25.名前の威力
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よろしくお願いします。
名前、それは個人を特定するものであり、名称でもある。
そういえば、わたしは旦那様を名前で呼んだことはあっただろうかと考えた。
うん、一度か二度くらいは呼んだこと……たぶんある、うん、おそらく。いや、あったかな……。
特別不自由していなかったし、旦那様自身何も言わなかった。
「先に言っておくと、君は一度も私の名を呼んだことはない」
「そ、そうでしたっけ? 一度くらいはあった気が……」
「ない」
旦那様に断言されてしまった。
いやー、確かに記憶のある限りない気もしますけど、でもどうして突然と思わなくもない。
ただ要求が意外と大したことないと思って、少しほっとする。
「ええと、名前で呼ぶくらいは大丈夫ですけど……」
「では今後は名前で呼んでくれ」
「一つ確認したいんですけど、どうして突然名前を?」
もし気になっていたのなら、すでに何か言ってきてもおかしくない。
結婚してだいぶたつのに、このタイミングでなにかあるのではないかと勘繰ってしまう。
「特別理由がないと駄目なのか?」
逆に問われて、わたしは指を頬に当て考える。
夫婦だし、名前で呼ぶのは普通だ。むしろ、わたしの呼び方の方が少数派。
「いえ、特別理由は必要ないでしょうね。でも、わたしは気になるんですよ。旦那様が突然何か提案するときは、その裏に何か隠れているんじゃないかって疑ってしまって」
「君は私をなんだと思っているんだ」
呆れ顔の旦那様が、深くため息を吐いた。
「リーシャが疑い深くなるのもわかるが、ここ最近は何もしていないだろう。むしろ、好意的に接しているつもりだが? まあ、あえて言うのなら、もう少し親密度を上げていこうと思った」
「名前で呼ぶと親密度が上がるんですか?」
「少なくとも、もっと身近に感じるだろう? 旦那様では、いまだに夫として認められていないように感じていた」
そんな事ないんだけど……。
「それに、ベッドの中でも“旦那様”と呼ぶ気か? さすがに遠慮したい」
「はい?」
ニヤリと口角を上げて旦那様が言った。
「君は、ベルディゴ伯爵家を継ぐ子供を産まなければならなくなったと自覚しているか?」
「あ、あれは……まあ、無理なら国に返還するっていう感じで……」
「どうして試してもいないのに無理だと結論付ける。それは、私とは生理的に無理ということか? さすがにそれは少し傷つくんだが……」
旦那様が静かに立ちあがり、わたしの方へ近づいてくる。椅子の背に手を置き、ぐっと顔を近づけてきた。
「ほんの少しも、私には希望がないのか?」
窓から差し込んでくる夕日が、旦那様の髪を照らし、真剣な深紅の瞳が妖しく輝く。
「わ、わたしは……」
「家庭環境のせいで一歩進めないのは分かっているが、一歩くらいは踏み出してほしい。これでも結構努力してるつもりだが、まだ信用してもらえないのなら、むしろどうすればいい? リーシャは私にどうしてほしいんだ?」
そんな事突然言われても、よくわからない。
本当は、信用できないと言い訳しているのは自分だと気づいていたけど、それを認めれば、その先の事を考えないといけなくなる。
未来を考えるのが怖い。
わたしは返事をすることもできずに、黙って俯いてしまう。
旦那様の瞳を見れなかった。
静寂が部屋を満たし、わたしは何か答えなければと考えていると、膝の上の影が動くのを視界にとらえ、同時に優しく髪をすくように頭をなでられた。
「悪かった。そんなに悩むなんて思わなかったんだ」
「そんな、事は……」
ゆっくり顔を上げると、今度は肩を抱きしめられた。
旦那様の心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。
「こういう触れ合いは、本当は気持ちが悪かったか?」
「だ、大丈夫です」
時々意地悪するかのように旦那様が手を出してくるけど、嫌ではなかった。
でもそれは子供同士のじゃれ合いのようなものだ。
わざと旦那様がそういう雰囲気で接してくれていた。だから、わたしも悪態をつきながら、本気で嫌がったことはない。
しかし、今は甘いと感じる触れ合いに、緊張して身体がこわばった。
夕日のせいか、顔がやたらと熱い。
「すみません、慣れていないんです。いろいろと……」
「甘えていいぞ? 思う存分。リーシャの一人や二人受け止めるくらいの度量はある」
「でしょうね」
ゆっくりと身体から力を抜き、旦那様の肩口にこてんと額を押し付けた。
「本当のところ、わたしにもよくわからなくて。自分の気持ちなのに、どう表現していいのか……」
「初恋なら、なおさら戸惑うだろうな」
………………ん?
なにかおかしい言葉が聞こえてきた。
思わず顔を勢いよく上げて、旦那様に確認してしまった。
「は、初恋?」
「違うのか? どうみても君が私に恋しているようにしか見えないが?」
「はいぃ!? どこからそんな想像力たくましい答えが?」
「顔、真っ赤だぞ」
ハッとして手で顔を隠そうとする。
「ち、違います! 夕日のせいで赤くなっているだけです!!」
「それなら隠さなくてもいいな?」
必死なわたしの弁解をわかったわかったと軽く流す旦那様。
「恋かどうか、ミシェルあたりに相談してみればいいじゃないか? 男だがコイバナ好きだって言っていたからな」
「聞いた瞬間、面倒なことになりそうだから絶対嫌です」
今でさえ、いろいろ疑っていて面倒なのに。
これ以上ミシェルがおもしろがるようなネタを提供したくない。
「その辺はもうしばらく待つが、とりあえず名前は今からだ」
「その辺ってどの辺ですか!? 別にわたしは恋とか恋とか初恋とか、してませんので答えを待たなくて結構です!」
「名前は?」
一向に名前を言わないわたしにしびれを切らして、旦那様が語尾を強めた。
わたしはなぜか旦那様の顔を直視できなかった。
期待しているかのような旦那様の瞳が、早く呼べと言っているように感じ、先ほどまで名前くらいどうってことないと思っていたのに、今は緊張していた。
ものすごく恥ずかしい儀式を強要されているような気分になり、わたしは恥ずかしさを誤魔化すように大きな声で、顔を背けながら言った。
「クロード様! これでいいんでしょう!?」
自棄になりながら、叫ぶと、首筋に旦那様の髪が触れた。
「ちょ、ちょっとなんですか!」
旦那様の頭が肩に乗せられ、何事かと慌てる。
「いや、なんというか――、かわいいな?」
「馬鹿にしてます?」
「どうしてそうひねくれる。素直にかわいいと言っただけだ」
肩から伝わる振動は、旦那様が笑っているのを伝えてくれた。
これで馬鹿にされていないと信じる方がどうかしてる。
しばらくすると旦那様が身体を起こし、ようやく腕の中から解放された。
「この先もその調子で名前を呼ぶんだぞ?」
「努力します」
努力はするけど、慣れてしまった呼び名を突然変えるのが難しい事は理解してほしい。
「クロード様、今日は本当にありがとうございました」
本当に、いろいろと。
「たまにはいいところも見せないとな」
旦那様が身をかがめ、こめかみに口づけた。
いつもなら、やめてほしいと心の中で叫ぶところだったが、今回の触れ合いは心地よくて、自然と受け入れていた。
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