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1・2

あの頃は大人だと思っていたのに、今思えばまだまだ子供だったり。

その歳になれば大人になれると思っていたのに、なってみればそうでもなかったり。

そんな葛藤や苦悩を私なりに等身大で書いてみたいと思い生まれた物語です。

拙い文ですが、暇つぶしのお供になれば幸いです。

1.  予兆


 「おい、いちごちゃーん!」

 小学生の男子が数名、こっちを見ていた。全員、見知った顔だ。その中のボールを持った一人が、どうやら俺を呼んでいるみたいだった。

 「い、いちごちゃんじゃないよ!!ぼく、さとるだもん…!」

 「うわ、いちごちゃんが泣いたー!」

 「なきむしー!」

 これ見よがしに声を上げる彼らに腹が立って、でも何も言い返せなくて涙が出た。

 「ねぇ、なんで泣いてるの。」

 淡白な女の子の声が聞こえて―――

 アラームが鳴り響いた。昨日脱いだままの服がだらしなく椅子にかかっている。毎朝見る自分の部屋だ。むっくりと起き上がって掛け布団を持ち上げると、冷気が足を撫でた。

 「ふわぁ…」

 首の後ろを掻けば、じんわり汗をかいていた。一度シャワーを浴びなきゃな…そう思ってとりあえずパンツを出し、そのまま風呂場へ向かった。さすがに風呂場は換気されていてこの時期はまだ寒い。

 熱めのシャワーを浴びてそのまま髪をセットし、食べ物を求めて台所へ向かう。リビングには母の置手紙があった。

 『今日は遠山くんのお母さんと朝から出かけてきます。昨日の夕飯の残りが冷蔵庫にあるので食べてね。 真弓』

 置手紙は捨てるのが嫌だからメッセージを送ってくれれば良いといつも言っているのに、母さんはいつも何かあればこうして手紙を書く。母曰く、メッセージは味気ないらしい。

 「分らなくはないけど…相変わらず遠山のお母さんと仲良いなぁ…。」

 遠山は高校時代の友達で、家もそんなに離れていないから今も連絡を取り続ける仲だ。子供同士が仲良ければ自然と親同士も知り合う。

 指示通り冷蔵庫にあった夕飯の残りを温めて食べ始める。行儀が悪いと知りながらスマホを開いてスケジュールを見た。今日は午後からの講義だけだった。

 「えー…」

 今は朝九時半。早起きし過ぎたと後悔する。先日春休みが開け、大学生活にも慣れた二年生だ。入ったサークルはいわゆる『飲みサー』で、ノリが合わずに行くのをやめた。そんな大学デビューしきれなかった俺は、講義だけは真面目に行くつまんない奴になってしまった。

 「…何か、面白いことできないかな…」

 今思えばきっとこの時、そう思ったのは奇跡に近く、運命的な何かがあったのだと俺は思う。

 

2.  懐かしのトラウマ

 このまま家にいても仕方ないと思い、とりあえず大学に行く用意をして外に繰り出す。バイト先のカフェを避けて通りながら駅へ向かい、大学周辺の商店街をぶらついてコーヒーを買おうと列に並ぶ。さすがに大学の近くだからか若者が多い。

 「え、っと…ラテをお願いします。ホットのМサイズで。」

 財布の中を見て小銭を取っていると、十円が一枚零れ落ちてしまった。

 「あ…!すいません、これで!」

 レジの女の人にぴったり代価を渡し、転がって行ってしまった十円を急いで振り返る。十円と言えどお金はお金。必死で探すのも気が引けたが辺りを見回すと、すらりとした美人が目の前に拳を突き出した。全身ほぼ黒で統一されているからか不思議な雰囲気に引き込まれる。

 「はい。」

 手のひらを広げ受け取って顔を上げ、きちんと目が合った途端背筋がすっと冷えた。

 お礼を言おうと口を開けるが、乾いてまともな言葉も出てこない。たったの数秒だが見つめ合うと、冷めた目が少しだけ開かれる。

 「…いちごちゃん?」

 心臓が握られたかと錯覚するほど収縮した。

 「林堂、豪…」

 掠れた声で彼女の名前を言えば、不満げに口が閉じられた。

 「ひ、久しぶり…」

 とりあえず笑顔を浮かべれば変わらない冷たい両目でじっと見つめられる。いつのまにか時が止まっていた両方の耳にようやく周囲の音が届く。周りは俺と同じくコーヒーを待つ人がいて、その多くが目の前の林堂に向けられているのが感じられる。それくらい容姿が整っているのだ。

 「…変わってないね。その笑顔。…可愛くない。」

 また心臓が跳ねる。彼女が口角を上げると、体が固まったのが自分でも分かった。

 「ラテでお待ちのお客様―?」

 「あ…は、はい!」

 雑音の中から聞こえ、少し大袈裟すぎる音量で返事をして弾かれたように取りに行く。ラテを受け取ってゆっくり振り返ると、彼女はまだそこにいた。どうやら待っていてくれているようで、顔には出さずに心でため息を落とした。

 「…あの、授業とかは?」

 彼女は俺の笑顔が好きじゃないんだ、そう自分に再度言い聞かせて視線を別のところにやりながら尋ねる。なんとなく歩き出した彼女に合わせ踏み出す。

 「さっき終わって次は午後イチ。お昼は?」

 「まだだけど…林堂もまだなの?」

 彼女は眉をしかめて立ち止まる。

 「りんごちゃん、て呼んで?」

 りんどうごう、だから彼女はりんごちゃんと呼んで欲しいといつも周囲の人間に言っていたのは今でも健在らしい。

 「ごめん…いや、でも流石に大学生だし…ちょっと恥ずかしいんだけど。」

 苦笑して言うと、彼女は大きく息を吐いてじろりと不躾な視線を浴びせてきた。

 「いちごちゃん、も嫌?」

 「嫌、かな…」

 視線を逸らして言えば、彼女は特に気にする素振りも見せずに前を向いて、手に持つアイスティーのストローを噛んだ。

 「あ、りんごちゃん!おはよー!」

 友達であろう女の子のグループの挨拶を、彼女は軽く手を振るだけで済ませる。

 「いや、せめておはようとかは返そうよ…」

 小声で呟いてみたが、そんなことを気にするような性格ではない。と思う。

 思い返せば、彼女とは幼稚園から一緒だった気がする。小学校になって同じクラスになり、悟の漢字を五と読み、あのあだ名を付けられた。それ自体は嫌じゃなかった。しかし、それから他の男子生徒にいじめられるようになり…

 「豪ちゃん!」

 目の前に突然カラフルな色が飛び出してきて網膜を刺激する。真っ赤なスカートに白いシャツ、黄色いカーディガン…夢の国かと目を瞬かせていると、真反対の色味の林堂は嫌悪感をあらわにして目の前の女の子を見た。

 「偶然だね!お昼はまだぁ?一緒に食べようよぉ!」

 猫なで声が耳につくその女の子は訝し気に俺の方を見て警戒するように林堂の腕を引いた。

 「いち…この人と食べるから遠慮する。」

 しかし絡まれた腕は乱暴に解かれ、林堂は目も合わさずその子にそう言った。彼女に恨めしそうな目で睨まれ、俺は必死に笑顔を浮かべて言う。

 「いや、俺は一緒でもいいんだけど…」

 「私は良くない。松城は他の人と食べなよ。じゃ。」

 初めてこんな冷たい言動をする彼女に驚きを隠せず、茫然としたまま真っ黒な背中について行った。明らかに機嫌が悪そうな彼女に話しかけることもできず、遠ざかっていく悔しそうな顔をしたあの子を振り返ることもできずただ歩く。途中空になった飲み物のカップを捨て何度か角を曲がると、ピタリと林堂は歩みを止めた。

 「…ここでいい?」

 「え?」

 振り返った彼女は何事もなかったかのように変わらない涼やかな顔をしていた。その指差す方を向くと、控えめなサイズのイタリア国旗が掲げられている小ぢんまりとした静かそうなお店だった。

 「ああ、う、うん。」

 大学の門からそう遠くない場所に洒落た店があるものだと頭の中で経路を確認する。一年以上も大学へ通っているのにここを知らなかったことを残念に思った。

 「いらっしゃいませ。」

 「…二人です。」

 「では窓際のお席へどうぞ。」

 入り組んだ場所にあるお店だ、学生は意外にもいなくて落ち着いたBGMが心地良かった。壁際の席を彼女に譲り腰を落ち着けると、店員さんがすぐにメニューとお水を持ってきてくれた。

 「ありがとうございます。」

 「いいえ、お決まりになりましたら呼んでくださいね。」

 気の良さそうなおばさんで良いお店だな、と林堂を見る。

 「ここ、何度か来たことあるの?」

 「…まぁ。」

 素っ気ない返事の彼女に苦笑いをしてメニューに視線を移す。あまり種類が豊富ではないが、優柔不断な自分には丁度いい。

 「い――決まった?」

 さっきもそうだ。いちごちゃんと呼ぼうとして止める。一応気にするんだ、と思ってなんとなく人間らしいところに微笑ましくなる。さっきまであんなに気にしていた自分が小さく思えた。

 「いいよ、いちごちゃんでも。もう。」

 そう言うと彼女は何度か瞬きをして、何事となかったかのように店内を見回した。

 「あ、決まった?すいません。」

 俺が声を掛けるとすぐに店員さんは来てくれて、カルボナーラと、林堂はボロネーゼを注文した。

 「…変わったと思ったけど、そうでもないんだね。いちごちゃん。」

 改めてそう呼ばれるとまだ少し後ろが気になるが、次第に慣れるだろう。そう自分に言い聞かせて水を飲みこむ。

 「そ、そうかな…?」

 「おどおどしてるとこ。人を気にすること。お人好しなとこ。」

 それは全て少し年の離れた姉に言われたことがあった。ぐうの音も出ない俺を見て情けなく哀れにでも思ったのか彼女は少し口角を上げた。

 「…いちごちゃん。」

 「えっ?な、なに?」

 彼女はテーブルに肘をつき、口元を手で覆うと考える様に目を伏せて黙った。気まずさに奥のキッチンの方を見ると、白髪のコック服をきっちり着たおじさんが湯気の合間に見えた。

 「――一ノ瀬、だよね。」

 唐突に呼ばれ絶句する。まさか今までの時間も俺を呼ぶ時にいち、までしか言えなかったのも、名字を思い出すためだけだったのだろうか。

 「…違った?」

 「……一ノ瀬、悟です…。」

 言い表せない感情が押し寄せ、肩を落とす。

 「ああ、さとるっていうのは覚えてた。小学生にあれは読めなかった。」

 「まぁ、そうだよね…あはは。」

 自分でも思う不謹慎な乾いた笑い声で誤魔化す。こんな作られた笑顔可愛くないと言われるのも納得できる。

 「…そのせいでからかわれてたよね。」

 一気に体中の血が凍り付くような感覚に手が震える。冷淡な目で真っ直ぐに俺を見てくる林堂から目を離せずに、口角が引きつる。

 「……ごめんね。」

 その一言で淡くなっていた視界に色が戻る。

 「え…っ?」

 いつの間にか目を逸らしていた彼女を見て、自分が冷や汗をかいていたことに気付く。首筋がひんやりしていた。

 「いや…」

 あんなものは、子供のちょっかいだと今ならば分かる。ただその標的が俺だったというだけだ。それに、俺は――

 「俺、最初からかわれててもへらへらしてたからさ…」

 だから次第に嫌がらせにも繋がったのだ。傍から見れば子供が遊んでいるだけだったが、自分が常に下に見られるというのは良いものじゃない。

 「でも、助けてくれたじゃん。」

 堪らなくなって泣いた時、目の前に立ってくれたのは彼女だった。ハッキリ言えるその背中に憧れを覚えた感情はまだ継続中だ。林堂は、かっこいい。

 「……そんなの…。元は私のせいだからね。」

 目も合わせず歯切れの悪い彼女を見て笑みがこみ上げる。俺と同じように、彼女もそれを覚えてくれていて、罪悪感まで持っていたと聞いた今、なんとなく心も晴れやかだった。

 「お待たせしました。はい、ボロネーゼとカルボナーラでございます。」

 丁度良く出てきた美味しそうな一品に目を輝かせる。ベーコンと半熟卵、胡椒とチーズの香りが食欲を掻き立てる。

 「わ、ありがとうございます。」

 コトン、と置かれた皿に林堂も会釈をしてフォークを持つ。

 「いただきます。」

 想像していたより美味しいパスタですぐに平らげてしまった。林堂の頼んでいたボロネーゼも肉がゴロゴロしていて美味しそうだったし次はそれを頼もうと思っていると、彼女は口を拭いて気怠そうに視線を上げた。

 「…ここ、おすすめ。」

 「うん、また来るよ。ありがとう教えてくれて。」

 俺が笑うと、彼女も微笑んで立ち上がる。イメージが冷たい顔だからか笑顔がいつでも新鮮に見えてソワソワしてしまう。

 「ご馳走様でした。」

 「あ――」

 やはり男が払った方が良いのだろうかと一瞬脳裏を過ぎて駆け寄ろうとするが、ピッと店の外を指した指に止められた。

 「一ノ瀬はいい。その代わりそこの店の紅茶、買って。」

 「へ…あ、うん…いやでも」

 「Mね。氷抜き砂糖ひとつ。早く。」

 「は、はい。あ、ご馳走様でした!美味しかったです!」

 有無を言わさぬ口調で追い出され、レジに並ぶ。横にあるショーケースの中に飾られるように並んだケーキやクッキーを見て頭を悩ませる。甘いものは、好きだったかな…。

 「えっと、紅茶を二つ、Mサイズで氷なしでお願いします。っあ、あと――」

 店の前で待っていた彼女に渡すと、なんとも言えない微妙な顔をされた。

 「…ごめん、嫌いだった…?」

 「いや…」

 彼女の左手には紅茶、右手には半ば俺が衝動的に買った、レジ横にあったクッキーの袋が乗っている。やっぱりお菓子はあんまり食べないのか、と心配する俺を他所に彼女はそれをじっと見つめた。猫のクッキーが可愛いなと思ってつい買ってしまったのだがやはり気に入らないのだろうか。

 「…これ、美味しいんだ。ありがとう。」

 その割には眉間にしわが寄っていてとてもお礼を言っているような顔ではない。

 「え、そう…?良かった。ごめんね、払わせちゃって。ご馳走様でした。」

 「無理に連れてきたのは私だから。」

 またさらりと言って歩き出す。時間的にもう大学に向かう頃合いだ。

 「色々話せて良かったよ。」

 「…そうだね。」

 「そういえば、学部は?」

 「外語。…一ノ瀬は?」

 「俺は、総合情報。」

 ふぅん、と興味のなさそうな声が帰って来る。

 「でも驚いたな、まさか林堂と会うと思ってなくてさ――」

 「りんごちゃん。」

 ピタリと歩みを止め、嫌そうな顔でもう一度繰り返す。

 「りんごちゃん、て呼んで。じゃないと会話しない。」

 目の下にまでしわを寄せ、本当に嫌そうな顔をしているのが心に引っかかった。

 「ごめん…」

 何で、の言葉を飲み込んで代わりに口にした言葉に、りんごちゃん は顔を背けた。

 「…何で総合情報にしたの。」

 すっと半歩前を歩く彼女の顔はもう見えないが、空気を変えようと気を使ってくれたのは流石の俺でも察しが付く。

 「えっと、オールラウンドだし?特にやりたいこともないからさ。」

 「…へえ。」

 「……りんごちゃん、は?」

 「留学してたから。」

 呼ぶのにかなり勇気を要したが、素っ気なく返された理由にくっと喉が詰まった。

 「え、そうなんだ…俺は、ずっと流されてきたから……羨ましいな。」

 彼女が急に大人びて見えてしまい、真っ黒の背中から目を逸らす。何も自分が貶されている訳ではないが、並んで歩く道が狭く感じた。

 「すごいね、アメリカとか?」

 急に振り返った林堂は真面目な顔をして、俺の顔を覗き込む。

 「…いちごちゃんはいつかストレス抱えて死んじゃいそう。」

 じゃあ、と彼女は軽く手を上げると数多の学生の波に吸い込まれてしまった。また、俺は乾いた笑顔を浮かべていた。

 重いため息をついて教室のある棟へ歩き出す。

 雑多な足音や挨拶の声、会話。それを遮断するかのように音量を上げたイヤホンを耳に突き刺して歩く。こうしていれば多少気分が良くなる。さっきまで隣を歩いていたいつも笑顔の彼を思い浮かべて顔をしかめる。

 「はぁ…」

 スマホを取り出して横に付いているボタンを何度も押す。画面には聴覚に関しての注意が出てきたが、躊躇もせずに最大まで上げて来た道を戻った。

 人気のないどこかの学科の棟の裏。荒れた道を過ぎれば視界がすっと開け、大きなパラソルの付いた綺麗なテラスが二つと椅子が何脚か乱雑に置かれている。ここには滅多に人が来ない。特定の人以外。

 「………。」

 「……チッ」

 思い切り嫌な顔で舌打ちしてきた数少ないこの場所の共有者は、煙草を咥えなおして椅子を引く。決まりはないが、手前が彼の席で奥が私の席になっていた。わざわざ引いてくれたので遠慮なく奥のガーデンチェアに腰掛けて上着のポケットから煙草を取り出す。

 「あ…」

 ライターを取って中身がないことに気付く。ちらりと彼を見やるが真剣に本を読んでいるようで暫く待つ。片側だけ上げられた髪が少し崩れていた。加えてテラスの上の灰皿にある吸い殻の数からして昼前からここにいるのだろう。彼は授業あるなしに関わらずほぼ毎日ここにいる。その事情も、心の機微に無駄に聡い自分には察しがつく。待っているのも飽きて音楽を聴きながらぼんやり雲の動きを観察していると、ふっと影が落ちた。彼が頭上で何やら口を動かしているのでイヤホンを外すと、乱暴にライターを投げつけられた。間違っても顔に当たらないように投げてくれるだけ、彼は優しい。

 「お前、耳やられんぞ。うるせぇし俺に聞こえる。」

 「…ありがとう。礼ちゃんも本数減らしなよ。」

 舌打ちだけで返事はなかった。火をつけて、やっと一息つく。イヤホンを外して、風に揺れる葉の音と遠くに聞こえる人の音、少し離れた隣で聞こえるページをめくる音が、逆立っていた心を撫でるように落ち着けてくれる。

 「火。」

 最低限の言葉に目を開けると、座ったままこちらに手を出していた。

 「……煙草は空気じゃないよ。」

 「は?」

 あ、怒られそう。

 「今日はいつにも増して機嫌が悪いね。」

 「いつもだよ。早く返せ、くそ。」

 「ふ、口悪い。」

 ストレートに言ってくる割には、悪口を言う時は人の目を見ない。そんなところは嫌いじゃない。本当に怒られる前にライターを投げ返すと、上手い具合に受け取ってポケットに入れた。吸わないんだ、とぼんやり見ていると一度視線がぶつかった。

 「お前、授業だろ。」

 「Yes。」

 「うぜぇ。出ろよ。」

 私はいつも授業終わりに来てここで休む時が多い。彼はいつもここにいるから否応なしに覚えてしまったのだろう。

 「…今日は、気分ではなかったので。自主休講。」

 彼は応えずにページをめくった。この相手のことなどどうでもいいという態度が心地いい。それに比べて、と彼を思い出す。ありがとう、も気を使われるのも、面倒だ。特に、あの甲高い声の子とか。

 「そろそろ時間じゃないの?」

 私もここで過ごすことが多いから、彼が日の傾く頃に授業があることを知っている。本日何度目かの舌打ちをして本を閉じると、また一本取り出して火をつけた。立ち上がって首を何度か回すその姿が様になっている。身長が高いとは徳だなぁと心のどこかで言う自分がいた。容姿に特にこだわりはないし、こだわりという概念すら自分にあるのか曖昧だ。

 「何。」

 見ているのを知っていてもいつもは無視をする彼だが、今日は気分が違うらしい。

 「いや。」

 「見んな。」

 「…ごめん。」

 でも首の角度を変えるのも何だか面倒で、彼の後ろにある花に目を留めた。白い小さな花がいくつも咲いている。さっき来る時に踏んでしまったものもあるのだろう。何となく息がし辛くなって空を仰ぎ、目を閉じる。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ポケットから煙草を取り出す。

 「あ。」

 ライターを切らしていたのを思い出して去っていった方を見ると、テラスにライターが置かれたままになっていた。

 「……ありがたい。」

 最近は吸える場所も少なくなってきたからこの場所は貴重だ。彼もこの場所以外では吸わないのだろう。ライターを取りにそこまで歩き、なんとなく彼の席に座るのも憚られて同じ距離を戻る。

 「ふーー。」

 煙が空気と混ざって消える。それは見ていて飽きないし、その為に吸っているようなものだ。彼が吸うような重たいものは吸えない。軽いもの。音楽のように気を紛らわせることができるような。

 「おう、まだいたかー。」

 ゆるゆるな話し方で草を掻き分けてきたのは、他でもないこの大学の教授だ。

 「どうも。」

 私も礼ちゃんも、この人に掴まってここに連れられてきた。喫煙所以外で吸っていたのが見つかり、指導されるのかと思ったらここなら誰も来ないからいいと言われて驚いたのはもう一年も近く前のことだ。何故ここを教えてくれたのか尋ねれば、何となくと返された。

 「相沢先生。」

 「あー?」

 「ここ、私と礼ちゃん以外見たことないんですけど、他にもいるんですか?」

 彼はいかにも貧弱そうな細い腕で礼ちゃんの置いていったライターを取り、火をつける。

 普段はあまり会話もしない私が質問をして驚いたのかは分からないが、暫く間を開けて彼は上を向く。

 「…いねぇなー。最近は、ほら…喫煙者の人口も減ってきてるしなぁ。」

 大きく吐き出された煙の塊は渦を巻き、やがて透明に溶けていった。

 「お前らの目、相変わらず死んでるしなー。」

 「…それ、失礼ですよ。」

 私ももう一本、と咥えてやめる。死んだ目をしているのは自分にも分かっている。

 「美男美女の割に、いかにも青春楽しめてない顔だぞー。」

 「ああ、礼ちゃんは本当に勿体ない。」

 綺麗だと思うものを眺めるのが好きだ。今までは空とか雲とか、少なくとも人間ではなかったが、礼ちゃんはそういう意味では特殊な存在だ。

 「いや、りんごちゃんもなかなかよ?」

 「…先生は普通ですね。しいて言えば病弱なところが儚げで良いんじゃないですか。」

 「え、ほめられんの嫌なの?辛辣―。」

 この短時間で吸い終えた相沢先生はぐしゃっと火を灰皿でねじ潰し、ぐっと腰を伸ばした。授業でもあるのだろう。

 「あ、今度デッサンさせて欲しいんだけど、嫌?」

 「嫌ですね。」

 「あ、そう…東も…嫌がりそうだよなぁ…まぁいいや…じゃあな、程ほどにしとけよー。」

 先生は美術系の教授だ。画家もしていてそれなりに好評らしい。一度見たことがあるが、いつもののらりくらりとした態度からは想像がつかないほど熱が感じられる絵で、思わず身震いした。何かを生み出せる人はすごい。

 「帰ろうかな…」

 そう言えば礼ちゃんを待っている理由もない。そう思って立ち上がるが、時計を見ればもうすぐ授業を終える時間だ。ならお礼でもしていった方が良いか。逆に迷惑だろうか。

 「…めんどくさ」

 新しく火がともり、濃い煙が思考を濁した。

 「東くん!今日学部混ぜてカラオケ行くんだけど、無理かなー?」

 目の前にマジックでよく見るウサギのように飛び出して来た障害物に笑顔を浮かべる。

 「あー、ごめんね。今日も家の用事があって。また今度誘って。」

 申し訳なさそうに言えば大抵の障害物は同じような反応をする。

 「そうなんだ…うん、また都合良い時に!」

 「東また来れないのかよ!仕方ねぇな、家のこと頑張れよ!」

 「うん、ありがとう。」

 がやがやと騒ぎ立てる有象無象たちに手を振ってまたあの場所へ戻ろうと早足に教室を出る。皆、東礼司の前では虚像に過ぎない。後ろにある大きな力に目が眩んで声を掛けてくる。それ自体は別にいけ好かない訳ではない。自分も同じようなものだ。大きな力には好かれようと努力する。だから自分にも非があるのだ。“東”を見て欲しくないのなら“礼司”を自分で見せていけば良い。しかしそうしないことを選んだのもまた自分なのだ。

 すっかり日も落ちた時間には、校舎の明かりが間接照明の様にテラスに流れ込む。心もとないオレンジ色の外灯もあるから本は読める状態だ。早足でたどり着いた唯一の休憩所は昼過ぎと違い、幾分か不気味さを増していた。

 「……。」

 自分の所定の席を見ると、市販の棒付きキャンディーが置いてあった。きっとあいつが置いて行ったものだろう。何度か煙草の代わりにこれを口にしているところを見たことがある。

 「はぁ。」

 乱暴に椅子を引いて座り、煙草の代わりにそれを口に咥えれば甘ったるい味にめまいがした。最初は顔をしかめて我慢していたが、本を読み進めていくうちにそんなことも気にしなくなった。あいつの存在と同じだ。

 「はー、うぜ。」

 随分小さくなったそれを噛み砕いて、煙を吸う。ほろ苦い、鼻が通るようなその煙が自分の思考をすっきりと整えさせる。余計なことを考えることはとっくに諦めた。

 「…帰るか。」

 腕時計を見てスマホのアラームを止める。帰宅は特別のことがない限りいつも7時と決まっている。家で無意味な夕食会が始まるからだ。特に会話もないあの無駄な時間はいつまで経っても慣れない。重い腰を上げて校門を出ると、同じくらいの背丈の男が学校の地図の前でおどおどしているのが見えた。別に知り合いでも何でもないから当然、放っておく。

 駅への真っ直ぐなアーケードを歩いていると、少し離れた場所に見覚えのある集団がいた。授業終わりに声を掛けてきた奴らだ。帰りの時間に鉢合わせるなんて、うざすぎる。

 「あの、どうかしました?」

 仕方なく少し引き返しておどおどした障害物に話しかける。スマホと地図を見比べてはまた同じことを繰り返している。壊れたビデオの方がまだマシだ。

 「あ、いえ…!すいません、俺、不審者ですよね。」

 よく分かってるじゃないか。

 「困ってるなら、何かできないかと思いまして。どうしました?」

 にっこりと笑顔を浮かべると、目の前の虚像はじっと俺の顔を見ると、ぱっと爽やかな笑顔を浮かべた。

 「実は、落合教授の教室を探していて…レポートの提出をしたくて。」

 今時レポートはメールでのやりとりが主流だが、ごく稀にそういったアナログな教授がいたりする。落合という教授の名前は聞いたことがある。頑固なよくいる頭でっかちのバカだ。

 「ああ。それなら確かC棟だったかな。場所、分かりますか?」

 「えっと…校庭の先の棟でしたよね?」

 「そうですよ。」

 「なら分かります。ありがとうございました!」

 「いえ。掲示板は分かりにくいですからね。」

 そう笑って見せると、恥ずかしそうに笑う。物腰の柔らかい好青年といったところか。胸やけがしそうだ。もうあいつらは行ったことだろうし、早く切り上げようと一歩足を引くと、目の前のそいつは逆に一歩踏み出して言ってきた。

 「あの!総合情報学部の先輩ですか?」

 「……経営学部の二年ですよ。」

 何故かそいつはほっとしたような笑みで俺に歩み寄る。

 「同い年なんだ。俺、一ノ瀬悟。本当に助かったよ。ありがとう。」

 深々と頭を下げて風でも吹き抜けていきそうなおめでたい笑顔を浮かべたままの顔に嫌気が差して、毒を吐きそうになるのをぐっと堪える。

 「それなら良かったよ。じゃあ、気を付けて。」

 くるりと背を向けこれ以上の追求がないように早足で去る。

 ああ、イライラする。

 早足で過ぎていく人々を見ながら、陽の落ちた路地を歩く。黄色いスカートの裾にあるレースが風に踊った。今日は、散々だったなぁとため息をつく。

 「豪ちゃん…」

 口の中で呟くと、切なさが増した。大学で知り合ったミステリアスな女の子。いつも一人でいて、勉強もできて格好いいと皆は言うけれど、あたしはそうは思わないの。好きで一人でいたって、寂しい時もあるはずだもの。いつもりんごちゃんて呼んでって言っていても、誰も名前を呼んでくれないと悲しいと思うの。でも、今日。見てしまった。豪ちゃんの隣にいた、あの男の人。誰なんだろう。

 「ただいまぁ。」

 白い扉の玄関を開けると、奥から良い匂いといつもの優しい声がふわりと体を包み込む。

 「愛輝ちゃん、おかえりなさい!今日はどうだったー?」

 リボンが可愛いエプロンを着たママはいつも通りあたしに聞く。

 「今日も楽しかったよ!着替えてくるね!」

 いつも通りそう返して、二階の自分の部屋へ上がる。可愛いものがたくさんの、大好きな自分の部屋。大学生にしては、子供っぽい部屋。うさぎさんがプリントされたふわふわの部屋着。全部、ママと一緒に買った。

 「愛輝ちゃん、ご飯よー!」

 「はぁーい!」

 階段を降りると、帰ってきたパパがあたしの頭を撫でた。

 「ただいま、愛輝。」

 「お帰りなさい!」

 「愛輝の笑顔でパパ、また明日も頑張れるよ。」

 えへへ、と笑いながらパパの大きな背中を見送って笑顔を消す。物心がつく前から、変わらない扱い。

 「シチューか。今日の人参は花なんだね。ママは器用だなぁ。」

 「愛輝ちゃんたくさん食べてね。おかわりもあるのよ?」

 いつもニコニコしていて、あたしが悪いことをすると泣いちゃう可愛いママ。優しい優しい自慢のパパ。そんな二人に愛されて育ったあたし。

 「うん!あき、ママのお料理全部好きだよ!」

 自立したいって言ったら二人は悲しむだろうな。お腹の底に溜まったどろどろしたものがゆっくりと嵩を増した。

 

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