ユダの福音
砂漠を彷徨い、うなだれるユダ。
そのユダの前に謎の青年が現れる。
太陽は中空にあり、全ての生物を干上がらせようと灼熱の煌めきで砂地の平原を焼いている。
虫すら地中深くで太陽を避けている。大地に生命の影は無い。ただ一人、その男を除いて。男は上半身が裸で、痩せた老人だ。足運びはしっかりしているが、歩くこと自体に疲れを感じさせた。
砂漠の熱と光が、老人の両眼から水分を奪っているのだろう。時折、目をごしごしと拭っている。右手には荒縄を持ち、左手に革袋を持っている。旅人が持つ水筒代わりの袋では無い様だ。
砂漠に奇跡の様に枯れたリンゴの大木が立っていた。
老人は大木に背を預けると、全身の力が抜ける様にへたり込む。
そのとき、老人を覆う様に影が射した。
俯いていた老人はゆっくりと顔を上げる。その顔は涙に濡れていた。
「……ああ、あんたか。あんたがこの老人に死を告げるのかね?」
何時、現れたのか? 老人を見下ろす様に東洋人の青年が立っていた。その姿は、老人には陽炎に揺らめいている様に見えた。
青年は感情の読み取れない不思議な笑みを浮かべて、顔を左右に振った。
老人の顔に大きな落胆の色が浮かんだ。
「分かっとるよ。死ぬも生きるもわたしの決断だと言うのだろう? だが、わしは死なねばならん。生まれる前からそう決められていた。
なに? 死なない人間はいない? 分かっとるよ。だが、わしは自ら死ぬのだ。天寿を全うして死ぬのとは訳が違う。自ら死ぬ人間がどういう運命をたどるか、知らぬお主ではあるまい」
青年は軽く笑った。
「そこで笑うか? 愚弄するのか? 若いの。
わしは死なねばならない。唯一神と救世主と契約を交わしたのだからな」
「―――唯一神は自らの内にあるもの。死にたくないなら枷を背負って苦しみ抜いてみろじゃと? 分かったようなことを言うな。わしの名は裏切りの代名詞として世界へ広がるのだ。それがわしの背負った運命なのだ。わしが全人類の裏切りを背負って死なねばならんのじゃ。遠い未来から来たお主は十分に知っとる筈じゃ」
「だから来た? どう言う意味じゃ? わしの選択と死ぬときは最後まで看取る為に来たと? 時を渡って―――それは感無量じゃな。わしは一人ではなかったのか。それは嬉しい。嬉しいぞ。福音書の冒頭が書けずにいたが、これで書ける。主に預けて良いのかな?」
青年は大きく頷いた。
「神は言われた。わしの福音書が世に出るとき、それはアルマゲドンの始まりを告げるラッパじゃと。なに? それは神ではないと? 神とは完全なる『無』にして絶対。その最初の音こそが、わしの神だと言うか。救世主殿も似た事を言われていた。そのとき、わたしは意味が分からなかったが、死を前にした今なら分かる気がする。
のぉ、主は最後の審判を受けたのか?
なに? 最後の審判はもうなされたが、それに気づいた者は殆どいないじゃと?
なるほど。救世主殿が貼り付けにならねばならぬのも道理じゃな。お可哀想なお方じゃ」
青年は老人の横に座る。なにか囁いた。
「なに? 哀れなのはわしじゃと? 生き延びても世界は変わらぬとはどう言うことじゃ?」
「エホバ? エホバじゃと! それは異界の魔の王ではないか? 唯一神はヤーベじゃ。どう間違えればそうなる? 世界中に教会が出来るが、全ての教会に救世主殿の像があるじゃと! 偶像崇拝こそが人を堕落へ誘うと言う救世主殿の教えに糞を投げる様なものではないか? 誰も、只の一人も異を唱えなかったと言うのか? エルサレムを巡って戦火が絶えないじゃと? なぜ、聖地を血で汚す。エルサレムは人の心にあるとの教えは遂に理解されずに終わったのか? 何と言う絶望。何と言う地獄じゃ。なるほどわしの福音書が必要とされる意味が理解出来た。しかし、若いの。そのような末世でなぜお主は時を渡るほどの力と教えを得たのじゃ? セラフィムと言う名の天使に教えを授かったと言うか? 汝は最後の審判を受けておらんじゃろ? 受けていれば、時を渡ることはあたわぬ筈じゃ。免除を受けたと? 古き神々より輪廻の輪から外れることを許されたと? 若いの。それではお主こそ哀れではないか? 人の身で人を超越する孤独は耐えがたいものと思うが? ああ、だから、こうも何度もわしの前に現れてくれたのか。理解されぬ孤独を抱えた者同士の傷の舐め合いであったか!」
泣いて、気力も枯れていた老人が呵々大笑した。
笑いながら老人はズボンのポケットから羊皮紙の巻物を取り出し、ペンを走らせる。書き終えると、バトンを渡す様に青年に羊皮紙の巻物を手渡した。
「伝えてくれ。後生の生き地獄に苦しむ者達に。僅か一人でもエルサレムに至れば、裏切り者のユダは栄誉な称号となるじゃろう」
老人は、かってユダヤ教の神学者であり、自分の息子よりも若い救世主の教えに真の道に目覚めたユダ。十三人の弟子の中で、救世主の教えを最も良く理解し、それ故に、集団に紛れて身を隠す救世主を見いだすことが出来た男。自分が救世主を裏切らなければ、救世主を救世主たらしめることが出来ないことを理解していた男。ユダは喜々として枯れたリンゴの木の枝に荒縄をくくりつけている。
「では、わしは旅立つ。見届けるが良い」
青年は立ち上がると老人に向かって立つ。
老人はニコニコしながら、荒縄に首を突っ込み、ぶら下がる。顔がみるみる鬱血し、足をバタバタと機械的に動かして、やがて、全身の痙攣を経て、ユダは死んだ。
青年はぶら下がり、動きを止めたユダの遺体に十字を切ると
「ユダよ。汝に祝福あれ。汝は汝の義務を果たした。我は汝を神の名を持ちて祝福する。心満ちて道を渡れ。アーメン」
その祈りを以て、陽炎の様に揺らめいていた青年は羊皮紙の巻物を手にしたまま、本当に陽炎の様に消え失せた。
(了)
ユダは裏切り者ではないと言う信念から書いた掌編です。