潰えた夢、もがれた道 05
「……ひぅう……はぁ……げほげほげほッ! げほ……はぁ……はぁぁぁ……」
「無理ですよ」
「はぁ……はぁ……はぁ……リ、ン……はぁ……」
「例えば、狩りで他の動物を生きるために殺すことは、遺伝子に組み込まれているかもしれませんけど、同じ人間を殺すなんて不可能です」
リンは揶揄するように笑った。アマネは片腕で体重を支え、残りの腕で喉を摩る。
「どう……して?」
「どうして……最後まで殺してくれなかった? そうれば、あたしは死ねたのに……こんな感じで続けるつもりでしたか?」
「それは……」
「私もわかりません。何故アマネの首を絞めたのか……。本当に殺すつもりだったのか、それとも私を勝手に巻き込んだアマネの自己中心的な行動が許せなくて衝動的に怒りに駆られてしまったのか……。どちらも正しいかもしれないし、正しくないかも……」
リンは項垂れ、力を抜くと、その体重がアマネの腰に圧し掛かる。
「リン……お、重い、痛いよ」
「少しぐらい我慢してください」
そう吐き捨てながら、リンはアマネを睨む。瞳には怒りの色が滲んでいたが、普段の表情のリンに近く、アマネの胸に安堵感が広がった。
「ごめんなさい、アマネ」リンは表情を変えずに行った。
「どうしてリンが謝るの? 馬鹿やったのはあたし」「失敗しましたけど」「そうだね」
「違います、私が謝罪したいことは……あの時、アマネを引きとめなかったことについて、です」
「あの時?」
リンは小さく頷いた。
「……私が無理やりにでも、アマネをひっぱって学校まで戻っていたら……」
学校、という言葉で、アマネの記憶が揺さぶられ、二人でリンの日傘に隠れるようにして歩んだ日が思い出された。
「あたしが、事故に遭った日」
「アマネの載っている雑誌を忘れて……アマネを強引にでも引きとめていたら……」
アマネは小さく首を横に振った。
「あの時はバイトが入っていたし、暑くて戻る気にならなかった。リンは、悪くないでしょ」
「慰めの言葉を受けても、私があの日から今現在までドクドクと脈を放つ後悔の想いは、そう簡単には消え去りません……。それに、本心は、違った言葉を述べてはいませんか?」
「……リン?」
リンは不気味に微笑んだ。
その異様な姿にアマネがたじろぐと、間髪入れず、「アマネ、先程から不幸自慢が楽しそうですね」と声をかける。
「自慢なんかしてないよ」
「事故に遭い、三年間も昏睡状態、目が覚めたら思うように動かない体、離婚した両親、隣でにたにた笑う友人、潰えた夢……。確かに、どれも重いです。今時珍しい不幸設定の塊です」
――でもね、
リンは小声で呟いた。「私だって、不幸自慢なら負けません!」
「ねぇ、アマネ、私がどんな気持ちで、昏睡状態のアマネの下へ通っていたのか、考えたことありますか? 昨日までは普通に会話を交わしていたはずのアマネは、突如として呼吸するだけの置物になってしまい、私の言葉に反応すらしません。顔を触っても、髪を梳いても、手を握っても、……何も、何もありません。まるで死んでいるかのように静かなアマネの姿……を眺めている呆けた私の姿は、今考えても不気味です。初めの頃は、理解できませんでした。アマネが事故に遭い、もう二度と眼を覚まさないかもしれない、と聞かされて、そんな話はドラマや漫画などの世界の話と思っていましたから。ふふふ、そうですね、アマネと同じく、これは新手のドッキリなのかもしれません! と考えることにしました。病室のどこかに無数のカメラが仕掛けられていて、私の憐れな姿を捉えている。数分後、突如アマネは起き上がり、ドッキリの文字が記された看板を魅せつけます。そこで私は驚き、仰向けに泡を吹いて倒れ、その姿がお茶の間に流されて笑われて……もちろんそんな都合の良い展開に発展するはずもなく、アマネはただ静かに横たわっているだけでした。私は暇を見つけては病室を訪れ、アマネに声をかけ、手を握りしめながら、今日起こった出来事を説明し、話題が尽きたら、時間ギリギリまでアマネの顔をじっと眺めている。無意味極まりなく、不毛な時間でした。何故このような時間を過ごしているのかと、ふと冷静になることが多々あり、おかしくなりそうで、訪れるの、辞めようとしました。でも、ある日、偶然目覚めるアマネの姿を私は願って、通い続けてしまいました。僅かな期待を胸に秘め、扉を開ける瞬間はドキドキワクワク、最高潮に高まり、扉を開けるとそこには意識を取り戻したアマネの姿が……と妄想を走らせ、そして絶望の時間を繰り返す。積る不快感、陰鬱とした時間を過ごすうちに、すみません、私は、アマネが息を引き取ってくれたら……と考えるようになりました。何故なら、諦めがつくんです。アマネがこの世から消えてしまったのなら、私は時々アマネのことを思い出し、切なさで胸が締め付けられることがあるかもしれません。しかし、いつまでも、ここで立ち止まっているわけには、と自らを鼓舞して、立ち直ろうとしたかもしれません。何よりも、アマネが存在しないのなら、それ以上の苦しみを味わうことがなくなります。――はぁ、私の夢の中のアマネは温度を感じないけど、病室のベッドの上で眠るアマネの指から、温度が染み込んできます。アマネはかすり傷一つ負っていない、思わず感嘆の溜息を漏らしてしまうほど、美しい姿。私がずっと、ずっと……隣で憧れていたアマネを、こうして独り占めできたというのに、こんなに寂しくて惨めで切なくて救いようもなくて苦しい時間を過ごすのは、初めての経験でした。それでも、私は何度も、何度も……、期待してしまう。――今日、アマネの手を握ったら、アマネは唸りながら眼を開く……。私を視界に捉えて、「どうしたの、リン?」と、私の気持ちも知らないで、寝ぼけた声で問うんでしょうね。「アマネは眠っていたんですよ。永い間……」病室のベッドで眠っていた経緯を語り終えると、アマネは驚愕を顔に浮かべます。……それから、退院したアマネと、また、いつものように一緒に学校に行く日々。何も、物語の始まらない、ただ消化するだけの単純で、シンプルな世界。……私、今でもライブ続けてます。メジャーデビューはできませんでしたけど、結構、上手くなっているんですよ。ファンも、少しいます。相変わらずらぎは小言や蔑みの言葉を吐いてきますけど、ステージに上がる時間が楽しいことはもちろん。少しの間だけ、アマネのこと、忘れられましたから。私のライブに、アマネは毎回聴きに来てくれて、ステージの上で歌うのが楽しいのもありますけど、私は……アマネに聴いてもらいたくて、歌っていました。色々言ってきますけど、アマネは嘘を付かない言葉で感想を言ってくれる……。どんな言葉でも良いです、アマネの想いを声として聴きたくて――。ねぇ、アマネ、流石に三年間は長かったです。アマネが瞳を閉じている間は、まるで時が止まっているかのような永遠を感じましたよ。何度声をかけても、アマネは眠っているだけで、微かな反応すら示しません。私だけが一方的に思いを投げつける、片道の三年間を過ごしました。アマネと一緒に行動しようと楽しみにしていた修学旅行や、皆で密かに計画を練っていた、文化祭での劇、もちろんアマネが主役と企んでいましたけど、私を含め、皆落胆していました。アマネは眠っていたから何も知らないと思いますけど、色々ありました。色々――、でも、あまり、記憶に残っていないんです。色が抜け落ちてしまったかのように、味気なくて、寂しい。あの殺風景な病室の中だけは、異様に私の記憶にこびり付いています。あの空間で感じた季節の移り変わる温度、薬品の香り、アマネの寝顔などなど……。しかし、それ以外の世界は、私にとってまるで夢の中のように現実味が無く、つまらないんです。今日、久しぶりに、夕日ってこんなにも美しいんですね、と思いました。ただ眩しいだけの、癪に障る光と何故か恨んでいましたけど、……綺麗。私、何度もアマネの下に向かい、アマネの静かな寝顔を眺める時間が増えるほど、辛い思いを味わうと理解していたはずなのに、理屈でも本能でも……しかし、辞められませんでした。アマネの声が聴きたかった。――リン、と、呼んで欲しい。ただ、それだけ……。少し前までは、当たり前に浴びていたはずなのに、当時はもう夢の中ですら、アマネの声は聞こえなくなりました。ごめんなさい、アマネの病室を訪れるたびに笑ってしまって……。でも、アマネの姿を見てほくそ笑んでいるわけではありませんよ。アマネが蘇ってくれて、嬉しかったんです! だって、もう二度と、アマネは私の名前を読んでくれないと、諦めていましたから――。あの日、希望を胸に抱いて「やってみたい……」と静かに語るアマネの横顔は格好良かったです。ラン・ウェイを歩むモデルさん達に圧倒されて、それでも、ゆっくりと微笑むアマネの姿は新鮮でした。アマネなら、絶対にモデルとして大成し、アマネの想い描く道を歩むと、私は信じてしました。私は憧れていました。アマネに……。初めて会った時から、ずっとです。しかし、あの日を境にして、私は更に深く一段と……いえ、もっと、奈落の底に落ちていくかのように、アマネのことを想うようになりました。夕日の滲む道の中で、アマネが決意を胸に秘めてそっと歩く姿、ただ歩いているだけなのに、形容し難いほど美しくて――。そんなアマネが、今はもう……数歩歩くだけで脂汗をべっとりと浮かべるようになって……全て消えてしまいましたね。私は、アマネの気持ちを理解しようと、努力しました。アマネが突然立ち向かう現実の圧力を想像するだけで、恐くなります。それを、体験しているアマネは……。私は、本当は、わかっていました。アマネが死ぬために、努力していたことを。しかし、何故それを知っていながら、今日ここまで連れて来たのか……。先ほどは、僅かな希望を胸に抱いていたと言及しましたが、間違いですね。白状すると、アマネの想いを汲み、その手助けをするつもりだったんです。あと何年耐えたら、アマネは元のアマネに戻れるのだろうか……。数年、数十年……それとも、一生? その間、アマネは苦痛をその身で覚える必要があります。傍から眺めている私も、辛いと思いました。苦しむアマネを見て、どうにも出来ない私の無力さがもどかしくて、もう……嫌でした。全部……。しかし、アマネは失敗しましたね。僅か数メートルの距離で倒れ、もう一人では立ち上がれ無い。女々しく泣いていました。そんな顔で泣けるんですか、と驚きましたよ。私の知っている、憧れていたアマネは……消えてしまったんですね、とやっと悟りました。だから、私が殺そうとしました。手助けではなく、私の手で……アマネを苦しみから解放させてあげる……ふふ、今思うと、完全に狂っていいますけど、そう覚悟を決めました。そして、私も失敗してしまいました。アマネを見つめて、ぐったりしながらも、私を優しく見つめるアマネの瞳に映る私を見ていると、まるで走馬灯のように、アマネと出会ってから今日までの時間が頭に流れました。同じ高校に入れて、同じクラスになれて、通学路が殆ど被って、おかげで毎日一緒に登校できて、幸せでした。ねぇ、アマネ……、死ぬのは、やっぱり辞めてください。どんなに苦しくても、辛くても、絶望して、死にたいと思っても、死なないでください。何でもします。アマネの命令だったら、私、何でも従っちゃいます。私は世界中だって飛び回って求めるし、食べたい物、飲みたい物、まだ見ぬ激レアなクマたんが欲しいのなら私は如何なる手段を用いても手に入れます。何でも言ってください。怒鳴られた時は、正直驚きましたけど、恐くて、次の日病室に訪れるのが本当に怖かったですけど、それでアマネの気が少しでも晴れるのなら、私は大丈夫です。殴ったり叩いたりしてもいいですよ。私のこの喋り方も、気に障るようでしたら、辞めます。私の声や、体臭なども不快でしたら、アマネの望むようの変化するよう、努力します。私の存在自体が鬱陶しいのなら、私はアマネの前から消えます。……もう、それでいいかも、と思い始めました。アマネがこの世で存在してくれたら、私は何もいらない。以前、何故私がアマネの下に訪れるのか問いましたね? 好きだから。それ以外でも、それ以上でも、他には何もありません。どんな姿になっても、私は、アマネ、あなたのことが好きなんです。ずっと……今まで、そしてこれからも。シンプルな答えですけど、それでは駄目ですか? もっと大義名分めいた、理由が欲しいですか? しかし、私にはもう、これしかないんです。同じ学校で過ごせる時間が嬉しかった。私を想う、アマネの言葉が嬉しかった……。アマネと毎日行動を共にしたのも、片時もアマネあら離れたくなかったからです。今でもこうして、アマネと会話して、アマネの存在を感じられるだけで嬉しいです。だから、お願い、アマネ……」
――リンは、言葉を研ぎらせるように口を噤むと、アマネから視線を外し、既に殆ど沈んだ太陽を眺めた。
黄昏に溶けるリンの姿を見つめて、アマネはリンの面影を感じた。
成長したリンは、三年の月日は、リンの姿を僅かだが成長させ、その変化は違和感となってアマネの中で疼いていた。だが、夕暮れの中で影を帯びる姿は、アマネの知っているリンであった。
//06に続く