009 7月7日
翌朝の五時。
目を覚ますと侑子の姿はなかった。
押入れから出された真新しい布団は綺麗にたたまれていて、そこにあったはずの侑子の痕跡の全てが消え失せていた。
帰ったか。
眠る前に言った戯言を素直に聞き入れてくれたのだろう。今考えるとあの戯言………………寝言だったか。あんな寝言をどうして言ってしまったのかはどんな名探偵でも解明不可能なほどの謎だ。
確かに侑子の顔は可愛いと思う。しかし。だからと言って自分でわざわざ面倒ごとを抱えるなんて、ありえない。
あの無表情な少女に対し保護欲でもかきたてられたとでも言うのだろうか。……おっさんか俺は。
認めたくはないものだが、自分も歳をとってしまったということだろう。
俺はぼんやりとした頭のまま立ち上がると洗面台へと向かう。
鏡を見る。ひどい顔だ。
とりあえず軽く顔を洗うことにした。シャワーを浴びるという選択肢もあったのだが、腹が鳴ったことによりその選択肢を捨てた。
顔を洗った後、俺は台所へと足を運ぶ。
大あくびをしながら冷蔵庫を開ける。見事に中身はすっからかんだった。飲料はビールとお茶。食べ物に至ってはいつ買ったかも分からない野菜らしき物体があった。流石にこれに手をつけるにはこのご時勢で冒険家に転職するほどの勇気がいる。
「うわー何も入ってないですね」
「仕方ねーだろ。昨日は何にも買わずに帰ってきたんだから」
とは言え。食べ物が一切ないこの状況は結構面倒臭い。
「他に食べ物ないんですか?」
「そういやレトルトかカップ麺があったような気が……」
そう思って俺は冷蔵庫の前から離れて、安売りのレトルトやインスタント麺をぶち込むだけの戸棚を開ける。戸棚の中からカップ麺を二つ取り出す。
「朝からカップ麺ですか。成人病まっしぐらですね」
「うるせー」
と、そこまで来て。俺は隣を初めて見た。
「あ、私豚骨が苦手なので塩とかないですか? 出来るだけあっさり系のやつがいいです」
「いや、お前なんでいんの?」
「はい?」
メガネの女子高生、――侑子が何食わぬ顔で隣にいた。
「あっ」
何を思ったか侑子はぺこりとお辞儀をした。
「おはようございます。今日はいい朝ですね」
そうだね。朝の挨拶は大事だよね。
「じゃなくて! お前帰ったんじゃないのか!」
◇
食卓の上に並ぶ二つのカップ麺。俺が醤油味で侑子がシーフード。少し早い朝食。
誰かと一緒に朝食を食べるなんてこともいつ振りなんだろうと感傷に浸る間もなく、俺は侑子に聞いた。
「じゃあお前ゴミを出してきただけだっての?」
「はい」
侑子は頷いて肯定する。
言われて俺は玄関の近くに置いてあったはずのゴミ袋の山を見た。確かにゴミ袋の何個かが消えていた。
「……今日だったっけ? ゴミ出していいの」
「あー、そんな感じしますね。今日は火曜日ですから燃えないゴミの日ですよ」
火曜日なのに燃えないとはこれ如何に。
「お前よく知ってるな。分別ぐらいはしてたけどゴミを出す日なんて俺とっくの昔に忘れてたぞ」
「普通分別もしてるなら忘れません」
「いや、そっちじゃない。地区でゴミを出す日とか違うじゃねーか。よくこの地区のゴミの日知ってたんだなーって。もしかしてこの地区に住んでんのか?」
「…………」
侑子は無言で頷いた。
言いたくはないけど事実だということは認めているということなのだろうか。素直というのも考え物だな。
そうか。この地区に住んでるのか。もしかしたら今までどこかでニアミスなんてこともあったのかもしれないな。
ってことはやっぱりこの少女は家出でもしたのだろうか。
改めて侑子の顔を見る。
何度見てもそういうタイプには見えない。身なりもそれなりによく、家に不満があっての家出とは思えなかった。
と。そこまで考えて俺は頭を振る。
何を考えてんだ俺は。この娘が家出少女だろうが家無き子だろうが関係ないじゃないか。愚痴を聞くって約束をしただけでほとんど他人だ。そんなこと考えたって無駄じゃないかよ。
「どうかしましたか?」
当の本人は何食わぬ顔で首を傾げる。
こんな時は人の心を上手く読めないこの少女が羨ましく思う。
ピピピ、とスマホで設定したアラームが鳴る。
「あ、三分経ちましたよ」
「じゃ、食うか」
いただきますも無しに俺はカップ麺に口をつける。なんとも体に悪そうな味だ。だけどなぜかこの味は嫌いになれない。一ヶ月に一回は食べたくなる。
ずるずると麺を啜っていると侑子がカップ麺に口をつけていないことに気が付く。
「どうした? 食えよ?」
「……あ、はい」
おずおずと侑子はカップ麺に手を伸ばした。
小さく口を開けると、小さく咀嚼する。美味いのか不味いのか分からない表情だったが、侑子は文句一つ言わずに食べていた。
が。
視線だけは落としていて、見ようによっては落ち込んでいるようにも見えた。
「不味いか?」
「え……? いえ。とても美味しいです」
「…………そっか」
とても美味しいカップ麺などこの家にはないが、それでも侑子は美味しいと言った。なら、それでいいと思った。
俺は再び麺に口をつける。
「ずるずる」
「…………」
「ずるずる」
「…………」
「ずるずる」
「…………」
「ずるずる」
「…………」
しばらくして。
何だこの空気……。
俺はたまらずカップ麺を持ち上げて自分の顔を隠す。麺と一緒に化学調味料たっぷりのスープを飲んだ。
考えてみれば誰かと一緒に飯を食べるのは久しぶりだったことを思い出す。
いつもなら黙って飯を食べて、それで終わりだが誰かがいるだけで朝食がこんな気まずいものに変貌するとは思いもしなかった。
記憶を掘り返す。
朝食の時ってどうしたらいいんだっけ?
何か話せばいいのか?
話すって何を?
昨日見知った人間相手に話すべきことって一体何だ?
それって朝食の団欒中に話すようなことなのか?
ってか何を話すべきなんだ?
と、考えがループし始めた頃、侑子がカップ麺の上に綺麗に箸を置いた。視線はそのままで。
「……何だか、懐かしいです」
独り言のように呟く。
「懐かしい?」
「はい。こうやって誰かとご飯を食べるのがです」
「朝食じゃなくて?」
「はい。いつもぼっちでしたから」
「自分で言うか」
「ぼっちという言葉が気に入らないならお一人様でもいいですよ?」
「別に文句を言ってる訳じゃない」
ってかお前本当にゆとりか? ちょっと古いぞその言葉。
しかし侑子の言葉に俺は口元を緩ませる。
「ふっ」
「む。人の不幸を笑うとは失礼な」
「いや悪い。何か笑えてきてよ」
「蜜の味ですか? メシウマですか?」
「いや。ただ……何だ。俺とお前が少し似たもの同士なんじゃないかって思えてな」
「似たもの同士?」
「ああ。――俺も久しぶりだ。誰かとこうやって飯を食べるのって、もう何年ぶりレベルだから」
名前しか知らない少女に言うようなことではないのかもしれないが、思わず口に出てしまった。出てしまったものは仕方が無いので、俺はそのまま全部吐き出してしまう。
侑子は不思議そうに首を傾げていたが、俺はとてもおかしくなって笑ってしまう。
――ああ、本当に何年振りなんだろうか?
こうやって――笑うの。