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あたたかさ

作者: 腕 尊美

 ある国の天才が、鏡の中に新たな世界を発見した。今いる世界を写し出したような、非常に優れた世界だった。誰もが新たな世界に注目し、期待した。

 新たな世界では不便がなかった。想像は容易に具現化し、欲したものも容易に手に入る。権力や地位などの不平等な肩書きも、法律やルールといった堅苦しい概念もない理想的な世界だった。

 新たな世界は、次第に人々の中に浸透していった。始めは多くの者が抵抗したが、受け入れられるまでにそう時間はかからなかった。新たな世界は当たり前のものに変わっていき、人々にとっての世界は二つになった。

 今までの世界を「表」とし、新たな世界を「裏」と呼んだ。表に不満を持っていた人々は、大いに裏を歓迎した様子だった。体力のある者は、一日に何往復も表と裏を行き来した。

 表で嫌な事があれば、裏で良い事を求める。

 表で失敗すれば、裏で成功を求める。

 表で劣等感を得れば、裏で優越感を求める。人々は表と裏を器用に使い分けた。


 ある日の昼下がりに、一人の男が自宅で茶を飲みくつろいでいた。不意にインターホンが鳴り、こんな昼間に何事かと玄関を出た。

 知らない女がポツンと立っていた。年も遠くない、可愛らしい女だった。

「素敵なご自宅ですね」

 女は丁寧な口調で、くすんと笑う。小動物のような愛らしい仕草に、男の鼓動は大きく脈を打った。立ち話も何なので、男は女を家にあげた。


 折角なので飲み物でも振る舞おうとしたが、こういった時に何を振る舞うべきか分からない。

「何か飲みますか」

 仕方なく直接聞く。女は隣で台所を見回した。

「このお茶が良いです。私もよく飲みます。とても味わい深いですよね」

 女は戸棚にある茶葉の入った小瓶を手に取り、丁寧な口調で笑った。

「ちょうど今飲んでいたところです。美味しいですよね」

 男が照れ臭そうに笑うと、女はそれに応えるようにくすんと笑った。男の鼓動はまた脈を打った。


 茶を飲みながら二人は色々な事について話し合った。家族や仕事、思い出や夢。どの話をしても、二人の意見は似たものであった。

 話は発展していき、ついに世界についての話題になった。

「僕は裏が好きだ。どんな事をしていてもストレスを感じない。何より不便がない分、多くのことに挑戦できると思う」

 男は語った。女は丁寧に相槌を打ち、小さな声で「確かに」と言った。

 男は満足そうに笑ってみせた。しかし、女は気まずそうな笑みを浮かべて言う。

「私は表が好きです」

 男は拍子抜けた。

「なぜです?」

 聞き返すと、女は男の瞳を真っ直ぐに捉え、真剣な眼差しで続けた。

「表には愛や心や個性があります。それらはあたたかさが重要で、そういった熱は裏には存在しません」

 珍しく女は断言した。女の言葉が理解できない様子で、男はひどく戸惑っていた。

「今にわかりますよ」

 女はくすんと笑った。男の鼓動は脈を打った。


 気がつくと日も落ちかけ、空が夜を迎える準備をしていた。女は暗くなる前には帰りたいと言った。

「では、今日はこの辺で」

 男は溢れてくる欲を抑えてつけて、無理に笑顔を作る。女はくすんと笑った。

 玄関に移動する。移動中、二人の間に会話は無かった。

「送っていきましょうか」

 男は心配そうな口調で、座り込んで靴を履いている女の背中に問いかける。

「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 女は丁寧に断った。男の鼓動は脈を打った。


 靴を履き終えた女が立ち上がる。ゆっくりと男の方を向いた。

「今日はとても楽しかったです」

 女は笑った。素敵な笑顔だった。

「こちらこそ」

 今にも余計なことを言い出しそうな口を抑えるように、男は淡白な言葉を返した。

「最後に」

 女はそう囁き、半歩ほど男に寄った。温かな眼差しで男を見る。

 時が止まった。男の鼓動は脈を打った。


 女は男の手を握り、「目をつぶってください」と言った。男は欲望に満ちた期待を膨らませ、目を閉じた。

 永遠にも、刹那(せつな)にも感じる時間が流れる。止まった時が(にじ)むように広がっていく感じがした。そして、二人の唇が重なった。その口付けを待っていたかのように、再び時が動き出す。

 男の鼓動は大変激しく脈を打っていた。


「ありがとうございます」

 女がそう(ささや)くように言う。男はその言葉を聞いてから、思い出したように目を開いた。女は相変わらずの愛らしい表情で、こちらを見つめていた。

「どうも」

 男は情けない声で応えた。

「それでは帰ります」

 女はそう言って玄関の扉を開いた。最後に軽く体をこちらに向けて会釈(えしゃく)をした。男は放心した様子でその姿を見ていた。


 女が帰った後も、男をしばらくその場に立っていた。先ほどの口付けの感触を思い出すようにして、唇に触れてみる。

 女の唇は、あたたかみのない、死体のような冷たさだった。

 男は胸に手を当てる、鼓動などまるで感じなかった。

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