26:克服
オースティン王国の王城内で最も豪奢であり、最も神聖な空間――玉座の間に楽団の陽気な演奏が響き渡る。
床一面にはきめ細やかな装飾が施された絨毯が敷かれ、入口の大きな扉から、部屋の最奥に鎮座する玉座へは深紅のカーペットが敷かれている。
その一室に、オースティン王国内の貴族という貴族が一堂に会していた。
オースティン王国建国249周年を祝う祭典――建国祭が今年も始まった。
慣例通り、侯爵以下の貴族たちはこの玉座の間に先入りし、選侯侯の資格を持つ貴族と王族が現れるのを待っていた。
アリシアは玉座の間で再び会ったハンナと、彼の夫であるカーティス・モール伯爵令息と挨拶を交わした後、ハラハラとしながらその時を待っていた。
「今日は髪を染めなくていいのか?」
アリシアの周りに人がいなくなったタイミングを見計らったかのように、スコットが現れた。
彼はジロジロとアリシアの全身を不躾な視線で舐め回してから、余裕綽々と言った様子で挑発してくる。
「何のことを仰られているのかわかりかねます、スコット様」
「――っ」
昨日の夜とは違い、挑発を気にも留めてないアリシアの様子にスコットが引くつく。
その時、楽団の演奏が止まり、玉座の間の入口に立つ衛兵が声を上げた。
「――アンスバッハ公爵とそのご家族、ご入来!」
衛兵の声と共に扉が開け放たれ、壮年の男を筆頭に数人の男女と子どもが入ってくる。
アリシアはギュッと拳を握った。
「お前がここにいるってことは、あのお嬢さまは自分で出ることにしたのか? 麗しい主従愛だ。だが、恥をかかないといいがな」
「――――」
スコットの言葉を無視して、アリシアは入口を見やる。
玉座の間にいる貴族たちの視線は今入室してくる者たちに注がれる。
アンスバッハ公爵、ノルーマン公爵、セントクレア公爵――レイモンド公爵。
次々と公爵家の人間が玉座の間に足を踏み入れる中、アリシアのよく知る顔が現れた。
陽光を透かして輝く金色の髪に、見るものを魅了する碧眼。
クライヴ・レイモンド公爵令息。
レイモンド公爵夫妻の後ろについて玉座の間を突っ切るクライヴの姿は堂々たるものだった。
「~~~~っ」
不意に、カーペットの上を歩いて玉座の袂まで歩いていたクライヴがアリシアの方を見て微笑んだ。
周囲の令嬢が黄色い声を上げるのをよそに、アリシアは固まっていた。
だが、すぐに彼女の意識は引き戻される。
「――ハトルストーン公爵とそのご家族、ご入来!」
「来たな」
隣でスコットが待っていたとばかりに嗜虐的な笑みを浮かべた。
アリシアは密かに両手を合わせて祈る。
少し緊張した様子のギルバートとアビゲイルの後ろに続くように、漆黒の髪が揺れた。
遠目からでもわかるほどにフィオナの顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうに見える。
トラウマを抱えてこれまで社交界に出てこなかった彼女が、いきなりこのような場で全員の注目を浴びている。
卒倒してもおかしくない。
だけど、彼女は乗り越えなければならないと言っていた。
今変わらなければならないと。
アリシアは固唾を呑んで見守る。
その時、フィオナが突然その場で足を止めた。
◆ ◆ ◆
(――気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……っ)
フィオナ・ハトルストーンは全身に襲い掛かる悪寒と込み上げる吐き気に抵抗するために立ち止まっていた。
周囲の貴族から注がれる視線。
その視線と彼らが張り付けている笑顔との乖離に心が持っていかれる。
幼い頃のトラウマが、現実のものとなってフィオナの心を引き裂きに来る。
「おい、フィオナ。大丈夫か」
父の声がした気がする。
顔を上げれば、ぼやける視界の中で父が覗き込んでいた。
それと同時に周囲の様子が再び頭に入ってくる。
立ち止まったフィオナを見て心配する者、愉快なものを見ていると笑う者。
早く一歩を踏み出さないといけないのに、ここで歩きはじめたら倒れてしまうという確信があった。
(わたくしは、変わらないとっ)
頭ではわかっているのに足が竦んで動けない。
この場で倒れた瞬間、周囲の目が侮蔑に変わることを思うと恐ろしくて一層嘔吐感が増す。
視界がどんどんぼやけていく中――その端で、亜麻色の何かが揺れた気がした。
目を向けると、そこにはアリシアがいた。
アリシアがぴょんぴょんと跳ねて、周囲の視線もお構いなしに貴族令嬢らしからぬはしたない振る舞いをしている。
彼女の近くにいた貴族たちがアリシアに侮蔑の目を向けるのを見て、フィオナは思い出した。
――周りの人が気になるというのなら、わたしだけを見てください!
昨日の夜、アリシアが言ってくれた言葉。
そして今、アリシアは自分に視線を集めるかのようにその場で飛び跳ねている。
一気に嘔吐感が引いた。
ぼやけていた視界がクリアになっていき、悪寒が治まる。
(っ、これ以上迷惑をかけられませんわ)
フィオナは密かに口角を上げると、父に向けて「大丈夫ですわ」と微笑みかける。
そうして――一歩を踏み出した。