色の無い夢
「降ってきたね」
アマネがポツリと言うと、リンは窓から外を眺めた。雨粒が窓を叩くように降り注ぐ。音が部屋の中で幾重も反射した。
アマネの自宅、アマネの自室に、リンとアマネは居た。テーブルの上に教科書やノートを広げていた。先日、アマネが風邪をひき、学校を休んだので、その分をリンが教えていた。
「ホント、凄い雨です」
アマネの部屋は、テーブルを中心に、ベッド、机、本棚、クローゼットが小奇麗に並んでいる。アマネの香り、それと人の家独特の匂いが、リンの鼻孔をくすぐる。
勉強も終わり、アマネはベッドの上でクマたん名鑑を読んでいた。リンはベッドに背を当てて座り、部屋に置いてあるファッション誌を眺めている――フリをしながら、チラリとアマネを覗き見する。
雨の音がリンの耳に届かなかったほど、リンは緊張していた。
「この前休んだ分、教えて欲しんだけど」
帰宅途中、アマネに頼まれ、二人はパフェ喫茶店に訪れたが、人で溢れていた。他の場所にしますか……とリンが言いかけた瞬間、「……それじゃあ、うち来る?」と、アマネはリンを誘ったのだ。
「お邪魔していいんですか?」
「今日は誰もいないし、別に誰か居てもいいけどさ……」
二人で毎日登校、帰宅し、放課後や休日に二人で遊びに行くことはあったが、こうしてアマネの自宅を訪れるのは初めてだった。雑誌をパラパラと捲りながら、背後で寝転ぶアマネに気押されるようで、ぐるぐると思考が定まらない。
そんなリンを、アマネはじっくりと観察していた。パフェ喫茶が混んでいたのは偶然だったが、リンを自宅へ招いたのは、リンがどのような反応を示すのか、試してみたい衝動に駆られたからだ。
「わかりました。アマネのおうち、楽しみです」
アマネに誘われたリンは、なんとなく答えたが、微かに頬を赤らめ、瞳が滲んだことをアマネは見逃さなかった。
ファッション誌から意識が離れているリンだったが、アマネがポーズを飾るページだけは無意識の内に眼を留めてしまう。アマネは背中がむず痒くなるような恥ずかしさを感じながらも、そっと笑みを零す。安心感と、それとは別の、胸に染みわたるような暖かさを覚えた。
「リ――」ピピピピッ! と、アマネが口を開きかけた瞬間、電子音が響き渡る。アマネのケータイだった。アマネはポケットから取り出す。「もしもし、あ、うん……え、今日遅くなる? うん、はいはい……」
アマネはごめん、と謝り、部屋の外に出た。
扉が閉まり、一瞬の間を置いて、「……はぁ」とリンは盛大な溜息を漏らす。緊張感から解放され、肩を落とす。ひりひりとした感触が、リンの背中にまだ残っているようだった。先ほど、アマネに睨まれていたリンは、まるで背中に刃を当てられているようで、一段と胸を高鳴らせていた。ふと、視線を下げると、教科書やノートが広がっていたはずのテーブルには、アマネが写り込むページが開かれた雑誌が何冊も落ちていた。様々なアマネの自身溢れる姿に見惚れたが、いつの間に? と動揺しながら閉じた。
「ふぅ……」
再度溜息をつき、リンは背をかけていたベッドの縁に凭れるように体重を預け、頭をベッドに乗せる。埋もれた部分から、包まれるような温もりを感じ、今度は深呼吸を繰り返す。アマネの香り。――別に、アマネの匂いがするから嗅いでいるわけじゃなくてただ普通に呼吸しているだけですから、と自らに言い訳を述べながら、リンは動かなくなる。アマネがもうすぐ戻ってきてしまう、と危惧しながらも、リンは全身を掴まれたかのように身動きを封じられた。あと、一分、三十秒、十秒だけでも……アマネが扉を開けた瞬間頭を起こせば大丈夫……と言い聞かせる。が、アマネは数分経っても戻らない。「ふぅ……」と、寝息がリンの口から洩れた。放課後、色々と歩き回った疲れもあったが、束の間の安心感を覚えたことで、睡魔を感じる間もなく、意識を失っていた。
雨脚は更に強くなった。
母親に書類の確認を頼まれたアマネはやっと戻って来た。「リン、そろそろ時間……」と言いかけたところで、ベッドに凭れながらすぅすぅと寝息を立てるリンの姿が映る。
「もしかして、眠ってる?」
アマネはリンに声をかけたが、返事は無い。アマネはベッドに腰を下ろし、「起きろ~」とリンの方を揺さぶった。だが、リンは嫌そうに頭を振るだけで、起きない。「まぁ、いっか」諦めたアマネは、手をリンの肩から前髪へと移すと、撫でるように指を動かした。指を櫛にして整える。
「こうして黙ってると……」
アマネは言葉を切り、ベッドから滑るように落ちてリンの隣に座ると、肩を当てるようにして、リンの顔を覗き込んだ。――そういえば、久しぶり、こうしてリンの顔を近くで眺めるの……と、アマネは気づく。というのも、最近では、アマネがリンの顔を覗き込もうとすると、リンは即座に頬を染め、逃げるように顔を背けてしまう。
雪のように真っ白な肌、年相応のやや丸みを帯びた顔は愛嬌があった。前髪から指は落ち、自然とリンの顔へ伸びていた。顎から耳へ、顔の輪郭を確かめるように指を走らせる。どくんッ、とアマネの心臓は一際大きく揺れた。アマネの両腕が伸び、リンを抱きかかえるようにして、掴む。「ねぇ、リン……」喉を震わせて、アマネはリンの名を口にした。音が、微かな振動をとなって、リンに伝わる。声が続かない。代わりに、外から響く雨音が、リンの耳に突き刺さった。
「夢……」
リンは呟き、眼を開けた。アマネの部屋でいつの間にか眠り、アマネ視点の夢を見ていた。
アマネがリンに近づき、そっと髪を梳き、肩が触れ合う距離で見つめられ、何かを語りかけられる――という夢。
「何だか、哀しくなりますね」と、リンは自嘲気味に笑った。夢の中で、思わずアマネに抱き着いてしまう、という展開ならともかく、アマネ自身になってしまうなんて……と、蔑みは止まらない。深層心理に潜む、自身が望むアマネを生み出し、己に身を寄せさせる妄想を繰り広げた自分自身が、何故か無性に腹正しくなる。
やれやれ、と溜息を零し、今何時でしょうか? と視線を上げようとして、「ア、アマネッ?」リンは喉を詰まらせて悲鳴を上げた。何故なら、アマネが、リンを抱きかかえるように眠っていたからだ。アマネの細長い手足が、リンの体に絡まっていた。寝息がリンの耳に降りかかり、途端にアマネの体温がリンを包んだ。
「アマネ……ちょっと」
「……う、……ううん……」
「寝ぼけていないで……、お、重いです」
「あ、ごめん」
アマネは眼を擦りながらリンから離れると、ふぁっと欠伸をした。
「抱き着いて……」
「いや、それは、リンでしょ……はぁ……」アマネは伸びをしながら答える。
「は?」
アマネの言葉に、リンはおかしな声を上げた。
「だから、リンが、あたしがベッドに凭れかけていたら、なんか近づいてきて」
「何言っているんですか? それは、アマネですよ!」
「……あたし?」
「そうです、アマネが、私に……」
そこでリンは首を振り、「何でもありません。そうでした、ただの夢でした。もう、帰ります。雨降りそうなので」
リンが窓の外を眺めると、吊られてアマネも外を眺めた。黒々とした雲が空を覆っている。
「お邪魔しました」
「ありがと、リン。助かったよ」
「いいえ、今度パフェを奢ってくださるのなら、それでチャラにします」
「はいはい、あまり食べ過ぎて太らないようにね」
ポツポツと、地面が濡れる。むっとする湿り気の混じった匂いが辺りに立ち込み、途端に土砂降りの雨が降り注いだ。辟易としながら、リンは玄関の外へ一歩踏み出す。
「リン……」
「何ですか?」
「 」
アマネが何か言いかけ、口を開くが、飛び出すのは声ではない。擬音。先ほどまで、夢の中で聞いていたはずの音――。
「ふざけているんですか?」
「 」
「それとも……」
「 」
ザー
ザー
ザー
雨の音。
耳元から、響いている。
まだ、夢なのか。
――この世界は、私の夢で、記憶が生み出した、輪郭のぼやけた世界。色は無い。音は、きっと現実の私が耳にした音、故に聞こえてしまうのでしょうね……。
「……ふふ、うん、そうでしたね、アマネが喋るなんて……」
腕を掴まれた。
温度は感じない。
何故か、感触だけが、生々しく手首に残った。ぐっと、引き寄せられる。リンは辞めて……と口にしようとしたが、首を振るだけだった。腕を振るうと、アマネの指は簡単に外れてしまった。明度によって切り分けられた幻想の中で、アマネだけがくっきりと色を帯びて存在していた。
「 」
「……実は私、アマネのこと、好きだったんです」
「 」
「さっきも、この世界が夢と気づかなければ、私はもっと……ふふ」
「 」
「聞いているんですか?」
「 」
「夢と理解した途端、喋らなくなるなんて、卑怯ですね。まぁ、結構長い間、アマネの声聴いていないから、記憶の底から無意識の内に再生している時は再現出来ますけど、意識すると、……わかりません」
「 」
「疲れちゃいました。もう、これで終わりにしましょう。もう、アマネの下に訪れるのは辞めます。これ以上は虚しいだけ……。本当ですよ。今日が最後です。私の目が覚めて、最後に色々語って、それでもしも目が覚めたのなら……」
幻想のアマネに、リンはそっと腕を伸ばしてしまう。
夢、と理解しているはずなのに。
目の前で微笑む、変わらない高校生の時のアマネに、リンは引き寄せられていく。
「ごめんなさい」