潰えた夢、もがれた道 02
「アマネ、こんにちは」
「やっほー」
「リハビリ、大変ですね」
「こうも自分の言うこと聞いてくれないとはね」
アマネは肩落としてそう漏らした。上半身すら持ち上げることが出来ず、ショックよりも純粋な驚きを感じていた。全身の筋肉に力を込める、と命令し、歯を食いしばるようにして踏ん張っても、体は動きを拒否するかのように震えるだけだった。
アマネは視線だけを時計に当て「今日も来てくれたんだ」と言った。
「まぁ、学生ですから時間の融通は利くんです」
「大学だっけ?」
「はい」
「ふうん、リンはもう女子大生……。やれやれ、あの小さくて小学生に間違えられてしまう可愛らしいリンは成長してしまったのか」
「……間違えられたのは、中学生ですよ」
「そうだっけ?」
アマネは笑ったつもりだったが、表情には陰鬱とした影が差し、ややあって鼻で笑った。
「アマネ?」
「融通利くっても、こう毎日来るの大変でしょ」
「そこまでは……」
「いいよ、もう来なくて」
アマネはリンを掴むように睨みながら言った。一瞬硬直したリンは、「え……あ、別に、本当に、学校も午前は授業入れていませんし」
「お見舞いに来てくれるのはありがたいけど……でもどうして? だって迷惑じゃん。あたしのお世話なんて、普通さ……」
「迷惑なんて、思っていませんけど」
「うーん、意味がわからない」
アマネは瞳を閉じると、大きく息を吸う。
「意味?」
「だってこんなベッドで寝ているだけのあたしを世話して、何がそんなに楽しい、ってか嬉しいの?」
「それは……」
「だって楽しくないでしょ? 介護みたいな真似事、めんどくさい。……あとあと、ねぇ……リン、さぁ……どうして、笑うの?」
アマネはリンを見ずに、苛立つような声色で問う。
「……私が?」
「そ。あれ、自覚無い?」
「笑ってなんかいませんけど」
「嘲笑? 今のあたしを見て、リンは嬉しいの? こうして何も出来なくて、座ることすら……もう二度と歩けないかもしれませんと宣言されて、そんなあたしを見て笑う、ふふ……ふふ……あは……はぁ……あー、いいなぁそういう神経、羨ましい」
「アマネ」
「ウソウソ、言い過ぎたよ。……ってか、もう眠い。リン、そろそろ出て行って。頼むよお願いだリンッ……」
アマネは叫んだつもりだったが、声が出なかった。咳込むように喉を震わせ、代わりに涙が瞳に溜まった。
「あ……」
リンは思わずアマネの下に近づこうとしたが、テーブルの上に飾ってあった巨大な人形――防寒着に身を包まれたクマたんを掠め、床に落としてしまった。
「あ、クマたん……」
ポトリとうつ伏せになった瞬間、アマネの脳裏からどばっと記憶が波のように押し寄せてきた。事故の記憶。倒れた姿が、自身の姿と重なった。轟音、凹む天井に竦んだ瞬間、悲鳴を上げる間も無く左右の窓が割れ、大量の土石流がアマネを押し潰した。脳天に凄まじい衝撃が響き、全身を締め付ける冷たい感触を味わった。呼吸はできず、助けも呼べず、暗闇の中で恐怖に震えながら意識を失うまでの時間を耐えた記憶が蘇った。
「……ったしの……」
「え?」
「あたしの、クマたん……にぃッ、触れるなぁああああああッッ! 早く元に、戻せッ!」
アマネの怒号が部屋中に響き渡った。リンは呆然とアマネを見据えると、アマネはリンの視線から逃れるように、床に転がるクマたんを睨みつけた。リンはそっとクマたんを拾うと、さらりとゴミを掃い、元の場所に置いた。
「ごめんなさい……」
「うるさい」
「わざとでは……」「うるさいって……わ、わかんないの……ねぇ!? リン……あんたのさぁ、そのキンキンした声、耳障りなんだよ……なぁ」
「は……はい、ごめんなさい」
「おい……だか、らぁぁああッ、……はぁ、……はぁ、黙ってよ、黙って、黙れ黙れ! うるっさいんだよぉ! あたしを煽ってんの? どこまで馬鹿にしたら気が済むんだよッ」
アマネは声に熱を込めて言い放った。リンは無表情で首を横に振る。しん、と静まり返った部屋の中で、アマネの荒い呼吸音だけが異様に響く。アマネは頭を垂れると、昏睡状態の最中に伸びた髪が、アマネの顔を隠すように靡いた。
アマネの肩が小さく震えた。
「今は一人になりたいの」
アマネは擦れるような声で言った。リンは、何も答えず、頷きもせずに、そっと部屋から消えた。
扉の閉じる音が余韻のように広がった。
リンの足音。
それも溶けるように消えた。
部屋は一回り小さくなったかのように静寂に包まれた。響くのは、アマネの嗚咽だけ。指先に力を込めて拳を握りしめた――はずだったが、指は力無くシーツを掴んでいるだけだった。
アマネの両親は、アマネが意識を失っている間に離婚していた。アマネの記憶では仲違いすることもなく、普遍的な家族のはずであったが、アマネが昏睡状態に陥ってから母親の精神状態が崩れ、階段を駆け落ちるかのように関係は悪化、離婚となった。
父親は海外へ赴き、消息は不明。母親はアマネが覚醒した後に一度見舞いに訪れたが、――今更意識が戻るなんて……と言わんばかりの冷たい瞳でアマネを睨み、医者から説明を受ける際に呼び出される以外は、病院に足を踏み入れようとはしなかった。
別人のパーツを繋ぎ合わせたかのような体と、幻の如く消え去った家族。
未だに信じられない――認めたくない過ぎ去った三年の時間。
そして、打ち切られたモデルへの道。
アマネの意識が戻ってから数日後、アマネのマネージャーが現れ、アマネに契約を打ち切っていることを伝えた。アマネは三年も寝たきりの状態だったので、続けられるはずがない、と覚悟はしていた。ポーズを取る以前に、立ち上がることすら出来ない。殆ど姿の変わらないマネージャーは申し訳なさそうにアマネに伝え、その際は仕方ないと、諦めるようにアマネは了承したのだった。
しかし、今現在、どろりと血が噴き出すかのように、瞳から涙が零れた。皮膚が焼け爛れるかのような熱を覚え、思わず拭おうとしたが、腕が思うように動かない。まるで猫が顔を舐めるように、手首の辺りを顔に押し当て、涙を振り払う。
あたしは、
あたしは――
別に、本気でモデル、やっていたわけじゃない。アルバイトとして、マネージャーさんに強引に勧められて、気が付いたらカメラの前でポーズを取っていただけで、実際のところ本気で挑んでなかった。かなり適当で、まぁ皆にチヤホヤされるのは嫌いじゃなかったし、楽しいと思えたけど、同じモデルの友達とか出来て、皆それなりに本気で挑む人が多くて驚いた。地方出身の子なんて、高校生の癖に、こっちで仕事やりやすくするために引っ越してきたりして、家族総出、モデル駄目だったらどうするの? と思った。……けど、駄目にならないよう、人生賭けていると聞いて、へぇ凄いと思うよりも、……嫉妬でもなくて……何だろう……変な気持ち。羨ましい……。
――アマネの瞳に映る、過去の光景。そこから連鎖するように、一つの記憶が再生されていく。
あの日、
あの時……マネージャーさんに一度くらいは生で観なさい、とうるさく言われて、……初めて目の前で観た、ラン・ウェイと、その上を自信満々の顔で、キラッキラに光ながら歩くモデルの人達……。
ただ、歩くだけなのに、滅茶苦茶カッコイイ……と思ってしまった。
素直な感動を初めて覚えた、なんか……あたしも、ちょっと、いや、本当にホント、本気でやってみたいな……と思った。全身がむず痒くなるような、快感。
それを、リンに言ったら、リンは……。
全ては夢だったのか、とアマネは考えた。物心ついた頃からの記憶、中学に入り、リンと出会い、毎日一緒に行動して、それは高校に入ってから一段と深くなり、モデルとして、あのキラキラ輝く道を歩いてみたいと、胸を躍らせた記憶は――夢なのか。
夢であってほしい。
それなら、まだ……自分自身を納得させられる。そんな妄想に走ってしまった理由が。ベッドの上で退屈な時間を過ごす自分は本当の自分ではなく、別の世界で煌びやかな活躍を魅せる自分を創りあげてしまう。
しかし、現実だった。
全て、アマネにとっての現実で、幻想は何一つ存在しない。
――唯一、想像の先に佇むアマネの姿があった。ラン・ウェイを歩く、未来の――事故に遭う直前、そっと想いを馳せてしまった夢の中で力に満ち溢れたアマネ。
一歩、
足を踏み出すだけで、足裏から迸る音。
観客からは熱気のような視線を浴びながら、一流のデザイナーによって生み出されたコーデを纏い、うねる熱を切り捨てるようにして、進んでいた。
全て、妄想であってほしい。
全部。
アマネは、形の成さない夢に縋ろうとする自分があまりに滑稽に思え、笑おうとした。
だが、口を曲げて、喉を揺らしても、零れてくるのは濁った不気味な音だった。
嗚咽でも、苦痛にもがく絶叫でもなく、金属を無理やり捻じ曲げるかのような、無機質な音。
感情の揺らぎは、アマネの中で音となって、轟いた。
直面する問題の大きさ、深さは容易に乗り越えられるはずもなく、ましてやアマネは目覚めた瞬間にその問題を突き付けられ、形容し難い恐怖に押し潰されようとしていた。
「どうして?」
アマネは哀切とした声で問う。
何故? と疑問を抱くたびに、答えを示すかのように体が軋んだ。以前のように、アマネ自身がその答えを教えることはなく、音だけがアマネの中で鳴る。
膨れ上がる絶望に、アマネは喉元を押さえつけられるようで、呼吸すらままならない。精神への苦痛と、それに伴う肉体的な苦痛を浴びて、アマネはそこから逃れたい一心で、一つの思考が組み上がっていた。
過去の想い出を土台にして積み上がっていくそれは、今現在のアマネが思い描く、この歪んだ世界から逃れるための唯一の道であった。
そのためには――。
薄暗い部屋の中に、窓から黄金色の夕日が差し込むが、アマネの瞳に映る世界からは色が抜け落ち、光の明度だけで切り分けられた不可思議な世界が広がっていた。
次の日も、リンは現れた。
黒色を基調とした服装は、まるで影のようにアマネに映ったが、陶器のように白い肌と、金髪がくっきりと浮かび上がる。
リンは何か言いたそうに顔を揺らすが、昨日耳障りと言われたのが堪えたのか、むっとした表情のままで立ちすくんでいた。その微かに動揺した表情が、アマネの記憶に残る、現在よりも幼いリンの姿に重なり、微笑ましく、そして寂しいと思った。
「昨日は、ごめん」
リンは何が? と首を傾けた。
「いいよ、喋っても。最近、リハビリで上手く体が動かせなくて、イライラしてた」
「クマたんを落したから、アマネが怒ったのかと思いました」
リンはクマたんを一瞥して感情の籠っていない声で言った。アマネは首を横に振る。
「違う。何でもよかったの。少しでもムカムカした気持ちを吐き出すためのキッカケが欲しくて。ごめんね、リン……」
「別に気にしてませんから。アマネが大変なのは傍から見ているだけでもわかりますし、冷静でいられるはずがありません。取り乱して当たり前です。逆に、今の落ち着いたアマネの方が……」
「不思議?」
「はい、そうですね、不思議」
「仕方ない、ってそろそろ受け入れようと思ったからだよ」
アマネは微笑んで答えた。が、それは自らの今置かれた状況を肯定するかに見えて、その実、未だに自らが足を踏み入れてしまった世界から、眼を背けようとする自分の姿に対する自嘲の笑みでもあった。リンはそんなアマネを視界に含みながら、椅子に座る。
「リンは、どうして毎日見舞いに来るの?」
昨日と同じ質問であったが、アマネの態度は柔らかい。
「毎日は来てませんよ」
「いや殆ど毎日じゃん。……なんで?」
「好きだから」
「え?」
「アマネのことが、好きなんです。それ故に、私は毎日アマネの下に訪れているんです」
リンはさらりと言ってのけた。
瞳を光の膜が覆う。
「そっか……。うん、あたしも、リンのことは、好き」
好き、
リンとアマネは同じ言葉を相手に投げかけたつもりであったが、両者のそれは全く異なっている。声として表したアマネは思わず驚いてしまうほど味気のない音であった。それでも、リンの表情に仄かな明かりが灯るのを見逃さなかった。
カチリ、
とまるで引き金を押し込んだかのような音が、アマネの中で響いた。
すると、脳裏で一つの計画が無意識の内に立ち上がる。自分自身でも気づかないその策略に、リンが組み込まれていた。アマネは「好き」と声に出す刹那、昨日に想像していた苦痛から逃れるための唯一の道が、ありありと浮かび上がった。その計画、道を進むたびに、リンの想いを汲み取り、故に「好き」と返したのだった。
「そうですか、ふーん」
「なにその返事」
「昨日、私はアマネに嫌われてしまったのでしょうか? と悩んでいましたので」
「だからそれは、さっきも言ったけど」
「嘘」
リンは緊張を解くように肩を落とし、「安心しました……」と返す。
アマネには、リンの真意が読み取れなかった。以前までの――アマネの記憶に残るリンは、アマネの行動や言葉に一喜一憂し、毎日同じ時間を過ごすたびに、リンから漂ってくる匂いのような好意を感じ取れた。それは、友達、親友とはまた違う愛情を、リンはアマネへと向けていた。
だが、現在のリンは、どこか達観とした、冷めた雰囲気を纏っている。一見アマネの言葉に純粋に喜んでいるように見えて、その嬉しみに飾られた笑顔を抜け殻のように残し、次の瞬間にはアマネの知らないリンという名前の女性の姿を現していた。
「ってか、アマネ……あのクマたんは、一応私の、ですよ」
「え、だってあたしにくれるって言ったじゃん」
「私が頑張って懸賞に応募して、見事当てたのに、あたしのクマたん! って……何言ってんですか」
「そこはまぁ、ノリだよ……。うん、ってか辞めて! 昨日のことは、ちょっと若干調子乗っていたというか、うわ、今考えたら超恥ずかしい!」
二人で笑い合い、沈黙が流れる。
「……以前とはまではいかないけどさ」アマネはポツリと零すように述べる。「また、歩けるように、リハビリ、諦めずに頑張ってみるよ」
――それから約一年間、アマネは懸命にリハビリに取り組み、その隣にはいつもリンが存在し、アマネを励まし、支え続けた。上半身を持ち上げる動作から始まり、今では一人で車椅子に乗り移れるようになった。
自らの体が再び動作を取り戻していく感覚に希望を抱くが、それ以上の恐怖が、アマネを離さない。
//03に続く