002 7月20日
少女の手にはハンドガンが一丁握られていた。
最初は何かの冗談かと思った。
しかしその鈍い光が本物を強調している。だからこそ、目の前の少女が冗談なんかで偽者を俺に向けているのではないと思ったのだ。
ゲームとかで見たことがあるその人を殺す兵器を見て、俺は硬直する。
今が現実なのか夢なのかも分からずに、俺は固まる。
部屋の中に置いてある目覚まし時計の針が進む音だけが聞こえ、まるでその音以外が全てこの世界中から消え去ったような錯覚に陥り、現実感が目の前から消え失せようとする。
「な、ん……の、冗談だ……?」
ようやく声が出たと思ったら自分でも驚くほど声は震えていて、自分でさえ聞き取りずらい。
少女は俺の言葉に表情を崩すことなく言う。
「冗談に見えますか」
――言い切る。淡々と。これが冗談に見えるのかと、現実を突きつけるかのように。
見えない。何度でも言う。――見える訳がない。
少女がハンドガンを持っているという非現実を目の辺りにして、それが冗談であると思えなかったのだ。
少女は表情を一切崩さない。言い換えれば、それは緊張していないということになる。気楽そうに、まるで日常を過ごしているかのようなその気楽さが単純に怖い。
「……、見えねぇよ。馬鹿」
「…………」
少し笑ったように見えた。しかし少女はやはり表情を崩さない。
「まずは名乗るのが筋でしょうか。私はデルフィと言います」
「デル、フィ……」
明らかに日本人ではない名前に俺は息を呑んだ。
日本人みたいな面をしているくせに横文字な名前の少女は依然ハンドガンを俺に向けたままだ。
「さて」
デルフィは片目を閉じて、
「私は名乗りましたが、あなたが名乗る必要はありません」
言う。
「礼儀を重んじる必要がないと宣言します。慶介さん」
ゾッとした。
単純な悪寒。
デルフィのたったの一言で、全身を何千匹の毛虫が這い蹲るように悪寒が走った。
「な、んで……俺の……名前?」
「天使の目。これには人の魂が映ります。魂とは絶対に嘘をつくことが出来ません。国際手配された詐欺師であろうと百錬練磨の棋士であろうと関係なく、嘘をつくことが出来ません。だから分かるんです。あなたの名も。――あなたの生死さえも」
デルフィの声に淀みはない。
だからこそ意味が分からなかった。
……今、何を言った?
「な、……何を……言って――いる?」
足の裏が床に貼り付けられたように動かない。前にも後ろにも。
「もっと分かりやすく言いますか? あなたはすでに死んでいます」
がくがくと足がフルマラソンを走りきったように震え、力が抜けていく。
「もう一度言いますか?」
頬に冷たい汗が伝う。
「あなたはすでに死んでいる――つまりは死に体です」
意味が分からなかった。言葉の意味が分からなかった。
過去に冗談で友人と死ね死ねと罵りあうような間柄を経験したことがあるくせに、デルフィが言った言葉の意味を理解することが出来なかった。
だって、ありえなかった。
――俺が死んでいるなどと。そんなこと。そんなことを理解出来るはずもなかった。
「理解しましたか」
それでも目の前の少女は言う。役所仕事みたいに、用意されたマニュアルを読み上げるみたいに、淡々と。
「では……問います」
「…………?」
「今日は何日ですか?」
「は……?」
「何日ですか?」
デルフィの問いに俺は今日の夜飯に買ってきていたから揚げ弁当をコンビニの袋から無造作に取り出す。弁当の消費期限などせいぜい一日前後だ。今日の日数を計るのにちょうどいい。
弁当の消費期限は、
「一六日だ」
言った。
何の間違いもないはずだ。
けれど。
デルフィは表情を崩すことなく、
「今日は……二〇日です」
言った。
「…………は?」
何を言っているんだこいつは……。
この弁当を買ったのは今日の深夜だ。その弁当の消費期限が一六を指し示しているのに、どうして今日が二〇日になるっていうんだ。
「少なくともその弁当の消費期限の日数は間違っていません。何せ、その弁当をあなたが購入したのは今から四日前。その弁当は添加物満載のせいで分かりにくいでしょうが腐っていると思われます」
真顔で答えるデルフィ。
四日前?
そこで思考が遂に停止する。
訳の分からない事象をそうポンポンと連発されて、いい加減思考回路がショートした。
知恵熱を出しそうになっている俺を見かねて、
「見ますか?」
そう言ってデルフィはスカートのポケットからスマホを取り出して片手で操作して、それを俺に放り投げた。
「……ってか、お前天使じゃねーのかよ。何で天使なんていう存在様がスマホなんて持ってるんだつーの」
「便利なんで。それ。ニュースサイトです」
たったの一言でファンタジーを否定するデルフィ。そんなことよりと言った具合にデルフィは指を指しながらとっとと見ろと催促する。
画面を見るとネットに繋がっていて、ニュースサイトが開かれていた。
「これは」
「四日前の記事……いや。三日前の記事を開いてください」
「三日前?」
「はい。あれこれ説明するより、自分の目で確かめて見た方がいいので質問は後で」
有無を言わせない態度に俺は黙ってスマホの画面に視線を戻した。
政治、経済、社会、国際、スポーツ、事件事故。日本で起きたニュースを書き起こした、所謂普通のニュースサイトがそこにはあった。
ニュースサイトは特に変わった様子はない。このデルフィという少女が俺を騙すためだけに作った偽サイトである可能性はほぼゼロだろう。よくあるニュースサイトだ。
俺はスマホを操作して三日前の記事を探す。
そこには変わった記事はなかった。
やはり目に映るのはいつも目にするような内容だった。
しかし、目が留まる。
留まざるを得なかった。
――高坂慶介。
見慣れた、聞き慣れた、その名前に俺は目を奪われた。
記事の内容は単純なものだった。
『一六日未明、飲酒運転の女逮捕。男性一人が死亡。女性一人が怪我。車を運転していた朝倉麻友容疑者を道交法違反と自動車運転処罰法違反、過失運転致死傷罪で逮捕しました。死亡した男性の名前は高坂慶介さん。高坂慶介さんは車に撥ねられ死亡しました――』
あんまり見ていて気持ちのいいものではなかったので、俺はそこで視線を上げた。冷たい表情の少女の姿を。突きつけられたハンドガンの銃口を眼前にしながら、頭の中にはニュースサイトの記事がこびりつく。
(何でだ……何でだよ……)
俺は死んだことにショックを受けているのではない。
――どうして、この嘘みたいな出来事が嘘だと思えない――。
「うっ……」
後ろから思い切り殴られたみたいなズガンとした衝撃が走る。
カシャ、カシャと。写真のフィルムが一コマ一コマをアニメのように再生していく。それは走馬灯のようであった。
……そう、……だ。
そして、現実を知る――、否。思い出す。
「俺は……死んだ……?」