ヨオ」
少年の気の抜けた調子の挨拶を女子生徒はわざと強調して真似した。女子生徒はほどよく丸みのある手で犬の顔の肌を揉むようにして撫で回した。犬は喜びのあまり尻ごと尾を振りまわし、女子生徒の手をかいくぐって、その膝が見える丈のスカートの中に頭を突っ込んだ。
「ちょっとゴン助」
女子生徒は右手でスカートを抑えながら犬の頭を左手で避けようとした。少年は犬と同じだけの力でリードを引っ張ったが、なかなか退かない犬に女子生徒は抵抗をほとんど止め、少年と顔を合わせて、快活に笑った。
「おいゴン助」
少年が注意してリードを強く引くと、ようやくして犬は顔を出し、落ち着いた。少年は左手で犬の首輪近くのリードを掴んで仕方がなさそうに犬の名前を言っていた。
「ゴン助も男の子だからね」
と言う女子生徒は少し腰を曲げて、両手で犬の顔をしっかり包んだ。
すると丁度女子生徒の頭が少年の目下にきた少年は「今日は髪あげてんだ」と尋ねた。
「今日は体育もあったからね、お団子にしたんだ。似合ってる? 」
と女子生徒は顎を動かすように首を軽く捻って少年の顔をちらと見上げ、尋ね反した。少年は刹那に陽炎の方を見たあと、犬の方へ視線を落とし、右手で犬の尻をいぢりながら言った。
「まあ、似合ってるよ」
「まあって何よ」
「なんだろうね、たぶん『すごい』とか? 」
犬に視線をやった女子生徒はその顔に両手を残して姿勢を直し、口元を朗らかに「よかった」と言った。
一寸間を開けたあとに女子生徒は言った。
「わたし来週引っ越すんだ」
少年は咄嗟に女子生徒の顔を見、女子生徒もまた少年の顔を見て、お互いに刹那のあいだ日光に照らされわづかに傾くまつ毛の影を落とした濃い色の瞳を見つめ合った。
二人は遠くから走って来る自動車の音を機に目を背けた。車がタイヤのゴムでアスファルトを掴みながら駆け抜ける。
少年は車の背を目で追いかけながら、それまでより小さな声で尋ねた。
「どこへ行くの」
「うん、遠いとこ」
「そっか」
犬は舌を垂らし、丸い瞳で女子生徒を見上げていた。二人は犬を見おろした。女子生徒は垂れた薄い耳を指に乗せてさわっていた。少年はいじられる耳、また耳をいじるその手を見ていた。
長い呼吸を二回して三回目の息を吸ったとき少年は聞いた。
「そういえばさ、名前、苗字しか知らないよね」
「そういえば、名前知らなかったよね。ここ最近よく話してたけど、なんか名前聞くタイミングも過ぎてるって感じだったしね。まさかこんなタイミングで人の名前を聞くなんて思わなかったね。うちの学校の友達とかはもうお別れって感じなのに、君とはまだ自己紹介だなんて、こんなこともあまりないだろうから多分君のこと忘れることはないかもね」
女子生徒は両手を背負っていたバッグの肩紐にうつし、少年の顔を見た。少年は一瞬だけ女子生徒と視線を見合わせ、肩紐にうつった手へ目を落とした。
女子生徒は綺麗に言った。
「花鈴、咲く花に鈴で〝かりん〟……なんて言うの、君の名前」
「行春、行くに季節の春で〝ゆきはる〟」
「ゆきはる、春なんだね。カリンって花も春に咲くんだよ、もしかして四月生まれだったりするの? 」
「やっぱりわかる? 名前に付くぐらいだからね、四月生まれだよ。そのおかげで人に誕生日を忘れられたことも無いんだけどね。ってことはかりんも春生まれ? 」
「そう、わたしも四月生まれだよ、まさかの一緒だね」
少年は少し俯いて右手で額をかきながら、左手で持つリードを軽く揺らす。女子生徒が右手に隠れた少年の顔を見ると、そのこめかみの生え際から流れ落ちそうな汗を見つけた。汗は少年の頬骨あたりまで流れ、その轍は太陽の光を浴びて輝いていた。いつの間に汗は滴ほどに膨らみを増し、流れゆく速度を早めようとしていた。
女子生徒はすばやく犬の方へ視線を変えた。ただ、またすぐあとに少年の頬へ目をやった。汗は流れ過ぎており、その輝く轍だけを頬に残していた。女子生徒は尋ねた。
「誕生日、何日なの? 」
「−−日、四月−−日、花鈴は? 」
少年は尋ねながら首を動かす程度に女子生徒の顔を見やると、女子生徒は眉をちょっと上に動かした表情を少年へ向けていた。その表情はすぐに戻り、女子生徒は目線を遠くの陽炎の方へ動かし、たちまち顔までその方へ向いて、優しく答えた。
「行春の誕生日の次の日、私が生まれたの四月−−日」
数日後、梅雨の雨々が遅れてやってきた。空を墨色の雲で染め、瀧の如く大粒の雨を激しく降らせた。陽炎を立たせた夏のような暑さは日の輝きだけを失い、アスファルトに重く垂れ下がるような熱だけを残して湿潤な日々をつづけた。
さらに一週間が経つと雨は去り、熱っぽい微風が吹く、光輝に充ちた夏の世界がはじまった。
熱烈な日差しの中、少年は学校から帰ると犬の散歩に行った。幾筋も流れゆく汗を腕でよけた。十字路を通り過ぎるとき、道の遠くへ目をやると、アスファルトから輪郭を暈す陽炎が浮いているのを見つけた。少年は漣のように押し寄せる熱を浴びながら、その陽炎のゆらめきの中に女の幻を見た。