02:公爵令嬢フィオナの憂鬱
事は一週間前に遡る。
ハトルストーン公爵家本邸の広々とした食堂で、公爵家の人間が集まって夕食を摂っている。
純白で皺のないテーブルクロスがかけられた細長いテーブル。
一番奥の席にハトルストーン公爵家の現当主、彼から向かって右側にその夫人。
そして、彼女の対面にフィオナが座っている。
カチャカチャと食事に手を進める音が穏やかに響く中、アリシアは黒のドレスに白のエプロンという侍女の制服を身に纏って壁際に控えていた。
何気ない会話が繰り広げられる中、ふとある話題にフィオナの手が止まる。
「わたくしの誕生日パーティー?」
「ええ。あなたももう十七歳になって二ヶ月も経つんですから、そろそろ社交界デビューしないと」
「……必要ありませんわ」
貴族の令嬢令息は十七歳の誕生日を迎えると一人前の大人として社交界に出席することになる。
十七歳になる前に社交界に出ることはあっても、通常顔を半分隠す仮面をかぶることが通例となっている。
つまり、社交界デビューは顔を明かす場でもあるのだ。
公爵家の令嬢ともなれば誕生日の当日にもパーティーが開かれて社交界デビューが果たされるのだが、フィオナは未だに先延ばしにしていた。
現にハトルストーン公爵夫人、アビゲイルの言葉にフィオナは渋面を浮かべた。
アビゲイルははぁとため息を吐くと、助けを求めるように公爵家現当主ギルバートを見る。
妻の視線に彼もまたフォークとナイフを持つ手を止めると、娘に向かって呆れ混じりの目を向けた。
「駄々をこねるのはやめなさい。お前が何と言おうと一週間後にお前の誕生日パーティーを開く。そのつもりで準備しておくように」
「い、一週間後なんて、あんまりだわっ」
「すでに招待状も送っている。……何も今すぐ婚約者を探せというわけではない。ひとまず公爵家の一人娘として他の貴族に最低限の挨拶をしろと言っているだけだ」
父の厳しい言葉にフィオナは俯く。
不意に、彼女がアリシアの方を振り向いた。
視線を受けたアリシアは「もしかして」と嫌な予感が過ぎる。
「今回ばかりは、アリシアさんに代わってはもらえませんからね」
「……な、何も言ってないでしょ」
その時、アビゲイルが娘に釘を指すように言った。
明らかに目を泳がせながら、フィオナは残念そうにアリシアから視線を切る。
その一連の流れを眺めて、アリシアはほっと一息ついた。
(良かった。まさか顔を明かす社交界デビューまでわたしが代わりに出るなんてことはしなくて済みそうですね)
アリシアはこれまでフィオナの代わりに仮面を被ってハトルストーン公爵令嬢、フィオナとして貴族の場に度々顔を出していた。
あまりにもパーティーへ出席しようとしないフィオナに悪評が立つことを恐れたアビゲイルたちの苦肉の策といった形で。
もしかしたら今回もそうなるのではと懸念していたが、アビゲイルたちが釘を指してくれたことで安心する。
アリシアとて社交界デビューを控えている。
公爵令嬢として衆目を集めるわけにはいかないし、何よりフィオナのためにもならない。
視線の先ではフィオナが観念したように項垂れている。
アリシアは密かに彼女へエールを送った。
◆ ◆ ◆
「なんだか嬉しそうですわね」
夕食後。アリシアは入浴を済ませたフィオナの髪を彼女の私室で梳かしていた。
御側付きの侍女としての業務をこなしていると、不意にフィオナが鏡台越しに目を合わせながら不満げに訊ねてきた。
「そりゃあ嬉しいですよっ。遂にフィオナ様が社交界に出られるんですから、わたしも安心できるというものです!」
アリシアは喜色に声を弾ませてふふんと得意げに胸を張った。
益々不機嫌になるフィオナ。
彼女の綺麗な黒髪を丁寧に梳かしながら、アリシアは語り掛ける。
「どうしてフィオナ様がそこまでパーティーに出席されたくないのかは知りませんけど、いつまでもわたしが影武者になるわけにもいかないんですから観念してください」
「……わたくしたち、背格好が随分と似ているじゃない」
「はい?」
突然何を言い出すのだろうと、アリシアは聞き返す。
確かにフィオナもアリシアもすらりとした体躯は似通ってはいるが。
「瞳の色も同じ、サファイアのような青」
「そう、ですけど……?」
「髪の色は違うけれど、以前みたいに専用の染料で染めれば――」
「……フィオナ様」
そこまで聞いて、アリシアは彼女が何を言わんとしているのかを悟って手を止めた。
以前――アリシアが仮面をかぶってフィオナの影武者としてパーティーへ出席していた時。
亜麻色の髪を染料で黒に染めていた。
……つまり、この話の流れはまずい。
「お願いアリシア! わたくしの一生のお願いだからわたくしの代わりに誕生日パーティーに!」
「無理です無理です、今までとは違うんですっ。仮面は被れないんですよ? バレますよぉ」
「大丈夫よ。わたくし、特に親しい人間がいるわけではないもの。絶対にバレないわ」
「……それはそれで聞いていて悲しくなりますけど。って、ダメです! わたしも社交界デビューを控えているんですから!」
アリシアもとっくに十七の誕生日を迎えていた。
しかし、フィオナがまだ社交界デビューをしていないので主人を立てるという意味で先送りしていた。
フィオナがデビューを果たしたら、子爵令嬢であるアリシアも他貴族のパーティーに出席するつもりだった。
もし両方のパーティーに出席している者がいれば気付かれてしまう。
何より、今後フィオナが出席する際に違和感を抱かれてしまうだろう。
しかし、フィオナは譲らなかった。
「大丈夫よ、顔なんて早々覚えられるものじゃないわ。大抵は容姿の特徴を覚えていくだけだもの」
「……それは、そうですけど」
パーティーではたくさんの人と話をすることになる。
公爵令嬢であるフィオナともなればなおのこと。
その全ての人の仔細を覚えることはとてもじゃないけどできない。
大抵は髪の色や瞳の色、体躯や会話から得た印象などをその人の立場と紐づけて覚える。
(確かに一度ぐらい影武者をしてもバレないかもしれないけど……って、ダメダメダメ!)
ぶんぶんと頭を振って、アリシアは揺らぎかけた自分を諫める。
ここで折れたらフィオナのためにもならない。
「ダメですよ、フィオナ様。社交界は将来の婚約者を探す場でもあるんですから、今回ばかりは絶対にフィオナ様に出ていただきます!」
「…………わかったわよ」
口ではそう言いながらも、フィオナは明らかに不満そうにしていた。
これはもしかしたらまた一悶着あるかもしれないと、アリシアは嫌な予感をよぎらせていた。