7.企みは艶やかに
わたしは恐る恐る顔を上げる。
目の前の一か月ぶりに会う、このリンドベルド公爵家の当主であり、結婚相手である旦那様は、わたしを逃がさんと言わんばかりに壁際に追い詰めていた。
わたしの思いは、なぜバレた。
これだけ。
こう言ってはなんだけど、この一か月でわたしの姿は様変わりした。
知っている人が見ても、すぐにはわたしとは分からないはずだ。
自分だって信じられないくらい変わったのだから。
それが、一か月前に初めて言葉を交わした相手なら特に分かるはずもない――そう思っていた。
「男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉があるが、女にも有効だな。少し見ないうちに随分毛色が綺麗に整ったな」
旦那様は顔の横に遊びで出ている後れ毛を手に取りさらりと弄ぶ。
下女の仕事のためにまとめている髪は、本日はライラ作。なんでも、後れ毛を出すのが今どきの流行りだそうだ。
でも後れ毛は当然少ししか出ていないので、旦那様の手が自然と頬に触れる。
というか、近い、近いです旦那様。
「毛並みが整いすぎて、その服はあまり似合っていないな」
下女のお仕着せに似合うも似合わないもない。
「あのー、あまり見ないでいただけると有難いのですけど……」
じろじろ見すぎですよ、旦那様。
女性に対してちょっと失礼です。
もの凄く迫ってきている旦那様と少しでも距離を開けようと、旦那様の胸を両手で押す。
「ところで、そんな格好でここで何をしているんだ? 何か楽しい遊びでも思いついたのか?」
「えーと、そんなところです! あ、わたしちょっと用事がありまして――」
「どんな用事だ?」
「そ、そのぉ……」
何か言い訳を――と考えているうちに、手が伸びてきて、顎を掴まれグイッと顔を上げられた。
背には壁。
そのままゆっくりと壁に押し付けられる。
「ほう? 言えない危ない遊びかな?」
赤い瞳が捕食者の如く輝き、わたしは背筋に汗が流れた。
「い、いえ、そんな事はないのですが」
「では、教えてくれ。夫婦の間には隠し事をすると碌なことにならないと、お歴々から言われているんでな」
放して下さい、お願いします。
なぜかとても嫌な予感がするので。
片手は壁に付き、もう片方の手はわたしの顎を掴んで放さない、旦那様は、顔を寄せてきて、耳元で囁く。
「なかなか、興味深い。この一か月なんの音沙汰もなかったので、どうなっているのかと思いきや……なんとも楽しそうだな」
「ひゃ!」
く、くすぐったいです、旦那様!
変な声が出てしまいましたが、ぜひ聞かなかった事にしてください。
「可愛い声だな――なぜかとてもイジメたくなる」
いきなり雰囲気が怪しい流れになっていく。
ちょっと待ってください旦那様!
一か月ぶりの再会に、もっと何かいう事ないですか?
お互い冷静に話し合いましょう!
むしろ、あなたはここに住んでいる子爵令嬢のエリーゼに会いに来たんですよね!?
わたしなんかに構っていていいんですか?
押さえつけられた身体で、なんとか藻掻いて抜け出そうとしても向こうの方が圧倒的有利な立場だ。
何が悲しくて、こんなところで旦那様に嫌がらせをされなければならないのか。
「ちょ、ちょっと! お待ちください!」
「何を待つ?」
「せ、せめてお部屋で話し合いましょう! ぜひそうしたいです! その前に、旦那様は子爵令嬢に会いに来たんですよね? どうぞわたしの事は後回しで結構ですよ?」
こんな往来のある廊下でやめてほしい。
誰かに見られでもしたら、邸宅内に一瞬に広まる。
やめてほしい。
今、とても平穏無事に暮らしているのだから。
「エリーゼには少し言いたいことがあっただけだ。リーシャを後回しにするほどの用事ではない。でもそうか、部屋か――……なるほど。積極的だな、奥様?」
ふっと口角を上げる姿に、失敗した! と瞬時に悟る。
「でも、悪いが私は今ここで少し戯れたい気分だ。なにせ一か月ぶりだ。夫婦の再会を楽しもうじゃないか。もちろん、付き合ってくれるだろう? その後はたっぷり部屋で可愛がってもいいな」
顎から手を外し、首筋を辿るように掌で撫でられる。
そのくすぐったさにびくりと肩が震え、自由になった顔をそむけると、首筋が無防備にさらけ出されて、濡れた感触がはっきりと伝わってきた。
それと同時に顔にかかる硬質な髪。
「ひっ! やぁ!」
こんな経験当然ながら初めてだ。
何が悲しくて、真昼間の邸宅の廊下でこんな事をされているのだろうか。
相手は確かに正当な権利を持ってわたしを弄ぶことが出来る相手だけど。
身体にぎゅっと力が入る。
それをほぐす様に、舌で舐められ、手で身体の線を撫でられた。
いつの間にか、いくつかボタンが外され、胸元が開かれている。
なんて早業。
その胸元に唇が寄せられて、キツく吸われた。
「いたっ!」
チクリとした痛みに、わたしは抗議するかのように、身体に回されている腕に爪を立てた。
「子猫のような抵抗だな」
嫌味たらしく苦笑して、顔を上げた旦那様は、どこか満足そうに窓の外を見ていた。
その視線に、わたしもつられて窓の外を見ると、そこには鬼の形相をした豪奢なドレスを着た若い女性がこちらを睨みつけていた。
明るい茶色の髪と瞳で一般的には美人の部類だけど、見る影もないほど歪んでいて、とっても怖い。
この時間にそんなドレスを着ている人は一人しかいない。
――この男!
「さて、では約束通り、部屋でもう少し可愛がってやろうか。珍しく時間があるんだ。もちろん、付き合ってくれるだろう?」
「……嫌だと言ったら?」
選択肢は一つしかないけど、苦し紛れに生意気にもそう答えると、旦那様はそっとわたしの頬に手を当てて、腰に回した腕をグイッと自分の方に引き寄せる。
その意味に気づき、わたしは必死で抵抗した。
しかし、向こうの思うがままだ。
誰もが認める男前な美貌がわたしの瞳いっぱいに移り込んだ。
目をいっぱいに見開いていると、唇に吐息がかかる程顔が近づく。
少し開かれた赤い瞳は、とても綺麗な紅玉で、仄かに影を宿していた。
その瞳の輝きに、背中にゾクリと悪寒が走る。
「これでも、断るか?」
顔の正面でにやにやと笑いだしそうな気配を漂わせている旦那様は、そのままわたしを抱え込む。
どこからどう見ても、口づけをしているようにしか見えないそれに、外のお方がどう思うか考えたくもない。
涼し気な様子の旦那様を下から睨みつけていると、奥からざわめきの声と共に、慌ただしい足音が響く。
旦那様は軽く息を吐くと、わたしを軽々と抱き上げた。
「そのまま、顔は隠しておいた方がいいぞ」
つぶやかれた言葉に全ての敗北を悟り、わたしは黙って旦那様の胸に顔を埋めて隠すことしか出来なかった。
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