05:偽の婚約者
(ううっ、気まずい……)
パーティーを無事(?)に乗り越えたその日の夜。
フィオナ・ハトルストーンから一介の侍女へ戻ったアリシアは身を縮こまらせていた。
ハトルストーン公爵邸の一室。そこにギルバートとアビゲイル、そしてフィオナが集っていた。
ギルバートたちの鋭い視線からフィオナが顔を逸らしてアリシアへ助けを求めてくる。
アリシアは壁際に控えながらおずおずと視線を床に向けた。
パーティーが終わって屋敷に現れたフィオナに、ギルバートたちは激昂した。
フィオナがしたことを思えばむしろ口頭で叱りつけられるだけですんだだけマシと言える。
その後、誰も口を開かない夕食の時間を経て、アリシアは三人の下に呼び出されていた。
室内に満ちるこの重たい空気の源泉は主にギルバートが先程から何度も零しているため息。
こちらを威圧するものというよりも、自然に漏れ出てしまっているという感じだ。
ソファに座るフィオナとアビゲイル、そして壁際に控えるアリシアを順々に見やってから、ギルバートは疲れたように目元を押さえた。
「……フィオナ」
「は、はいっ」
名前を呼ばれたフィオナがビクリと体を震わせる。
それだけ怯えるのなら素直にパーティーへ出席すればよかったのにと、アリシアは思った。
「最早今回のお前の行動についてこれ以上責めはしない。責めたところで過ぎたことは変えられないからな。……だが、今後のパーティーには必ず出席してもらう。いいな」
「…………」
返事をしないフィオナにギルバートは更にため息。
「どうしてそこまで嫌がるんだ。綺麗なドレスに身を包み、豪華な料理に舌鼓を打ち、権力や財力のある人間と交流できる場だ。普通の令嬢なら皆パーティーの日を今か今かと待ち侘びるものだぞ」
ギルバートの問いはアリシアも気になっているところだった。
会話に意識を向けると、フィオナはぎゅっと下唇を噛む。
「わたくしは、嫌いなんです」
強く言い切ったフィオナに、ギルバートはまたもため息。
それから小さく頭を振って、呆れたように言った。
「どうやら私たちが甘やかしすぎたようだ。アリシアにお前の影武者を頼むのではなかったな。……いいや、今はそのような話はいい。問題はレイモンド公爵家のことだ」
そこまで傍観する形で場を静観していたアリシアも、レイモンド公爵家というフレーズに顔を上げた。
脳裏によぎるのは、クライヴの穏やかな笑顔。
庭園での会話が今も耳朶をくすぐり、その度に胸を高鳴らせる。
これまで異性との関わりが少なかったアリシアにとってはまさに不意打ちといっていい出来事だった。
アリシアが一人悶絶している中、ギルバートはフィオナにパーティー会場での出来事を説明していた。
一部始終を聞き終えたフィオナは先程よりもさらに反省した様子でアリシアの方を向いて頭を下げてくる。
「ごめんなさい、アリシア。まさかそんなことになるなんて……」
「わたしも社交界デビューのその日に求婚されるとは思っていませんでしたから」
アリシアが苦笑しながら返すと、フィオナはほっとしたように一息吐く。
「私もアリシアと同様のことを考えていた。無論、以前から親交があったなら別だが、そうでない貴族との婚約は社交界デビューを経て様々なパーティーに仮面なしで参加することで生まれる話だからな」
ギルバートは一般的な貴族の婚約について話す。
もちろん権力を求めての政略結婚は別だが、そもそも公爵の地位にいる家がそのようなことをする必要もないし、大きな権力を持つ家こそ娘や息子の結婚は機を見計らってじっくりと行う。
レイモンド公爵家跡継ぎからの今回の申し出はそういう意味でも特殊と言える。
「アリシアとクライヴ卿が話している間、私たちもレイモンド公爵たちと話をした。どうやらクライヴ卿の耳から兼ねてよりフィオナのことは聞いていたらしい。流石に今回の求婚についてはクライヴ卿の独断だそうだが……可能であれば息子の希望を尊重したい、というのがあちらの考えだ」
爵位についても申し分ないからな、とギルバートは付け足した。
話を聞いていたアリシアは、ふとフィオナとギルバートが結婚した場合、それぞれの家の跡継ぎはどうなるのだろうと不思議に思った。
ハトルストーン公爵家の跡継ぎはフィオナしかいないのだし、ギルバートが婿入りに来るのだろうか……。
などと考えていると、それまで黙っていたアビゲイルが口を挟んだ。
「フィオナ。あなた、クライヴ卿とはどこで知り合ったの?」
「存じ上げませんわ。わたくし、パーティーはいつもアリシアに言ってもらっていましたもの」
「誇らしげに言うんじゃありません!」
「……はい」
娘を叱りつけた後、アビゲイルはそのまま視線をアリシアへ向けた。
「アリシアさんはどうなの? フィオナとして、クライヴ卿と話を交わしたことが?」
「それが……パーティーではわたしが偽物だと悟られないように必要最低限の会話しかした記憶がありませんので。クライヴ卿とも社交辞令での挨拶を交わしたことはあるかもしれませんが、それ以上のことは」
断じてあそこまで愛されるようなことはしていないはずだ。
アリシアは記憶を辿りながらもそう結論付ける。
ふと、クライヴの言葉が蘇る。
――やはり覚えていないか。
心臓がキュッと締め付けられるほど悲し気な表情で彼はそう言っていた。
それでも、やはりアリシアは何も覚えていない。
(きっと、フィオナ様がどこかでお会いになられたのよ)
アリシアに心当たりがない以上そう結論付けるしかなかった。
そもそも、仮にパーティーで一度や二度会ったからといってあそこまでの好意を向けられるとも考えられなかった。
アリシアにもフィオナにも心当たりがないと聞いたギルバートは「まあいい」と頭を振る。
「家格の低い者から迫られ続けることに嫌気がさし、爵位上は同格であるフィオナに求婚したというのもあり得ない話ではないからな。ともあれ、公式の場で一度求婚を受けた以上、暫くは婚約者として相応の振る舞いをしてもらわねばならん」
「相応の振る舞いって……わたくしに、そのクライヴ卿と交際しろと!?」
悲鳴に近い声を上げるフィオナだったが、ギルバートはすぐに「いいや」と手で制する。
「本来であればアリシアにお前の代わりを務めてもらうのも今回限りのつもりだった。一度だけであれば顔も印象に残らないだろうと。……だが、あれだけクライヴ卿と長時間顔を合わせたのだ。騙し通せるとも思えない」
ギルバートの口振りが何かまずい方向に言っているのをアリシアは感じ取った。
アリシアの予感を肯定するようにギルバートは続ける。
「万が一にも影武者が露見してレイモンド公爵家との関係を悪化させるわけにもいかない」
「お、お待ちください。次にクライヴ様と会うまでに時間を空ければ、記憶は薄れ、違和感も抱かれないと思いますがっ」
ギルバートがアリシアの方を向いたと同時に、アリシアも慌てて口を挟んだ。
このまま流れに身を任せているときっと今日の二の舞になる。
しかしそんなアリシアの抵抗を、ギルバートは一蹴する。
「それはできない」
「ど、どうしてですか」
「……実は、あちらから早速フィオナへランデブーの申し入れがあった。今週末、王都の劇場で演劇を見ないか、と」
「――っ」
「無論、先延ばしにすることもできるかもしれない。だが、婚約を受けて早々にあちらからの誘いを断るというのも外聞が悪い」
「それは理解できますけど……」
「私は週末のランデブーもアリシア、君に行ってもらえたらと思っている。もちろん、フィオナとして」
「…………」
アリシアは軽い眩暈を覚えて額を押さえる。
しかしすぐに気を取り直してなんとか説得を試みる。
「わたしが代わりに行ったとして、状況を悪化させるだけです。クライヴ卿は益々わたしの顔と声を覚えられます。……この先ずっと、結婚してからもわたしが代わりを務めるわけにはいかないでしょう?」
アリシアは少し大仰な手振りを交えて説得する。
ギルバートは一度静かに目を閉じると、悩まし気な表情で声を発した。
「将来的にクライヴ卿との婚約は破棄するつもりだ。そうなれば、レイモンド公爵家の人間もしばらくは我々に接触はしてこないだろう。もしどこかのパーティーで顔を合わせてしまっても縁が切れている状態であればどうとでも取り繕える」
「――――」
つまり、ギルバートはこう言っているのだ。
世間的に婚約を破棄しても許される程度の期間、アリシアはフィオナとしてクライヴに会えと。
今日の昼間。ホールの中でフィオナである自分に求婚してきたクライヴの顔が過ぎる。
庭園で、求婚を受けてくれたことを喜んでいるクライヴの声が過ぎる。
自分があくまでもあの場を治めるため、仕方なく求婚を受けたと明かしたときの悲し気なクライヴの姿が過ぎる。
(……そんなの、あんまりよ)
クライヴには婚約を破棄する可能性も伝えた。
だけどそれは、本物のフィオナが彼と会い、その上でやはり受け入れられないと思ったときのことを想定して。
クライヴが愛しているフィオナに会うことなく婚約を破棄されるなんて。
それほど残酷なことがあるだろうかと、アリシアは内心で憤りを覚えた。
(でも、わたしがこんなことを思うのも筋違いよね)
そもそも原因の一旦は自分にもある。
自分がフィオナの代わりを引き受けなければこんなことにもならなかった。
「――わかりました」
長い逡巡の末、アリシアは頷いた。
偽の婚約者を演じ続けることを。
ギルバートたちが一斉に顔を上げ、口々に感謝の言葉を声にする。
それを聞きながらアリシアはある決心をした。
(クライヴ様の方からフィオナ様を嫌いになってもらう。そうすれば誰も傷つかないわ!)
偽の婚約者なら偽の婚約者らしく、精一杯憎まれ役を演じて見せる。
アリシアはこの場の誰にも悟られないよう、密かにそう心に決めた。