18:社交界デビュー
家族との穏やかな時間も一瞬で過ぎ去り、夜は明け、アリシアの社交界デビュー当日になった。
会場のあるレーン侯爵の領都まではおよそ二時間の道のりになる。
昼過ぎからの受付になるので、朝食をとってすぐにアリシアたちは準備をしていた。
昨日試着したドレスを纏い、黒のケープを羽織る。
マーガレットの手を借りながら軽く化粧を施して髪を整える。
彼女はアリシアが癖毛を気にしていることを知っているので、何も言わなくても編み込んでくれる。
「お綺麗ですよ、アリシア様」
髪を整え終えたマーガレットが背後から嬉しそうに声をかけてくる。
「大袈裟よ」
「大袈裟なんてことありませんとも。アリシア様なら殿方から引く手数多に決まっています」
「はいはい、ありがとう」
「……はぁ」
マーガレットの社交辞令を適当に流しながら、 すでに準備を終えているサイラスとローズの下へ向かうために部屋を出る。
すると、そこにはアーロンとソフィーの姿があった。
「二人とも、何してるの」
「姉さまが出て来るのを待ってたの。ドレス姿の姉さまを見たくて。兄さまはついで」
「つ、ついでってなんだよ!」
相変わらずな二人を宥めつつ、アリシアはその場でくるりと一回転して見せる。
「どう?」
「姉さま、綺麗……」
「に、似合ってると思う」
「ふふっ、ありがとう」
二人の頭を撫でつつ、アリシアは改めて両親の元へ足を向けた。
◆ ◆ ◆
プリムローズ子爵家はそれほど領地の規模は大きくなく、商業よりも農業が盛んなため、利率は低く収益は安定しない。
そのため子爵家が有する馬車は一台しかない。
アーロンとソフィーを屋敷に残し、両親と共に馬車に乗り込んだアリシアはぼんやりと前の席に並んで座る両親の姿を見る。
二人は楽し気に会話をしている。
お互いの顔を見て微笑んでいるその姿は、やはりとても羨ましいと思う。
「アリシア、どうかしたか?」
知らず二人をジッと眺めてしまっていたらしい。
サイラスがアリシアの視線に気付いて声をかけてくる。
まさか両親の仲睦まじさに羨望の目を向けていたとも言えず、アリシアは「あはは」と愛想笑いを返した。
サイラスはそれを緊張と捉えたのか、「心配するな」と微笑みかけてくる。
「今日のアリシアはパーティーに集う令嬢の誰よりも輝いている。自信を持ちなさい」
「ありがとう、お父様」
「そうよ、アリシア。凛と背筋を伸ばしているだけであちらから近付いてくるわ。お父さんみたいにね」
「それ、似たようなことをばあやにも言われたわ。二人とも身贔屓が過ぎるのよ」
「全く、困ったものね……」
なぜかため息を吐かれてしまった。
最近遠出することが多かったからか、二時間の道程はあっという間に過ぎ去った。
レーン侯爵領都へ入り、招待状を見せて侯爵邸に入ればすでにそこは大勢の人で賑わっていた。
「さて、私たちがいると色々と話しかけづらい者もいるだろう。社交界デビュー、楽しんできなさい」
サイラスの言葉でアリシアは二人と別れると、ホールが開くまでの間の待ち合い場所になっている庭園の広場で見知った顔がいないか探していた。
ちらほらと知っている顔が見えるが、アリシアの方から話しかけはしない。
何せ、向こうはアリシアのことを知らない。
より正確に言えば、フィオナに扮しているアリシアのことしか知らないのだ。
(間違って話しかけないように気を付けないと)
フィオナの時に会った者に話しかけて「お会いしたことがあったかしら」と訊ねられたら目も当てられない。
思わぬところに落とし穴があったと、アリシアは引き締め直す。
一度意識すると途端に緊張してくる。
アリシアは母の言葉を思い出して背筋を伸ばすことにした。
(なんだか見られてるような……)
公爵令嬢であるソフィアとして振舞っているときは注目されるのはある種当然のことだが、ただの子爵令嬢としている時に見られるのはあまり慣れない。
マーガレットに編んでもらった前髪を軽く弄っていると、不意に背後から声がかけられた。
「アリシア!」
「っ、ハンナ!」
振り返ると、そこにはアリシア・プリムローズをよく知る人物――ハンナ・エルトンがいた。
ハトルストーン公爵邸で二年ほど同僚として関わった仲で、お互いのことを親友に思っている相手だ。
「よかったぁ、ハンナがいてくれて。このまま一人で寂しく過ごすことになったらどうしようって思っていたところなんです」
「あはは、アリシアに限ってそれはないよ。それはそうと、今日はもしかして」
「そうなんです。実は今日が社交界デビューの日で」
「おめでとうっ」
「ありがとうございますっ。……ハンナさんは今日、モール伯爵家の婚約者として?」
ハンナは半月前、婚約を機にハトルストーン公爵邸を去っていった。
そんな彼女が社交界にいるということは、アリシアのように実家の娘としてではなく、婚約相手の婚約者として来ていると想像できる。
アリシアの想像は的中していたようで、ハンナは少し照れた様子で頷いた。
「そう。カーティス様の付き添いでね。今は向こうでお仕事の話をしているみたい」
ハンナの視線の先を辿れば、男性の集いができていた。
あの中の誰かがハンナの婚約者なのだろう。
その時、ホールの方から複数人のメイドが現れて、庭園からホール内へ招待客の誘導が始まった。
話の流れでアリシアはハンナと共にホールへ向かう。
ハトルストーン公爵邸と比べるといくらか見劣りはするが、今日のパーティーが建国祭の前夜祭を謳っているだけあって中に並べられている料理や飲み物はパッと見で上等なものだと見て取れる。
「そうだ、アリシア。あたしの知り合いに紹介して上げる。折角の社交界デビューなんだし、人脈は広げておきたいでしょ?」
「ありがとう、助かります」
人脈は人脈を呼ぶ。
こういう場に知人がいれば、その知人をつてにして人脈を広げられるが、知人がいなければどうしようもない。
アリシアも一人前の貴族令嬢として、こういう場に明るくなければ。
ハンナに連れられて令嬢の輪の中に入り、挨拶を重ねる。
中にはフィオナとして会ったことのある者もいたが、努めて初対面を装った。
ハンナが婚約者に呼ばれて場を離れたあとも、令嬢同士の会話に混ざる。
「あ、見てあの方、ドジル伯爵家のご子息よ。いつ見ても立派な方ね」
「でも最近財政が厳しいって話よ? ほら、去年の干ばつの影響で」
「あら。ということはあの仕立ての良いスーツも見栄ということ? いやねえ」
「落ち目の伯爵家よりも勢いのある男爵家の方が魅力的ではなくて?」
「男爵は格が離れすぎですわ」
令嬢同士の周囲の男性を値踏みするようなやり取りに適当に愛想笑いをしながらやり過ごす。
暫く彼女たちの会話を聞いて、アリシアは機を見て場を離れた。
「はぁあ、疲れたぁ……」
ホールのテラスに出たアリシアは、手すりに身を乗り出しながら外の景色を眺めて息を吐き出す。
フィオナとして出席している時にはあのような会話に巻き込まれることはない。
しかし悲しいかな、子爵家の息女として振舞わなければならない時はああいった会話に参加せざるを得ない。
何せアリシアを始めとするプリムローズ子爵家が特殊なだけで、大抵の貴族令嬢は家の格、そして自らの格を上げることのできる結婚相手をいつだって探している。
(少し休んだらまた戻らないと。社交界デビューでいきなり孤立なんて笑えないもの)
そうした貴族的な地位争いには興味はないが、貴族として生きていく以上避けては通れない道でもある。
アリシアは庭園の穏やかな景色を眺めつつ頭を休ませていた。
「――アリシア・プリムローズ子爵令嬢」
「っ」
背後から誰かが近付いてくる気配と共に声がかけられる。
その声を聞いた瞬間、アリシアは反射的に身を強張らせた。
嫌な予感と共に振り返る。
「久しぶり」
そこに立っていたのは、アリシアが会いたくない人物だった。