22.先視の少女
今日は眠れない。だって今夜は私の、トーヤの運命の分岐点。
──そう視たもの。
自分が眠っていたソファーを下りて、先視の少女は隣のベッドへと近付いた。
ベッドで丸くなる茶髪の年下の少年は、もう幼い顔立ちを欠片も残していない。
新式の改造によって格段に増えた魔力に耐えきれなくなった少年の器が、成長することで耐えたのだ。アズキとナナセの友達だからと巻き込まれた彼には詫びる言葉もない。
「トーヤ、起きて」
肩を揺するとトーヤは数秒で目を覚ました。ベッドもひとつしかないこの部屋で、神経を尖らせながら交代で硬いソファーとベッドで眠るこの生活にも慣れた。隣の牢から誰かが連れ出されたりする生活のせいで眠りは浅くなった。
今夜もどこかから誰かの悲鳴がする。魔術式を展開された記憶が蘇るから聞きたくなどなかった。
「……頭痛え」
トーヤがのろのろと起き出した。魔力を吸うようにできたこの牢屋は、アズキたちには毒だった。力を吸う石を使われているようだが、生まれたての魔術師である自分達にはそれ以上はわからない。
それでも、今日は動かなくてはならない。何があっても、このまま囚われる運命だけは避けたいと、アズキは思うから。
「この先までずっと私がここにいれば、ナナセの敵になるの」
「え?」
突然声をひそめて話し出したアズキに、トーヤはぽかんとしている。
「それでね、私は先視の神官として、トーヤは軍人として、今のルイの国に従事することになるの。 私達は先までずーっとナナセを釣る餌にされ続けて、私達は脅されて生きるためにルイの国に従うの」
トーヤの顔が強張った。なにか視たのだとやっと察してくれたらしい。
「今から起こるはずの騒動でここを出ていければ、そうなる未来は避けられる」
アズキの語った言葉にトーヤが肩の力を少し抜いた。
「ナナセが来るよ、ここが運命の分岐点」
赤い左目が血のように不気味にゆらめく。アズキのこんなに冷ややかな声音を、初めてトーヤは聞いたのだった。
程なくして足音を忍ばせた、巡回ではない静かな足音が聞こえた。
「「……きた」」
近付く足音に気持ちが逸る。廊下の足音がゆっくりと止まった。淡い光と鍵が外れる音がして、ゆっくりと扉が開かれる。
雲隠れした月の微かな明かりのなかで、扉を開けたのは見知らぬ少女だった。入り口で突っ立っている軍服の少女にアズキは見覚えがなかった。だけど夢で視たあの黒猫が後ろにいて、姿は違えど聞こえた声はよく知ったものだった。
「……トーヤ?」
トーヤの変貌ぶりに目の前の少女は動揺を見せた。説明はあとだ。
放心したトーヤの目にやっと光が戻った。しーっと悪戯っぽくナナセが笑った。
「助けに来たよ」
ナナセの声の後ろで扉の開く音がした。良かった、夢は間違っていなかった。ほっとしたアズキにはナナセを止める暇はなかった。足を踏み入れた瞬間、彼女の黒い髪が透き通り始めた。幻の黒髪がいつか見た銀色に戻った。苦しそうな息を吐いて、青い目が部屋を睨んだ。
「ああこれ、王城の牢と同じ作りね。 息が苦しくなる」
ナナセは耐えるように長い息を一つ吐いて、いつものように立ち上がった。
「おい」
ナナセの背後から黒猫が追ってきた。
「平気よ。 ルグィンには効かないわ。 魔術師には効果はてきめんだけど」
アズキたちは立ち上がる事さえ億劫なのに、ナナセは文句を言いつつ平気そうだ。
ナナセは急いで出ようとふたりにかかっている枷を外した。案外簡単に外れた枷は、青い魔術式を浮かび上がらせて溶けて消えた。久しぶりの開放感に浸る余裕はないらしい。消えてゆく魔術式を見たナナセがさっと顔色を変えた。
「アズキから手枷と足枷を外したのが今の魔術式で飛んだわ。 ルグィンはアズキを抱えて出て。 あたしはトーヤの枷を外して追うわ」
にわかに廊下が騒がしくなる。アズキはここが勝負だと悟った。
ルグィンと呼ばれた少年はアズキを抱えて牢の外へ抜け出した。
よく見知った場所なのか、アズキを廊下のくぼみに隠し背中を向けて騒がしくなる廊下に目をやった。敵が来る前にトーヤも連れ出されてきた。ふらふらの足取りをナナセに支えられている。
「良かった」
あとはここを突破するだけねとまた幻で姿を変えたナナセが当然のように告げたが、果たしてそれは普通なのだろうか。
アズキとトーヤはふたりの背に隠されている。
ふたり分の黒髪は青い夜を弾いている。ばたばたと複数人の足音が聞こえた。アズキは現れた武器を帯びた男たちにぞっとした。
「いたぞ!」
「おまえは! シュン!」
魔術ランタンが黒猫に向けられた。
「お久しぶりですね、少佐」
指をさしてきた男にルグィンが返した。呼ばれたルグィンは憮然としている。想定外だったのだろうか、後からやってきた警備員が数人増援を呼びに消えた。警備隊の男たちが武器を構えた。それをみて黒猫が背中の短剣に手を添えて駆け出した。ちらちら映る警備隊の人間たちに重なる先視の力にアズキは吐き気を覚えた。
「──やだ……」
先見の力の宿るこの左目は、自分の意思とは関係なく未来を見せてくる。
魔力の制限されない場所での先見の力は強すぎる。度々連れ出された『実験』で学んだことだ。近くにいる人の未来は、特に鮮明に。
軍の男たちと自分との距離は十分あるはずなのに、それでもこの目は男たちの血まみれの未来を見せる。
「血が、血が……」
うぇ、口元を押さえたアズキの様子に隣のトーヤはようやく気がついた。
大きな手でさすられた背中が温かい。ナナセがくるりと振り向いた。
「ねぇ、二人は魔術使えるよね」
少しだけなら、と頷いたトーヤを見て、ナナセは続けた。
「魔術を使って。 アズキは魔力を減らさないと先視をするわ。 ふたりの手はここに。 あたしたちが帰ってくるまで流し続けて」
ナナセはどこからか出した魔力の筆で床に書きつけた文字は、アズキには読めないが今やるべきことには関係がない。
ふたりが手を乗せて魔術を起動させたのを確認すると、ナナセはにこ、と笑って背を向けた。
目にも止まらぬ速さで目の前の敵を倒していく少年は、軽い身のこなしで敵に的を絞らせない。
十人をひとりで相手をする黒猫を追ってナナセが走った。人の足の速さではない。ナナセのまわりに青い魔力の残滓がかすかに見えた。
ルグィンの背後に迫った相手をいつの間にか握っていた細い剣で吹き飛ばすと、ルグィンの背中に立つ。
一連のふたりの戦いがあまりに流麗で開いた口を閉じた。アズキが血を視ることが無くなった頃にはいつの間にか小隊は全員床に転がっていた。
「ルグィン」
「わかってる、死んではいないさ」
遠くからばたばたとまた足音がした。違う通路から現れた警備員がアズキとトーヤに銃を向けた。
撃たれた、と思ったが、魔術の盾が防いでいた。
数瞬遅れてナナセがひらりと現れてあたりを水浸しにしてそれらを一層した。アズキがほっとした瞬間、床の模様が光った。男たちのうめき声が遠くに聞こえた。
「しまっ……」
ナナセが崩れ落ち、また髪が白くなった。魔法陣がナナセの青い魔力を吸っている。
「ナナセ!」
アズキは思わず叫んだ。壁まで描かれた大掛かりな模様が、今日まで居た部屋の魔術式と酷似しているとアズキは遅れて気がついた。
ルグィンが倒れルナナセを庇うように抱き込んだ。刃のぶつかる鈍い音がした。
「……へぇ、こいつのこと庇うんだ」
知らない声が割って入ってきた。あまりにも冷ややかな声だった。
ルグィンを襲った緑の軍服を着た青年は髪も目も赤い。それから――狐だろうか、動物の耳があった。ルグィンがナナセを抱き直して、後ずさりで魔法陣の効果範囲を出る。
「だから、どうした」
ルグィンが硬い声で拒絶を示し、赤髪の青年は目の前でぐらついている。
「ルグィン、目を覚ませよ! 王殺しの王女だぞ!」
青年がルグィンを追うように歩みを進める。ルグィンはナナセを庇って距離を取る。その様子にルグィンに抱かれる少女に目が移った。
「どうやってこの堅物野郎を、その女は誑かしたんだ」
ルグィンが緩く首を振った。目深に被った帽子の紐が合わせて揺れた。
「これを助けるのは俺の意志だ。 これに惑わされた訳じゃない。 ただ、正しいと思う道を進むだけだ。 ……ナナセの正義のために」
揺るがないルグィンの声に、アズキは息を止めた。なにがあったんだろう。ルグィンが戻らないと悟った青年はルグィンを睨んだと思えば、赤い目がゆらめいた。
「ふざけんな! なんで、こんなやつに付いていく!」
青年が叫んだ刹那、赤い瞳が強く閃いた。
「やめなさ……!」
何が起きたかわからない。
ナナセは防御魔術を発動させて、青年が起こした魔法を防いだ。青年が起こしたらしい風魔法は倒れている男たちを巻き込むと、彼らを傷つけあたりを血まみれにした。
アズキが見た赤色は、この風景と酷似していた。しかしナナセが張った水の魔術がその魔法を押し返していく。ナナセの作った青い泡は青年も倒れた男も青く包んで、傷を癒やしてはじけて消えた。押し負けた赤髪の少年は呆然としていた。
ナナセが身じろぎしてルグィンの腕から降りた。アズキまで聞こえないが敵の青年にぽつぽつ、となにか語っている。青年はもう戦意を無くしているのか立ち尽くしている。
「アズキ、トーヤ。 かえろう」
終わったのか血の気のない顔のナナセが穏やかな笑みでこちらへ歩いてくる。するりとふたりの手を取ると、手を引いて窓へと向かう。窓のそばにたつとナナセは三人が飛べるような翼をひろげた。
我に帰った青年が後を追ってくるが、捕まえる気はないらしい。
「今回はルグィンに免じて追わないが次会うときは覚悟しておけ!」
声はなくとも黒猫の右手が軽く上がったのが、ナコにも見えた。アズキの隣のナナセの目が滲んでいた。
青年の後ろの兵士たちが起きだした。
状況を察知した誰もが彼女たちを追おうとするのに、青年は追わないで小さくなる五人を眺めていた。




