24:回り道
「落ち着いたかな」
アリシアの嗚咽が静まり、お互いベンチに腰を下ろしてから少しの間、クライヴは静かに寄り添っていた。
そしてアリシアが落ち着いたタイミングを見計らって、優しく声をかけてくる。
アリシアは小さく頷いた。
それから、これから訊ねられることに対して身構える。
「……聞いてもいいかな。どうして逃げ出したのか。……どうして、髪を染めているのか。いや、今まで染めていたのか」
アリシアの亜麻色の髪を間近で見て、それが染め上げられたものだと思う者はいない。
その輝きを見れば、この色こそ本来のものだとわかる。
アリシアは長い逡巡の後、もう誤魔化し切れないものと思って全てを話した。
自分が本当はアリシア・プリムローズであること。
ハトルストーン公爵邸に侍女として奉公に来ていること。
――そして、今までフィオナに扮して彼女の代わりを務めていたこと。
クライヴはそれらを静かに耳を傾けていた。
話し終えてもその沈黙は続き、アリシアは耐え切れなくなって再び頭を下げる。
「本当に申し訳ありませんでしたっ。謝ってすむことではないことはわかっていますっ。ただ、どうかフィオナ様たちのことは……っ」
「くくっ」
「クライヴ、様……?」
恐る恐る顔を上げてクライヴを見る。
彼の顔は怒りの色も悲しみの色もなく、どこか吹っ切れたような笑顔があった。
一度抑え込もうとしていたらしい笑い声は、しかし一度漏れ出すと堰を切ったように溢れた。
ひとしきり笑うクライヴをアリシアは呆然と眺める。
やがてクライヴは口元を押さえつつ、まだその吊り上がった口角と同様に喜色の気配を滲ませる。
「僕は嫌われたんじゃないかと思っていたが、そういうことだったのか」
「あの、クライヴ様?」
「いや、すまない。僕の中でだけ話を進ませてしまって」
「い、いえ」
「フィオナ嬢――いや、アリシア嬢」
「っ」
「僕たちはどうしようもなくすれ違っていたんだね」
「え……?」
クライヴの視線はアリシアではなく、遠くの木々へ向けられていた。
その眼差しは過去を振り返るものであり、アリシアは静かに彼の言葉を待った。
「僕には、兄がいたんだ。父からも母からも自慢の兄が。そんな兄に僕は甘えきりで、貴族としての意識なんて欠片も持ち合わせていなかった」
突然始まったクライヴの独白。
話を聞いてすぐに、クライヴは公爵家の跡継ぎ――長男だったはずではと疑念が過ぎった。
その疑念をクライヴが払拭する。
「二年前、そんな兄が突然病死してね。僕はいきなり公爵家の跡継ぎになり、仮面付きで社交界に出ることになった。それまで貴族らしいことはずっと兄がしてきた。右も左もわからない、地位だけは持っている若造に、周りの貴族たちは鴨を見るような目を向けてきたよ」
「それは……」
容易に想像できる光景だ。
これが男爵家や子爵家ならいざ知らず、クライヴは公爵家だ。
彼に取り入ろうとする者、よしんば彼を利用しようとする者はそれこそ星の数ほどいるだろう。
「その重圧に耐えられなくなって、僕は一度社交界の席を外した。建物の裏手で僕は蹲っていたんだ。情けのない話だけどね」
クライヴの独白は、この二か月で知った彼の顔とは別のものだった。
そんなことがあったのかと思う反面、アリシアは妙な既視感を抱いていた。
(わたし、その男の人を知っている……?)
違和感はアリシアの顔に、そして態度に出た。
クライヴはアリシアのその変化を感じ取り、薄く笑みを浮かべる。
「そこで僕は、一人の女性に助けてもらったんだ。彼女は蹲ったまま情けないことを語る僕にハンカチを差し出して、こう言った。『あそこでは誰も相手を見ていないんですから、貴方も見なければいいんですよ』――とね」
「――――」
クライヴの顔がこちらを向く。
それと同時にアリシアは目を見開いた。
(それって……っ)
「――そう、貴方だ。……やはり、貴方だったんだな。僕は会場に戻った後、貴方の姿を探した。そして貴方が、フィオナ・ハトルストーン公爵令嬢であると知った」
(待って、それじゃあ、まさか……っ)
「僕が恋していたのは、フィオナ令嬢ではなく貴方だったということだ。アリシア嬢」
「~~~~っ」
色々な感情がぐちゃまぜになってポロポロと涙が零れ落ちる。
それは最早抑えることが不可能で、泣いてばかりのアリシアを、クライヴは黙って見守ってくれている。
その安心感がより一層アリシアの感情を揺さぶった。
やがてアリシアの反応に耐えられなくなったのか、クライヴの両腕がアリシアの背中に回る。
思ったよりも厚い胸板の中で、アリシアは彼に縋るように嗚咽した。
「だ、だけど、わたし、クライヴ様のことを騙して……っ」
「ああ、そうだ。確かに驚きもしたし、僅かな怒りもあった。だけど僕は貴方のことを――アリシア嬢、貴方のことを心から愛している。それに、言ったはずだ」
クライヴは優しくアリシアを離すと、涙に輝く瞳を真っ直ぐに見て言った。
「貴方が僕に嫌われるために何をしようと、僕の方から貴方を嫌うことは絶対にない――と」
それは初めてのランデブーの帰りの馬車の中で彼が口にした言葉だった。
フィオナに向けられていると思っていた言葉が、実は自分に向けられていた。
その事実で胸がいっぱいになる。
だけど、その事実を即座に喜べるほどアリシアは無神経ではなかった。
パッとクライヴから距離を取り、涙を拭う。
「クライヴ様のお気持ちはよくわかりました。わたしには身に余ることだと思っています。……ですが、わたしは貴方を騙していたんです」
「確かに貴方は僕のことを騙していた。とはいえ、僕はハトルストーン公爵家もプリムローズ子爵家も訴えるつもりはないよ。僕が求めていた人は最初からすぐ近くにいたんだから」
「…………」
「――とはいえ、それで納得できるわけではなさそうだ。そうだね、今まで僕を騙していた代わりに一つ頼みを聞いてくれないかな」
「わたしにできることでしたら、なんなりと」
一体何を言われるのか。
アリシアが身を固くして覚悟を決めていると、クライヴはにこやかに微笑みながら言った。
「貴方のことを教えてくれないだろうか」
「……へ?」
「この二か月間、貴方はフィオナ嬢の仮面を被り続けていたのだろう。貴方は僕のことを知っているのに、僕は貴方のことを知らない。そんなの、不公平じゃないかな」
アリシアがポカンとしていると、クライヴは照れたように頬を掻いた。
彼の言葉とその仕草が可笑しくて、アリシアは思わず笑った。
「――――っ。ああ、貴方の笑顔は僕が知っているものだ」
クライヴは嬉しそうにそう呟く。
夜の中庭で、アリシアは時間の許す限り自分のことについてクライヴに語った。