08:アリシアの作戦
ランデブー当日。
侍女として普段から早起きを心掛けているアリシアだが、今日はそれよりも早くに目を覚ました。
緊張と興奮でしっかり寝付くことが出来なかったということもあるし、そもそも王都までの移動時間を考えて早めの出立になるからだ。
髪を染料で丁寧に黒く染めあげて、時間が経っても崩れない程度の化粧を施し、比較的動きやすい黄色を主体にしたドレスと華美過ぎないアクセサリーを身に着ける。
自分のものではないように感じる黒髪を鏡台の前でセットする。
編み込んだ前髪で横の髪を押さえるようにして後ろ髪と共に纏め上げる。
お洒落をしないといけないとき、アリシアは決まってこの髪型にしていた。
こうすれば時間が経っても生来の癖っ気が目立ちにくい。
色ムラがないかの最終確認を終えるころには遠くの空が薄ら明るくなり始めていた。
「そろそろ時間よね……」
窓の外を眺めながらそんなことを考えていると、丁度公爵邸の広い庭園の向こうにレイモンド公爵家の家紋が刻まれた馬車が現れた。
アリシアは椅子に掛けておいた白のケープを羽織って一度大きく息を吐き出すと、気合を入れ直した。
部屋を出て、事情を知っている侍女長と合流したアリシアは、あくまでもフィオナらしく毅然とした態度で玄関ホールへと赴く。
屋敷の顔に当たるY字階段を降りると、同じく今日の一件を知らされていた執事長がホールでクライヴたちと応対しているのが見えた。
アリシアたちの気配に気付いたクライヴもまた顔を上げると、階段にいるアリシアたちを見上げてパッと笑顔を浮かべる。
「……っ」
思わずドキリとする。
落ち葉のような深い茶色のスーツは彼の金色の髪とよくマッチしていた。
手にはスーツよりも明るい色をしたハットが携えられている。
……何よりも、あの笑顔。
嫌味も気障さもない、ともすれば母性をくすぐる純粋な笑顔。
クライヴほど整った顔立ちの男性にあんな笑顔を向けられれば誰だって惚れてしまうだろう。
(しっかりするのよ、アリシア……っ)
アリシアはぐっと堪えると自分を叱咤する。
今日の目的を忘れてはいけない。
自分は今からこの人に嫌われないといけないんだ。
階段を降りてクライヴの前に歩み寄ったアリシアは、そっとドレスの裾をつまんでカーテシーをする。
「おはようございます、クライヴ様」
「おはよう、フィオナ嬢。――今日の貴方は一段と素敵だね」
「あっ、ありがとうございます」
悶えそうになる自分を抑え付けて努めて素っ気ない態度をとって見せる。
クライヴは特に気にした様子もなくそっとこちらに手を差し出してきた。
「それでは行こうか。表に馬車を停めてある」
「……はい」
クライヴの右手にそっと自分の左手を乗せる。
逞しくて温かい感触が伝わってくる。
そのままクライヴが歩き出すのに付き従う形で屋敷を出た。
表には窓越しに見た高級そうな馬車が停まっている。
決して豪奢な飾りが施されているわけではないが、車輪から車体に至るまで丁寧な仕事をされていることがわかる。
馬車を引く馬の毛並みや体躯も見事で、流石はレイモンド公爵家だとアリシアは感嘆した。
「さ、どうぞ」
客車の扉を開き、左足を足場に乗せた状態でクライヴが優雅な所作でアリシアを車内へと誘う。
彼の右手にぐっと体重をかけるが、クライヴはものともせずにそれを受け止める。
ふわりとアリシアが車内へ入ると同時にクライヴも乗り込み、扉を優しく閉めた。
車内は赤と黒を基調としていて、とても重厚感のある造りになっている。
二人が並んで座れるソファが二脚、向かい合わせに配置されていて、アリシアはどこに座ったらいいのかその場で立ち尽くしていた。
するとそんなアリシアの様子を見たクライヴが、「そちらにお掛けください」とこれもまた自然な流れで示してくれる。
アリシアは言われるがままにちょこんと座った。
クライヴは穏やかな笑みを浮かべると、アリシアの向かい――背中に御者台のある席へと腰を下ろした。
車内は馬車にしては広いものの、足を伸ばせば相手の足に当たってしまう。
誕生日パーティーでの茶会の席よりも近い距離に座るクライヴに、アリシアは視線を彷徨わせる。
(お、落ち着かないわ……っ)
そもそもが異性との交流が希薄だったのだ。
いきなりこんな美青年と密室で二人きりになって、平然とできるわけがない。
あたふたとしているアリシアをよそに、クライヴはコンコンと背後の壁を軽く叩き、「出してくれ」と御者へ指示を出していた。
直後、馬車はゆっくりと進みだす。
視線を彷徨わせていたアリシアは、屋敷の外で執事長と侍女長が頭を下げていたのが目に入った。
アリシアが二人を見届けてから車内に視線を戻すと、クライヴがニコニコとこちらを見ていた。
「な、なんですか」
「失礼。君とこうして出かけることができるのが夢のようでね。つい見つめてしまった」
「……っ」
歯の浮くような言葉も、そこに心があれば真摯な響きを持って胸を打つ。
人は自分を好きになってくれる人を好きになってしまうものだ。
高鳴る鼓動を落ち着かせながら、アリシアは密かに深呼吸する。
遅かれ早かれ、クライヴとフィオナの婚約は破棄される。
クライヴは彼の想い人であるフィオナに会うこともなく。
これほど純粋な好意を持つ人にそんな対応はあんまりだ。
なら、フィオナから婚約が破棄されることをクライヴにとって辛くないものにすれば……?
クライヴがフィオナに何の未練も抱いていなければ、婚約が破棄されても大きな不幸にはならないはず。
そう考えたアリシアがクライヴに嫌われるため――もっと言えば、フィオナへの好意を捨て去ってもらうために今回のランデブーで一つの制約を自らに課した。
それは、素っ気ない態度をとる、というものだ。
フィオナが素っ気ない態度をとることで、クライヴへの好意が微塵もないことを言外に伝える。
そうすればクライヴとてフィオナから心が離れていくはずだ。
(……でも、考えてたよりも難しいっ)
クライヴの全身から溢れ出る好き好きオーラに当てられてつい穏やかな会話を口にしようとしてしまう。
そういう時は自分になんとか言い聞かせる。
彼が好きなのはフィオナであって、自分ではないのだと。
馬車はハトルストーン公爵領都を出て、整備された街道へと差し掛かった。
それまで笑顔を湛えてこちらを眺めていたクライヴがそっと口を開く。
「ここから王都までは三時間ほどだ。朝も早いのだし、ここで仮眠をとっておくといい」
「……おかまいなく」
「ふふっ、元気だね」
素っ気なく返したつもりなのに、何故か微笑むクライヴ。
そんな彼の反応から目を逸らすべく、再び車窓へと体を向ける。
(そういえば、クライヴ様はわたしよりももっと早くに起きられてるのよね)
ハトルストーン公爵領都とレイモンド公爵領都は馬車でおよそ二時間の距離にある。
こうしてアリシアを迎えに来る二時間前には起きているということになる。
ふと、「クライヴ様こそお休みになられては?」と口にしそうになった。
しかし寸でのところで口を噤み、ふぅと小さく吐息を零す。
冷たく、素っ気なく、全く気に掛けない。
そういう風に接しなければ。
「……? どうかしたかな、フィオナ嬢」
「っ、な、なんでもありませんわっ」
チラッと横目でクライヴを盗み見ていると、彼は僅かに首をかしげて柔らかな声音で訊ねてきた。
アリシアは慌ててそっぽを向く。
「辛くなったら休憩にしよう。演劇は昼過ぎからで時間もある。ゆっくり行っても間に合うさ」
クライヴのそんな気遣いの言葉に、アリシアは何も返さずただ窓の外をジッと眺める。
(……はぁ、気が重い)
今日一日のランデブーを耐えられるかどうか。
アリシアは空に浮かぶ雲を見つめて憂鬱な気分になった。