05.首狩りと空色の瞳
「おはよう、ハルカ。」
階段を降りていると、後ろからアズキの眠たげな声がした。
「おはよう。アズキ。」
彼女らしくて、ハルカは微かに笑う。
下の階には、アズキの両親がいた。父親は写真が動く新聞を見ており、母親はフライパンを片手に魔術で出来たコンロに向かっている。
この家には今はこの四人しかいない。歳の離れたアズキの二人の兄は、商人として家を出ていて滅多に帰ってこないと教えてもらった。
「おはようございます、コルタさん、エリさん。」
「おはようハルカちゃん。よく眠れた?この頃お仕事続きでしょ?体、壊さないようにね。」
エリが他人の自分を気遣ってくれることがとても嬉しくて、ハルカは笑みを溢した。そうしていると突然、ハルカの頭に大きな手が乗せられた。
「ハルカ。お前がこの家に来て、良かったよ。」
感謝されることなど、全く身に覚えのないハルカは、コルタを見上げ瞬きを繰り返した。アズキの父はアズキの方を向いて続けた。
「なぁ、アズキ。お前とこんなに笑えるような人など、そうそういないもんな?」
娘に微笑みかける父に、ハルカは目を細めた。自分が昔にどこかに置いてきたもので、ハルカの堅い心が解けていくようで、なんだか切なく心地よかった。
「ハルカちゃん、今日の最初の方は何時なの?」
エリの問いにハルカはさらりと答える。
「ひとつ向こうの道のリルさんところのおじさまが九時だって。この頃頭が痛いらしくて。」
「九時!?ハルカちゃん、今何時だと思ってるの!!」
エリが驚いた顔をしたので彼女が指を指した壁掛け時計の方を見る。
「えっ!?八時五十分?おばさん、ご飯貰います!!」
ハルカはぱっと椅子に駆け寄り、自分の朝食をかき込む。
「ハルカ!あと十分だよ!
お客さん来ちゃう!」
「……むー……!」
口にパンを放り込んだハルカが声にならない悲鳴をあげた。
***
アズキの家の一室を借りてハルカは診療所を開かせてもらっている。小さな診療室に、ハルカがたくさんの機材を自費で買い込み、置いている。前に訪ねた街でも魔法医術師をしていた。そのため、大きな機材を買う資金を工面することに関しては困ることはない。ただ、無駄遣いをしないで毎日を慎ましく過ごすこともあり、懐は暖かかった。そのお金で作った小さな小さな診療室。
その診療室で、今日の一番目の人に向かい合う。
「……おはようございます。ハルカさん。」
「おふぁほうごぶぁいまふ。
リルのおぶぃふぁん。」
まだ九時にはなっていないが、少し早めに来ていたリルの父は時間を早くしてもらった。それは良いのだが。
「……出直して来ようか?」
「はぁ。ごちそうさまでした。大丈夫です。」
「……はぁ、そうですか。」
律儀に手を合わせたハルカにリルの父はなんとも腑に落ちない顔をしている。
「それで、おじさんどうされたんですか?」
気を取り直し、居住まいを正したハルカは、幾つか問答を交えながら彼の容態を診ていく。彼女は納得したのか、ふわりと笑った。
「大丈夫です。他のところも調べてみたんですけどなんともありませんし、貧血気味なんじゃないですか?」
そう言ってハルカは聴診器を置く。
「栄養にも気を付けてくださいね。あ、でもちょっとだけ腕を貸してくださいね。」
小さく微笑むハルカはそっと手を差し出し、リルの父の腕に触れる。ハルカは顔を下に向けて、人に見えないようにして彼の腕に魔力を注ぐ。ハルカの瞳が青く光るのは、向かい合っていたら嫌でも分かった。淡い蛍のような光は、次第に消えていく。
「ハルカさん……?」
リルの父はわずかに動揺し、彼女に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いたけれど、彼女は反応しない。しばらくして顔を上げたハルカは茶色の瞳を見せた。「はい、もう大丈夫ですよ。」
「ありがとう。助かるよ。」
普段と変わらない笑顔のハルカに男はほっと安堵する。先程までの彼女は一瞬別人のようだったから。
「はい、じゃあ、お仕事頑張るのも大事ですが、体も気を付けてくださいね。
──次の方ー。」
ハルカは晴れ晴れとした顔で少し声を張り上げた。
***
「お疲れさま、ハルカちゃん。」
エリが診療室から帰ってきたハルカに珈琲を入れてくれた。お礼を言って、冷めないうちに口をつける。
「毎日大変だなぁ、体はつらくはないか?」
体は強い方で、とハルカはコルタに向けて小さく笑った。リビングのテーブルから窓の外を伺うとやっと夕方になっていることに気がついた。もうエリは夕食の支度を始めている。料理の量の多さから、今日は隣に住むトーヤの一家が遊びに来るようだ。
「エリさん、手伝いましょうか?」
「本当?助かるわー。ハルカちゃんに対してうちのアズキは……。」
エリが隣の部屋にいるアズキの方を見て大袈裟にため息をついた。話が聞こえたのか、アズキの足音が聞こえた。
「もう!分かったよ。あたしも手伝うよ!」
「アズキ、ありがとうね。」
エリは少し嬉しそうに、でも皮肉たっぷりにアズキに言った。むくれるアズキをハルカが笑う。久しぶりの三人での夕食の準備は、少し嬉しい。
「エリさん、今日は何を作るんですか?」
「今日はねー……」
「ハルカ、お母さん、野菜シチューとかどう?」
目を輝かせたアズキに、二人は頷いた。
「いいわね。ハルカちゃんどう思う?」
「野菜たくさんありますし、いいですね。」
キッチンからリビングにまでいい匂いが漂うと、リビングからコルタがひょっこり顔を出した。
「おっ、今日は野菜シチューか。」
テーブルの上には質素だが温かな料理が並ぶ。玄関から賑やかな声が聞こえてきた。トーヤの一家が来たようだ。
二人の家族は、時々食事をする仲だ。ソライ家は宝石商でキリタニ家は宝石職人であり、昔から仕事付き合いがあったが、同世代の子供が産まれてからは家族で仲が良いと、トーヤが自信満々に教えてくれたことがある。
訳あって親がいないハルカには、とても眩しくて。彼らがハルカにはとても羨ましく思えた。
「いただきまーす!」
それぞれの声が部屋一杯に響く。カチャカチャと響く食器の音と、それぞれの笑い声が染み渡る。サラはまだ別の部屋で安静にしているため、今は七人で机を囲む。
「うちの向かいの家の娘、ハラルに嫁いだらしいなぁ。」
「向かいってカシワギさんじゃない?」
「カシワギさんの娘さんって、あの可愛らしい子?」
「そうそう、美人さんよね~。」
「まぁ、綺麗な人だよな。」
食事中の、他愛ない会話。ハルカは会話には加わらないで、アズキの隣で話を聞きながらゆっくりと食べ進めていた。
「……そうそう、ここに『首狩り』が来るらしいなぁ。」
コルタの何気なく言ったそれに、ハルカは自分の心臓の音が聞こえた。
「『首狩り』って、あの賞金首を捕まえてくれるあの人達?」
トーヤが確かめるように言った言葉に、背筋が冷えた。
「そうそう。今回は聞くところによると、あの王女さまを追いかけているんだって……。」
──カチャーン
話をしていた6人は音のした方向を一斉に見た。
「大丈夫?ハルカちゃん。」
「え、あ……大丈夫です。
すみません、ちょっと首狩りの人達に出会った事があって、怖くて……。話されてたのに、すみません……。」
へらりと笑った顔はまだ青いままだ。
「いいのよ、ごめんね……。
やっぱり顔色悪いけど大丈夫?休んでおいで?」
トーヤの母がそう言ってくれたので、ハルカは甘えて部屋に下がることにした。
ハルカの視線がぐらぐらと揺れているのをアズキはちらりと見てしまった。
いつもと様子の違うハルカにおかしい、きっと何かあると、アズキの直感が働いた。
けれど多分ハルカは、踏み込まれることを嫌う。ハルカが出ていった後、しばらく悩んでアズキは立ち上がった。
***
ハルカの部屋から、嫌に明るい月が見える。その月明かりの中、彼女はカバンに荷物を詰め込む。もともと自分の荷物は少ないし、必要最小限しかないので、旅行用の鞄ひとつで旅をしていた。
持ってきたブラウス、ネクタイ、スカート。まだまだ統一化のなされていないこの国では外国かぶれのものばかり。この国独自の装いではなく、フェルノールに占領された最に流入してきたもののひとつである。けれども現王が嫌う先代の象徴の青い衣類が多く、フェルノールの支持派ではないことも窺える。
まだこの国では奇抜なものとして見なされるが、毎日身に付けている彼女の大切なものだった。小さな黒色の鞄に身の回りのものを詰め込む。
唇をぎゅと引き結んで、それでも、小さな声がひとつ。
「ごめんね……。」
言わないと決めていたことが、思わず口から零れた。けれど両手は荷物を詰めて、この居場所を失う準備をしている。
今、ここにいたことを残さないように。
この場所から消え去るために。
ぎゅう、とブラウスを握り締める。潔く去るには、ここが好きだなんて思ってはいけないのに。余分な感情なんて捨てるべきなのに。ハルカはいつのまにか、この場所を手放したくなくなっていた。
──こんなことは、初めてだった。
他の町では、この魔力と医療技術から恐れられてきた。もうひとつ彼女たちに隠している秘密も、忌み嫌われる種だった。そんな境遇だから友達なんていなかった。名前を呼んでくれる人なんていなかった。
「あたしに笑いかけてくれる人なんていなかったのにな……。」
いつの間にか、手を止めていた。認めたくなんて、無かった。認めてしまったら、ここを去れなくなる気がして。
──それでもこの場所が
「──好きだなぁ……。」
大事な人を失いたくないのに、自分の隣には幸せなんて無いのに、彼らの隣にいたいと願う自分に腹が立たしくて悔しくて、涙がひとつ、頬を伝った。
昔諦められた何もかもを、諦め切れなくなったみたいで、そんな思いがけない自分の変化に揺らいだ。
小さな欲望が命取りだって、ハルカは痛いくらいに知っている。涙がまた零れることの無いように、俯き唇をきつく噛んだ。
またハルカが荷物を詰める手を動かし始めると、背を向けていた扉が軋みながら開いた。「ハルカ……?」
床が軋む音と共にアズキが近付いてくる気配がした。けれどもいつもより近くに寄って来ること無く、少し距離を置いて立っていた。
「なんで明かりをつけないの?ハルカの力があれば簡単でしょ?」
暗闇を良いことに涙を拭い、アズキがいるであろう方向に、明るく繕い笑って相槌を返す。けれどもハルカは魔術で明かりを灯そうとはしない。またアズキも無理に光を灯しには行かない。二人ともが黙りこむ。
背後に聞こえる虫の音が、やけに存在を主張してくる。
やがて口を開いたアズキは、詰まり詰まりの言葉を繋げた。
「ねぇ。ハルカは『首狩り』に会ったことがあるの?……ハルカが怖がるくらいの、何かがあったの?」
肩を強張らせてハルカが小さく返答に詰まった。背中に月を背負うハルカのその反応は、アズキであってもよく見えたが、アズキは構わず続けた。
「何か隠していることは大体感じていたけれど、ハルカは何を隠しているの?
言って……?私、ほんとのハルカを知りたいよ……。」
それは酷く苦し気で、心に突き刺さる声だった。信用されていないと落胆するアズキのその声に、ハルカは逃げられなかった。返す言葉を選んでいる間に、そっとアズキが近付いて来た。彼女もゆっくりと月明かりに照らされる。ハルカの隣に床に膝をついて座って真っ直ぐにハルカの黒い瞳を覗きこんだ。無垢なアズキの視線から逃げるようにハルカは瞳を伏せた。
「あたしが本当のことを言ったら、アズキまで首狩りに狙われる……。」
言えなかったことを押し出すように、やっと言葉にできた。これが怖くて、言えなかったのだ。巻き込みたくなくて、言わなかったのだ。
「なんで?」
「なんでって……。あたしを知ったら首狩りに、」
「いいの。」
ハルカは顔を上げてアズキを大きな瞳で見返した。瞳は揺れて掌は握られていて、戸惑いがアズキにさえ伝わった。
「……いいよ。私はハルカが知りたいの。」
覚悟の決まった穏やかな声音に、言葉が詰まった。あんまりにも穏やかで、心が軋むように痛んだ。
──聞いてはいけないと上手く、伝えられない。
どこかでいつも、秘密を明かせてそれでも信用してくれる人を、求めていた。その心も相まって、止められなくなってきた。優しい世界に包まれて、心の鍵をかけるのを忘れたのだろうか。秘密を明かせば隠し通す苦しさから楽になれると、心のどこかが誘惑した。
「これを聞いてしまえばもう、後戻りは出来ないよ。後悔したって遅いよ。」
「うん。ハルカは他の人と雰囲気が違ったから。私たちの運命も、きっと変わるって思ってた。」
だから良いのと穏やかに笑う彼女に、また胸が軋んだ。
アズキは、こういう人なのだ。分かっていたけれど、これが彼女の良さで、悪さだ。人を易々と信じて疑わない彼女の強さと弱さに、不意に泣きたくなった。他人にやすやすと信頼預ける彼女が、眩しかった。
──どうして隠していると知っていても、嘘つきだって知っていても、それでも自分を信じてくれるのだろう。
そう思うと嬉しくて、悔しくて。このまま向かい合っていれば泣いてしまうと、ハルカは窓へ近付きアズキに背を向けた。
嘘をつくのも上手くなくて、独りでも居られなくて、彼女を引き摺り込む自分が嫌で、小さくごめんと呟いた。
誰が聞いても分からない自分の特徴から話し出す。
──本当のあたしを知らないでいて。
あり得ない願いが生まれて消える。
「あたしの今の名前の『ハルカ』はあたしのとうさんとお母さんの名前の欠片なんだよ……。」
──知ったらきっと隣にいる資格がないって気付くでしょう?
「昔、あたしはお城にいたあの話、本当だよ……。」
──どうかあたしを、見限らないで。
「あたしは、賞金首だよ……。」
──ハルカでこの場所にいたかった。
「あたしは──、」
ここまで言ったら引き返せないのに、ここにきて躊躇った。床に座っていたアズキが呆然と黒い瞳を見上げていた。
「ハルカ……ハルカは王族の、賞金首?──まさか……あの、ひと?」
遠回しに、でも決め手となる言葉。ハルカは小さな沈黙の後、瞳を伏せてこう呟いた。
「……そうだよ。」
その瞳に灯る、青い光。いつもハルカが魔術を使うときの瞳だった。アズキに背を向けたまま、ハルカは自身にかけたままの魔術を解いていく。彼女の黒髪がだんだんと色が抜け落ちていく。月明かりの中で黒から灰へ、灰から──銀へ。白く輝くその色は、アズキも聞いたことがあった。
伏せた瞳をもう一度アズキに向けた。その瞳はもう深い空色をしていた。
「ハルカ……。」
覚悟はしていたはずなのに、目の前の彼女の姿を見たアズキは呆然として、それしか言えなくなる。
「あたし、ハルカじゃないよ。本当の名前は……ナナセだよ。」
消え入るような声で呟いた彼女に無意識でアズキは小さく身構えた。それは、ナナセの姿は見れば生きて帰れないと聞いていたから。例えそうだとしても、ハルカだった彼女に恐れを抱いたようでアズキは自分が恥ずかしくなった。けれどその思いは表面的で、そう簡単に警戒は解けない。
「ルイ・ナナセ……。」
ぽつりとアズキが呟いた己の名に、ナナセは悲しく笑った。見上げた彼女はいつになく澄んだ瞳をしていて、賞金首なんて何かしら罪を抱いた人なのに、どこか彼女は違っていた。
「そう。あたしはルイ国第一王女ナナセ。本当は、誰にも言わずに出ていくつもりだったんだけど。」
見つかったねと笑う彼女は、いつものように悲しげに瞳を伏せた。アズキはごくりと唾を飲み込む。
「私、……ナナセ様を信用しても、いいの……?」
王女は自分勝手だ、敬われるのが好きだとどこかで聞いていたから、アズキはそれに従った。アズキの態度にナナセは眉を下げた。
「親も守れないような王女に、様なんか要らないよ。」
ナナセの含みある言い方に、ライの裏切りを知らないアズキは返事に戸惑った。
「すみません……。」
アズキの口から出るのはやはり敬語で、ナナセは表情を崩した。
「ナナセもハルカもあたしだから。さっきまでのように普通に喋ってよ……。」
顔はお互いに見えない。仮にでも友達だった二人だから見えなくても何が言いたいのか分かる。
けれどアズキにはそんなこと出来ない。
「ハルカは、あたしの姿だけを変えただけ。性格はあのままなんだよ。
それにね、アズキ。……信じてくれなくても良いよ。だけどあたし、とうさんを殺してないんだよ。」
アズキは大きく瞳を見開いた。
「……え?」
アズキが聞いてきた話と食い違っている。公に出された情報では『父親殺し』の王女であるのに、本人は違うと言う。ハルカに未練のあるアズキの心が、ほんの少しだけ、傾いだ。
「あたしの本当の昔話をしてあげる。」
「本当の昔話……?」
ナナセは一度だけ振り向くと窓枠に座り、彼女の言葉に困惑したアズキと向かい合う。ナナセが彼女から視線を外し俯くと、薄い月光に銀の髪と青い瞳が薄く輝くから、アズキはその危うさにどきりとする。
「今から喋る話は、あたしのほんとの話。
──別に、信じてくれなくてもいいよ。もともと、あたしは信用されない人だから。」
ナナセの頬がきらりと輝いたようで、信じてと声無く叫ぶ王女の姿にアズキは胸が締め付けられた気がした。
信じてる、って本当は言うべきだって、思った。だけど、ナナセの声が嘘を吐かせてくれなかった。本当に信じていいのか分からなかった。大好きな友達が、突然賞金首だと言うのだから。
戸惑うアズキに向かって、そっと昔を語り出す。
「生まれたときには、あたしはお城にいたの。いつも城を抜け出しては、城下町のみんなに出会いに行っていたわ。」
昔を懐かしむ、『ハルカ』と同じあたたかい声がそっと物語を紡ぎ始めた。
伝わらなくてもいいなんて言ったけど、やっぱり本当は信じてほしい。
──お願い、信じて。
アズキに届いてと、願った。