19:暗雲
気障っぽい笑みを浮かべ、スーツのポケットに片手を突っ込んでいる茶髪の男をアリシアは知っていた。
スコット・オルブライト。
ここ数年で領内の経済政策が上手くいき、急成長を遂げているオルブライト男爵家の長男だ。
そして、アリシアにコンプレックスを植え付けた人物でもある。
あれはアリシアがまだ十歳の頃。
ちょうど建国祭の時期、祭りの夜会には参加しない子どもどうしが集まる場が設けられた。
その日、周りに同年代の子どもたちが集う中、スコットはアリシアの髪を軽くつまみながら言った。
――変な髪だなぁ、お前。
その言葉と共にドッと沸き立つ周囲。
以来、アリシアは自分の髪質を隠すようになった。
あれから七年。
こうして言葉を交わすのもそれ以来ぶりだが、不思議なことに顔も声も覚えていた。
アリシアは僅かに身を寄せながら湧き上がる不快感をぐっと抑え込んでにこやかに微笑む。
「お久しぶりです、スコット様」
挨拶を交わしながら、アリシアはホールの中へ戻ろうと手すりから離れようとする。
だが、その行き先を阻むようにスコットはアリシアの下へ歩み寄ってくる。
無遠慮な距離まで詰めてきたスコットは、アリシアの顔を覗き込むようにして告げた。
「アリシア、俺と婚約しろ」
「……っ、は、はぁ……?」
一体突然何を言い出すのだろうかこの人は。
アリシアは色々と言いそうになる自分を抑えながら愛想笑いを続ける。
「ご、ご冗談を」
「冗談なわけないだろ。お前、今日が社交界デビューなんだってな。つまり求婚してもいいってわけだ。もう一度言う。俺と婚約しろ」
(な、なんなのこの人……っ)
貴族のマナーも何もない。
アリシアは慌てて周りを見渡すが、誰もテラスには出ていない。
幸か不幸か二人の会話は誰にも聞かれていないというわけだ。
(まさか、それを見計らって……?)
突然の無作法な求婚、何より自分にコンプレックスを植え付けた相手からの申し出に混乱するアリシアだが、なんとか思考を巡らせる。
ひとまず本心を伝えることにする。
「その、スコット様が仰ったようにわたしはまだデビューしたばかりで右も左もわかりません。何よりスコット様のお人柄をあまり知りませんので、突然そのようなことを言われてもご返答に困ります」
「へぇ? フィオナ・ハトルストーン公爵令嬢の時は受けたのに?」
「……ッ」
なんで、と言い返しそうになる口を必死に噤み、動揺を悟られないように言葉を飲み込む。
だが、アリシアのその一瞬の反応で十分だったようだ。
スコットはにやりと口角を上げると、そのままにじり寄る。
「俺も驚いたよ。公爵家のパーティーに行ってみれば、フィオナ公爵令嬢に扮してお前がいるんだから。俺も最初は気付かなかったけど、今日のお前を見て確信したよ」
「な、何のことを仰られているのか……」
どうして、と聞き返すのを堪える。
それを聞けば認めてしまう。
自分がフィオナに扮してパーティーに出ていたことを。
(どうして、スコット様があのパーティーに……?)
フィオナ・ハトルストーンの誕生パーティーに招待されたのは伯爵以上の爵位を持つ家の人間だけだったはずだ。
だからこそアリシアは身バレを恐れることなくフィオナを装えたのに。
スコットの家は男爵位。招待されていないはずなのだ。
アリシアの態度に、スコットは得心が言ったように頷く。
「どうして俺があの場にいたのか、って気にしてんのか。なーに、仲良くしてる伯爵家の付添人って名目で潜り込んだのさ。お前はわかんないだろうけど、貴族ってのは人脈がすべてだ。特に俺みたいな男爵家の人間はな」
「っ、先程から何を仰られているのかわかりかねます。婚約のお話しでしたら、また日を改めて――」
「――建国祭」
「――ッ」
アリシアがこの場を離れようと社交辞令を交えた言葉を並べ始めたその時。
スコットは一層笑みを深く刻み、そのイベントの名を口にした。
「国中の貴族という貴族が王都に集まる。公爵も、子爵も、男爵も。その全員が一堂に。……わかるだろ?」
「……な、何を、仰られているのか」
「ふん、まあいいさ。俺もこの場で返答を貰えるとは思っていない。そうだな、建国祭の日にでも答えを聞く。……ただ、わかってるな? 建国祭の場でお前がフィオナ・ハトルストーンに扮していることが明るみになれば、ハトルストーン公爵家もプリムローズ子爵家も不問というわけにはいかないだろう」
建国祭が楽しみだ、と言いながらスコットに軽く肩を叩かれる。
スコットがホール内へ戻っていくその背中を、アリシアはテラスから呆然と眺めていた。
◆ ◆ ◆
「アリシア、どうかしたか?」
プリムローズ子爵邸への帰りの馬車。
普段と様子の違うアリシアを見て、サイラスが気遣わし気に声をかけてくる。
アリシアはハッとしながら苦笑交じりに応じる。
「少し、疲れちゃったみたい」
「まあ無理もない。だが、これでお前も一人前のレディの仲間入りというわけだ。中には求婚してくる令息もいるだろうが――」
「……ッ」
サイラスの言葉でびくりと肩を震わせる。
その様子を、ローズは見逃さなかった。
「なになに、もしかして早速声をかけられたの?」
「う、うん」
「まあ! 若い子は勢いがあっていいわね。それで、どこの家の方?」
「まだお受けするか悩んでるから、そこまでは言いたくない。その方にも後日改めてって」
「まあそうよね。アリシアちゃんもこれからたくさん出会いがあるもの。そうすぐに決める必要ないわよね」
「そうだぞ、アリシア。相手の家の格がどうとかじゃない。相手を見てどうするかしっかり考えなさい。もちろん、お前に気になる相手ができたなら、私たちも協力する」
「……うん、ありがとう。お父様、お母様」
嬉しそうにする二人に、アリシアは微笑みかける。
その時、目尻に薄らと涙が浮かんだ。
アリシアは二人にバレないように窓の外を眺めるようにして、そっと指先で拭った。