08.王女と獣
人に綺麗だなんて、それも男の人になんて、どうしてそう思ったのか分からなかった。ナナセのそれはただの直感に過ぎなくて、けれど心の奥底で切にそう思ってしまった。
耳と同じ色をした黒髪は、世界の黒とは違う色に感じた。真っ直ぐに見つめてくる少年は、闇に染まっているはずなのにどこか澄んでいて、息を忘れた。頬の血を拭う姿すら綺麗で、声を見失った。世界に染まった自分とは対称的な煌めきに、眩しい思いがした。
少年は少女に視線をやる。身構えた少女へ近付いて、少年は手を差し出した。
「これ、お前のだろ?」
少年は握った右手をナナセの目の前で開いた。その手の中には血に濡れながらも金に輝くルイの石。
「ありがとう……。」
耳飾りを返されることはナナセにとって意外なことで、言葉をうまく見つけることが出来ないままに両手を広げ、受けとった。
どうして助けてくれるのか、どうして返してくれたのか、分からなかった。キンヤのときは、珍しく警戒心を忘れていた。静かに身を引き彼と距離をとる。
「お前、ルイだろう?」
「──……あ、」
動揺にナナセの瞳が揺らいだ。見ていただろう少年が笑ったような息を吐く。
「そんな姿していたら、だれでも分かる──ナナセ王女?」
小馬鹿にしたような声の響きに、ナナセは心中で憤慨した。
「そうです。あたしはルイです。」
自分を狙う首狩りに見せる強気な目をしてみせた。何の足しにならなくても威嚇しないよりはする方が良いはずだ。
けれども彼は威嚇した少女を鼻で笑って、路地に目を遣った。
「俺はお前の首を狙ったりしてねえよ。狙っていたならソイツは返さないだろ。」
「そう……ね。」
ならばどうして返してくれたのか、ますます読めなかった。分からなくて、真っ黒な少年を見上げた。こちらを向いたら彼から、視線が返ってくる。
おもむろに少年が彼女の前に屈みこんだ。彼の動作を目で追っていたナナセは、伸ばされた手にびくりと驚く。
「……お前、瞳の中に魔法陣が出来ているのか?」
頬に手を添えられ、物珍しげに瞳を覗き込まれた。間近で見る彼の金色の瞳に、ナナセはなぜかぞくりと肌が粟立つ。
「……そうかも、しれない。変化魔術――姿を化かす魔術は消えちゃったから。」
互いの鼻が触れる距離で普段通り言葉を返すのは難しくて、声が震えた。ちり、と胸がわずかに焼ける。
側で呻くキンヤをちらと見ると、少年はそっと口を開いた。
「……場所を変えるか。こいつらは放って置けば良い。」
少年が彼女へ手を差し出した。この人は信じても良いのだろうか、ナナセはぐらぐらと迷いながら自分の手を重ねた。久し振りに握った人の手は、温かくて柔らかくて、意味もなく泣きそうになった。
「行くぞ。」
「え、きゃ……!」
ふわ、としたのは一瞬で、次の瞬間には抱き上げられていた。大きくなってから抱き上げられたのは、はじめてのことで心がふわりと浮わついた。
「飛ぶぞ、」
耳元で聞こえた声に、ナナセははいと返事を返す。力を抜けと言われても、それは無理な話だった。努めて負担がかからないように構えると、彼は路面を蹴り空へと飛び上がった。髪が、服の裾が風になびいて、空へと舞い上がる。
「わ、あたしが飛ぶときとは全然違う、」
初めての感覚に、少女の声が思わず弾んだ。少年は驚いたように空から彼女へと視線を移した。
「王女も、空を飛ぶことが好きなのか?」
「うん、空を飛ぶのは好きよ。あなたも好きなの?」「あぁ。空を飛ぶのは気持ちいいし、俺も好きだな。」
ちらりと見上げた綺麗な顔は、さっきより僅かに優しく見えた。
「そうなん……ですか。」
少年への警戒を忘れかけていた自分に、気が付いていた。抱かれているその胸に、身体全部を預けてしまいそうになることも、それが危ないことだということも、気付いている。なにも今更足掻かなくても、と身の内の囁き声を、懸命に追い出す。
気を許してしまいそうになるのは、彼の不思議な雰囲気からなのか。さっき出会ったばかりの人だというのに、ずっと知っていたような人だった。
地上を見ると、どんどんと都会の街並みからは遠ざかって緑がちらほらと目立ち始めていた。景色の移り変わりをぼんやりと感じていると、緊張や疲れからか眠たくなった。優しく運ばれているのは本当に心地よかった。
少年が地面に降り立った衝撃で、微睡みから浮上した。
「着いたぞ。」
ナナセが足を下ろしたのは、色とりどりの花々が咲き誇る草原だった。ちょうど秋の花たちが咲き揃うこの時期の草原は、本当に見事だった。
「うわ……!」
少年を振り返ると、身を屈めて花を見ていた。彼がこんな場所を知る優しい人には見えなくて、ナナセは思わず小さく笑ってしまった。
「なんだよ、何がおかしい。」
言いつつ、彼は風に舞う花びらに手を差し出す。さっきまでの彼の面影はどこにも無くて、ずっと幼く見えた。
「あなたがこんな綺麗な場所、知ってることに驚きました。あなたはとても強くて、優しくは見えなかったですから……。
……でも、ほんとに綺麗な場所。」
ナナセが風に乗せた声は、泣きそうともとれる声になってしまった。きっとそれは、なにもないこの草原の優しさのせいだ。ナナセの微笑みに、彼もぎこちなく笑った。
「あぁ。綺麗だろ。いつの間にかよく来るようになった。」
ぎこちない彼の話し方が、ナナセは気にならなかった。それよりも水中で空気を得たように、心がじわりと安らいでいく気がした。しばらくして、彼が静かに口を開いた。
「俺は、何故お前を助けたのか分からない。」
驚く少女がえ、と声を漏らした。
「助けたかったから、助けた。
──王女はきっと、闇にいるべきではない。」
ざざ、と風は足下の草花を揺らして、花弁を宙へと巻き上げる。形のよい薄い唇がゆっくりと言葉を紡いでいく様子を、ナナセは静かに見ていた。
「空からでもよく分かる。銀髪で青い瞳は、王家でお前しかいないと聞く。」
不揃いに切られた細い黒髪が風に揺れた。風に遊ばれる髪を視界の隅に、ナナセは彼の金色の瞳を見つめる。
「俺が助けて悪かった。──お前を、こちらに引きずり込むかもしれない。」
「こちら……。」
どう答えるべきかわからなくって、彼をぼんやりと見つめた。すると少年が言葉を重ねた。
「分かるだろ?
俺が改造人間、だと。」
「それは……その耳は魔術ですよね。」
きっとこれが冷たくなった国の力だと、ナナセは思う。戦力として魔術で改造された人間がいる。柔らかそうな、猫の耳はそれがかつて生きていた証だ。彼もきっと、人生を狂わされた人。
──それを始めたのは、きっと父の執事、ライだ。自分があのとき逃げたせいで、生まれた運命だった。
王女として、恥ずかしさを噛み締める。
また宙を舞う花びらに手を伸ばして、彼は切なく言う。
「俺は、十一から軍にいる。何故かその中から選ばれて、一生続く魔術をかけられた。」
ゆらり、こちらに寄越されたのは獣のような金の瞳。
「この耳はその時本物の猫から貰った、『生きてるホンモノ』。おかげで人より耳が聞こえて、目が見える。俺達は人間兵器だ。」
世界には消える魔術と消えない魔術があることは常識だ。少年のそれは、後者だと、魔術師でもあるナナセには分かる。
彼の過去に大きく自分たちが関わっていることで、胸が痛くなる。この少年の苦しみは、自分のせいだ。
「同じように改造された仲間ももうほとんど死んだ。闇のうちにいるモノの近くにいたら、巻き込まれてしまうぞ。」
背を向けられたら、表情は窺い知れない。けれども少年の声音と背中が、痛々しく思えた。
「闇の……」
「──俺はもう、人間じゃない。そういう意味のこちらがわ。」
振り返った彼が見せた諦めに似たような、悲しい瞳。その目にはちゃんと、人の心があった。
人に触れると、心の天秤はなかなか上手く働かない。彼の諦めが、少し自分に重なった。どうにかして彼を信じてしまいたかった。
「あなたは闇にいたけど、凄く綺麗な瞳をしてると思うんです。
姿は普通の人ではないけれど、心はちゃんとありますよ。助けても得をしないあたしを、助けてくれたのは、心があったからでしょう?」
少年は驚いたようにナナセを見つめる。彼の心が少しでも軽くなるか、ナナセは考えてしまう。
「闇にいるのは、一緒です。あたしも結局、もう暗い場所でしか生きられないですから。」
「……そうか。」
「はい。」
ナナセは笑った。彼を見上げると、また目が合った。瞳の奥で燃える野心も、刃を握る快感も、彼にはないらしい。闇に染まったと言う彼は、硝子のような煌めきを持つ人だった。
「俺は、シュン・ルグィン。ルグィン、でいい。」
秋の冷たい風に遊ばれて揺れる草木の音がふたりを包む。唐突に名乗られたことにナナセは驚きつつ、同じ項目をなぞるように答える。
「あたしはルイ・ナナセ。ナナセ、って呼んで。」
そう言いつつナナセはルグィンに近付いて、正面から両手で頬を包み込む。
「じっとしていて……。」
瞳から溢れる青い光を出来るだけ見せないように目を伏せるのは、魔術を使うナナセの癖だ。
「助けてくれた、お礼じゃないけど。」
そう言って両手を離すと、彼の頬の刀傷は消えていた。
「……ありがとう。」
彼女の行為と綺麗に消えたことに驚き、傷があった場所に何度も指を滑らせた。
「はじめて会って、まだ素性も分からないかも知れないのに……おい、ナナセ!?」
ぐらり、とナナセが崩れて、とっさにルグィンが抱き止める。体に力が入らないようだった。
「やっぱり魔術使い果たしちゃったかな……。」
力なくへらりと笑う少女にルグィンは呆れ返った。
「お前、俺の傷治した分が余計だっただろ。」
「大丈夫、休めば治るから。
あたしどこにも行けないし、ここに置いていっていいから……。助けてくれて、ありがと……。」
目眩がして、ルグィンの腕に倒れこんだ。ナナセと名を呼ばれて体を揺さぶられているが、彼女の意識はここまでが限界だった。
***
──起きたら牢獄は嫌だな、けれど天国はもっと嫌だな。やりそびれたことだってたくさんあるから。魔術師は魔力を使い果たしたら死んでしまうって言うけれど、どうか本当でありませんように。
意識の遠くから、優しい声が二人分聞こえる。あちこち痛むけれど、ふわふわと体は温かい。どうやら生きているみたいだ。
額に何か触れて、深く沈んでいた意識が浮き上がった。
「起きたか?」
額に触れていた手が離れていく。広くなった視界に映ったのは、黒と金だった。少年の後ろには木目の綺麗な天井が見えた。
「……ルグィン……?」
知ったばかりの名が、記憶から浮かび上がって音となった。
「ああ。」
掠れ声で呼ばれた名にわずかに目を丸くして、ルグィンが頷いた。ほんの一瞬の優しい目付きを隠すように黒髪が揺れた。
ナナセはひとまず起き上がろうとしたけれど、それさえ上手く力が入らなくて苦戦してしまった。
ここはどこだろうか。ベッドに寝かされていたようだった。白い布団がふかふかで気持ちが良い。あちこちに巻かれている包帯は、誰が巻いてくれたんだろうか。
見覚えの無い部屋を見回すと水差し、薬箱、真新しい衣装ダンスや机が見えた。生活感はほとんど無くて、けれども治療の道具は揃っている不思議な部屋だった。
「少し待ってろ。」
少年はそう言い残して椅子から立ち上がる。ぼんやりと部屋を出ていく背中を追った。
「──あ、」
「うわ、」
扉を開けたルグィンとちょうど良く誰かが鉢合わせした。相手は微かに幼さがまじった綺麗で強い声の主だった。
扉とルグィンの影から姿を現したのは、カートを押す同年代の少女だった。金色の髪をふわりと揺らして、彼女が笑いかけてきた。彼女の頭にも、黄金色の獣の耳があった。
「起きた?」
屈託ない笑顔とともに、ベッドに歩み寄ってきた。額に手を当て、ひとつ頷きを見せた。
「良かった。三日も寝込まれたら心配するわ。」
ちょうど食事の時間のようで、カートから三人分の食事を並べながら、彼女は嬉しそうに笑った。
「あなたが助けてくれたんですか?」
「ええ。ルグィンが女の子を抱えて私のところに来たのだもの、助けない訳にはいかないわ。」
「え、ルグィンさん……あたしあの草原に置いていってもらうんじゃ……。」
扉の近くに立っているルグィンを見上げれば、彼は顔を伏せていたから表情が分からなかった。
「なにそれ?」
きょとんと首を傾げる彼女に、簡単にそれまでの事を明らかにすると、突然彼女は笑い出した。その明るい笑い声にナナセはびくりと肩を跳ね上げる。
「ナナセ王女、格好良いわね。
だけどあたしのところはもっと迷惑なお客さんだっているの、心配しないで。
──貴女だけのために、ルグィンや私の人生は狂わせやしないわ。」
彼女の栗色の瞳の中に、強い煌めきが見えた。年だってそんなに離れていないのにこうも考え方は違うのか。彼女は、どんなひとだろうと興味が沸いた。
「あなたは何をする人なの?」
「私?私はここ、ルイスでなんでも商品にする商人をしているわ。言うなれば闇商人ってところね。」
「闇商人……。」
「といっても、自分の主義に反するものは扱わないから、全てという訳では無いのだけどね。」
肩を竦めて彼女は唇を上げる。
「へえ……。」
彼女も闇の世界に立つ人のようだ。彼女の瞳の不思議な強さは、それが理由なのだろうか。
「医療魔術もナナセ王女ほどの力はないけれど、商いの中で闇医者もしているわ。私もそこそこ魔力が強いの。」
同じ世界のなかでも、強く生きている彼女が眩しく思えた。
「そうだ王女、お昼食べられるかしら?」
彼女はナナセを王女と呼んでいる。よそよそしい呼び名に少し悲しくなった。
彼女が寄せてきた食事の皿に乗っている美味しそうな食事。王女としか呼ばれないままで食べる料理は、多分、美味しくないから。
「ねぇ、あたしのことはナナセと呼んでくれないかな。
あなたの名前は?」
「私?私はスズランっていうの。タチカワ・スズラン。十八よ。ルグィンのひとつ年上よ。
ごめんね、自己紹介忘れていたわね。」
すずらん、と教えて貰ったその名を繰り返してナナセは嬉しげに笑った。
「そっか。あたしよりふたつお姉さんね。あたしお姉さんいないから憧れるなあ。」
「あたしのこと、怖くないの?」
「どうして怖いの?」
まっすぐにスズランを見上げてくるナナセに向かって口を開いた。
「だって私、改造人間よ?
ライオンの耳をつけてる女の子よ。牙だってあるわよ?」
迷惑にならないと彼女に言っておきながらこんなことを口にするのは、矛盾してるのはスズランだって知っている。それでも尋ねずにはいられなかった。
「そうなんだ、ライオンかあ。ライオンはちょっと怖いかな。あたしのこと、食べないでね。」
怖がる素振りなく笑う彼女に、スズランは切なくなった。久しぶり胸が痛いのは、きっと自分を見てくれる人に出会ったから。
「貴女、凄いわね。」
負けたわ、とでもいうようにスズランは笑った。
「どうして?」
彼女が分かっているのか分かっていないのか、それすら分からない。なのに胸のうちに、ほんのりとしたあたたかさを、スズランは感じた。そんな二人を見て、ルグィンは小さくため息をついた。
***
水が飲みたいと言えば、取りにいきましょうとスズランが言いナナセは部屋を出た。スズランはカートも返す様子で片付けていたからその分時間がかかるだろう。
先に出ておいた方がいい気がして、部屋を出たものの、扉の外は創造よりも長い廊下になっていた。足元には赤い綺麗な絨毯。まるで、あの頃いた場所みたいだった。
「え、銀髪…?ルイの血筋か!?」
声がした方を振り向くと、二十代に見える男が二人立っていた。ここで世話になっているのだろうか、一人は腕を首から吊っていてもう一人は自分ほどではないが包帯だらけだ。
ここが病院のような風体をしたふたりだ。
「げ、『ナナセ』だ!ぼけっとするなよ!殺されるぞ!」
「いや待てよ。ここでナナセを捕まえたら……。」
面倒なことに、男たちの声は筒抜けである。しかも今はナナセは魔力も戻っていない。スズランの医療魔術は粗方治療しているが、魔術だけでは完治はさせられない。まだあちこち傷だらけだ。大人しく待っていた方が良かったと後悔すると、スズランが出てきて肩を支えられた。
「駄目よ?この子捕まえたら貴方たちの商談破談にしてやるからね。」
「スズラン姐さん!?しかしこいつ……ナナセでしょう?」
「うーん、ちょっと違うのよ。
もともとルイの家系の子で、そっくりで生まれてきた子なの。だからナナセ王女の替え玉にされてる子。こちらで預かっているの。内緒よ。
──ほら、自己紹介。」
ここでも嘘をつかないと生きていけない。けれど、守ってくれる人がいる。
「私はユリナ。私はナナセの再従兄弟にあたるの。」
だからこの人たちにも、笑って嘘を吐いた。
***
時を少し遡る。
スズランがカートに食器を並べる音が響く部屋。台拭きを任されたルグィンと彼女の二人しかいない。ナナセは空気に聡いのか、先に行くねと先に出ていった。王女の後を追うべく片付けながら、スズランは静かに笑った。
「貴方に訊いても答えてくれなかったけれど。」
手を止めたルグィンはルグィンは小さな相槌を返す。
「あの子を貴方が助けた理由、なんとなく分かったわ。」
スズランはやわらかく、さっき見たあの笑顔を思い出しながら言う。
「そうかよ。ナナセを助けたのは偶然だったら、いいのに。」
そうやって瞳を伏せるときは、何かを言いたくても言えないときだと、スズランは知っている。今言いたいことも、なんとなく分かる。
「貴方の運命は狂いはしないわ。
自分の意思で、廻るだけよ。」
人は決められている運命という道を辿るものだと信じられている。口癖のように口にするそれは、一種の祈りに近かった。
「まっすぐで純粋なあの子も……。狂わせはしないわ。」
今はじめて喋った。けれどそこまで思わせる何かを持つ、あの少女。年も二つしか変わらない少女だった。
「あ、あいつ、サシガネたちに見つかった。」
ルグィンは敏感な耳で防音の壁さえものともせずに、廊下の話を聞き取る。
「なんでよりによってサシガネなのよ、欲の塊なのに!」
そうやって、スズランはカートを持って急いで扉に向かう。
「だけど貴方も、変わったわね。そんなに優しい瞳が出来るんだ。」
「……さっさと行けよ。」
出ていきざまのスズランが吐いた捨て台詞に、手をひらひらと払って、ルグィンは吐き捨てるように呟いた。
***
「ごめんね、ユリナ。こんなやつに出会わせて。欲の塊だから、気を付けなさいよ?首が飛んだらサシガネたちのせいだから。」
はは、と『ユリナ』に笑いかけるスズランは、少しさっきより粗雑な大人な印象を受けた。「え、ヒドイよ姐さん!
そりゃ確かに、ナナセなら取っ捕まえて売ってやろうと思ってたけどさ。しょうがないじゃんナナセじゃないんだから。」
金髪の男が口を尖らせて頭をかく。隣の長い黒髪の男が鼻で笑った。
「まずこの屋敷ではそういうのお断りよ。」
スズランがそっぽを向いたら、なんだか謝る金髪が、なんだかおかしかった。どうみたって彼の方が年上だから余計に滑稽だった。
「ナナセじゃなくてごめんなさい。ナナセじゃないから、仲良くしてくれますか?」
空色の瞳をした彼女は銀髪を揺らして男たちにへらりと無垢に笑う。
「……おう。友達、な。」
ユリナは両手を顔の前で揃えて幸せそうに笑った。
「本当ですか、ありがとうございます!」
「しかしまあ本当にナナセと違うんだなあ。ナナセはもっと態度でかくて、怖かったのによ。」
「王女に会ったことあるんですか!」
ユリナが驚いて見せると金髪の男が頷いた。
「ああ、そうだよ。」
「じゃあ首狩りなんですか?」
「うん。」
「えっと、首狩りのサシガネさんと……?」
金髪の男の方を向くと、彼がにかりと笑って胸を張る。
「俺がサシガネ。サシガネ・レッカな。」
「トキワ・レン。俺はサシガネと組んでいる首狩りだ。」
黒髪の男は優しく笑う。
けれどもナナセも覚えている。名前を聞かなければ不自然だから尋ねたけれども、ナナセとして何度か出会ったことがある。
確か、サシガネは人の良さそうな顔に反して頭のいい切れ者と聞く。トキワは寡黙ながら武術で名高い。国でも十本の指に入る程の二人組の首狩りだった。
出会ってはいけない人に出会ってしまった。ナナセと瓜二つだなんて言われても当たり前だ。だから絶対にナナセ本人だと、確証を持たせてはいけない。『ナナセ』に出会った人をどうやって誤魔化そうか。この人達は昔どうやって撒いたか。台所に案内されながら溜め息をつく。この規模の広い屋敷では台所という言葉が当てはまらないような気がしてきた。
すっかり信じてくれたようだけれど、明らかな嘘でこちらはばれやしないかとひやひやしている。スズランと話をして笑っている首狩りをちらりと見上げる。この人たちと向かい合うのが怖いと、ナナセの心が怯えた。
嘘を吐き始めたらキリがない。嘘の後ろめたさも知っている。塗り重ねていく辛さも、息苦しさも知っている。
ここまで逃げ切るために、どれだけの姿に化けて、どれだけの名前を使っただろう。嘘がバレたら逃げて、逃げて。
──あたしは弱いから、嘘を吐いて重ねて、偽りの自分に守られて生きている。
──でもいつかナナセとして、と願ってしまうのも、きっとあたしが弱いからだ。