19.ソライの血
家の中は変わらない懐かしい匂いがした。ナナセにとっては、一番長い間留まった場所だった。けれど、いつもナナセを出迎えてくれた二人はいない。自分の世界を広げてくれた大事なふたりがここにいないのだと思うと、ナナセは喉の奥が苦しくなった。
エリが案内したのは、よく二家族で夕食を共にした部屋だった。彼らも先程までいたらしく、コップには人数分の茶が入ったままだった。
自席に座ろうとしていた大人たちが微かな風を感じて振り返れば、ふわりと銀が舞っていた。黒から銀に戻った少女はそのまま深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
彼女の向かい側には、エリとコルタがいた。自分が逃げてしまったアズキの両親だ。
「ハルカちゃん……」
ごめんなさい、とまだ呟くナナセにエリは言葉を生めない。
「ナナセ王女。顔を、上げて」
コルタが本来の姿の名を呼んだ。
床を見ていた彼女の目がゆっくりと上げられた。
「俺も、悪かった。あの時はお前を遠ざけた方が安全だと思っていた」
ふぃ、と気まずそうな茶色の目はナナセの瞳から床へと流された。
「はい。秘密を話したのなら最後まで守らないとならないのに、途中で逃げ出してしまって。 アズキとトーヤが危ない目に合わせてしまった」
「なぜ、逃げた」
コルタがナナセを目にきつい光を宿して尋ねる。その瞳に臆さずに、真っ直ぐに見つめ返しナナセが口を開いた。
「あなたが、許せなかった。コルタさんが、アズキを娘ではないと言ったこと」
ナナセの瞳とその声に、コルタは言葉が続かなくなった。彼の茶色の瞳がぐらりと揺れた。それを知っても、ナナセは言葉を紡ぐ。
「本当は大事で仕方ないくせに、そんなこと言わないでください。本当に会えなくなったら、どうするの……?」
最後の声は、震えていた。その思いは、彼女の体験でもあった。
「あぁ。もう、しない。 いや、辛くて出来ない、かな」
悲しそうに笑みを浮かべるコルタの瞳に影が差す。
「……そうでないと、あたし許さない」
コルタと彼を言葉もなく見つめる銀の少女をただ見守っていたエリたちは、沈黙から我に返る。
「こんな話を軽く片付けるのはいけないことなんだけど、ね?」
コルタの後ろからエリが声を発した。
「どっちもどうしようもなかったわ。私達も、貴方も」
ゆらりと、エリの瞳が悲しみに揺れる。銀髪の少女の瞳もゆっくりと伏せられ、掠れた声で返事をする。
「……はい」
「私は前みたいに信じていたいな、ハルカちゃん」
そこで言葉を切って首を緩く振り、また口を開く。娘によく似た茶色の瞳は、雰囲気までよく似ていた。
「──ううん、ナナセちゃん……」
名の余韻が小さな部屋に柔らかく響く。柔らかく呼ばれた自分の名に、ナナセは息を止めた。エリの言葉に答えようとした自分の声は、思ったよりも泣きそうに、震えていていた。思ったより視界は滲んでいた。
「いいんですか? あたし、国に追われた王女ですよ」
信じてくれることへの警告は、これで最後だ。もうこれ以上深入りは危ないと言っても、少女の瞳は潤み涙は目にたまっていて。複雑な表情でエリを見上げるその少女を、彼女は堪らず抱き締めた。
「だって、あなた優しいもの。逃げるならとことん逃げればいいのに。アズキの命を助けてくれたらしいじゃない。こうやって苦しんでも帰ってきてくれたじゃない。……そうやって優しいから、私は憎みきれないの」
柔らかく抱き締められて、彼女の娘に良く似た匂いがナナセの鼻につく。ナナセの頬から伝うこらえきれなかった涙がエリのシャツの肩布に染みていく。
「コルタさんも、サヨさんも、カルヤさんもみんな、いいの?あたしと関われば、もっと酷いことになるかもしれないのに?」
「娘の味方がいるなら、構わない」
「トーヤの味方なら、別に」
「うん、いいわ」
ナナセのその涙声に、躊躇いなく次々に声が返ってくる。彼らにはもうすがる人がいないからとはいえ、嬉しさと申し訳なさで、また涙があふれた。
数瞬のあと、ゆっくりとエリと顔を見合わせたナナセは、赤い目のままで小さく笑った。
「あなたが去ったあと、アズキ達を助けてくれた旅人がいたの。まあ、その旅人二人は首狩りだったと、アズキ達が連れ去られたあとに気付かされたわ。助けてくれたのは、あなたとの関わりを怪しんでたからみたいなの。 それにアズキの力にも気付いたみたいでね」
エリがぽつりぽつりと話し始めた。
「アズキの力?それって……」
焦ったように尋ねたナナセにエリはゆるゆると首を振った。
「……私には分からないの。魔法使いの才は私には無いし、アズキの才能は突然変異みたいなの」
ナナセが目を見開いた。
「え?」
そんなことはないはずだ。アズキの祖母は魔力を通して記憶を見るという才能を持っていた。彼女はきっと魔術師だ。魔力は多少なりとも遺伝する。アズキはサラの孫だ。そんなわけないと続けようとしたその時、ナナセの背後の扉から聞き慣れた声が聞こえた。
「おぉ、ナナセ王女、久しぶりじゃないか」
しわがれた女の声が聞こえた。
「サラ婆!」
駆け寄ったナナセも手を握られたサラも、とても嬉しそうだ。
「元気にしていた?」
「あぁ。ナナセ王女、帰ってきてくれてありがとう」
ナナセは首を横に大きく振って、言葉を無くしている。そんな彼女の反応はお構い無しに、サラは話を切り出した。
「さて、ナナセ王女。アズキとトーヤを助けにいってくれる気はあるのかい?」
「もちろん」
空色の瞳は涙に潤んでいたが、強い意思が奥に秘められていた。
「孫の秘密、教えてやろうか?」
サラが柔らかく、でもどこか悪戯っぽく笑った。
「……アズキの秘密?」
「ああ」
サラが片手をひらりと振ると、扉の鍵はカチャンいう音と共に閉まる。 サラが使ったのは、鍵の魔法だ。
「……やっぱり。あなた、魔術師ですよね」
コルタやエリは茫然としている。ゆっくりとした口調で、サラが言葉を紡ぎ始めた。
「誰にも言って来なかったんじゃが、昔は……エリが生まれる前まで、わたしは神官を務めておったよ。 カイ王様が暗殺された時期から王城には縁がなくなったがの」
きっとライのことがあったから、交流がなくなったんだとナナセは心の端で思う。それよりも、引っ掛かる言葉があった。
「神官?」
あたしが城にいた頃には、確か空席だったはず。
「あなたがいた頃には居なかったぞ。 末っ子のエリを産んでから体調が優れなくての、引退させてもらったのじゃよ」
「そうですか」
そこでナナセは悟った。
「もしかして──アズキにはその力……」
サラは頷いた。
「昔の封が解けている。わしの見立てでは、わし以上の予知ができるはずじゃよ」
国の神官を務めていた彼女にここまで言わせるアズキはどうなるのだろうかと、とナナセは背筋が凍る思いがした。
「アズキはそんな力を持ってるの?私知らなかった!お母さん、何で私やアズキに言ってくれなかったの……!」
サラはエリの声にそっと目を逸らした。
「アズキには言ったさ。ただ、お前を含めて、わしの子供らにはわしの力は遺伝しなかったからの。先見の力と言われるこの力は、未来を垣間見ることのできる力。珍しくて、危険で、尊い力といわれておる。だから言わなかったのさ」
その言葉を聞いて、エリはなにも言えなくなる。言葉にしようて口を開くもなにも出て来なくて、ぐっと握りしめた拳をおろす。
言いたい言葉を飲み込んで、辛うじて一言発した。
「そう……」
そんなエリに、サラは少し悲しそうな顔をする。
「……悪かったな、でも言えぬのじゃよ。こんな場所に元神官がいるなんて。平和に暮らすには、誰にも言わない方が無難だったのさ」
気まずいとでも言うように、サラの視線がエリから逃げて、ナナセに止まった。
「アズキは、先見の才を持っておる。その力は、未来が見える。ひいては過去も、今も、見えるのさ。……諸刃の剣さあよ。それに加えてあの子は、莫大な魔力を持っている。容易い魔術なら習わずともそのうち詠唱なしでこなすぞ」
サラの目尻のしわが深くなる。呆然と立ち尽くしていたナナセは、乾いた唇をゆっくりと動かした。
「……アズキの魔力はあたしが出ていくまではそんなに大きくなかった。少し意識したら身体能力が上がるくらいで、外に影響が出るレベルじゃなかったでしょう?そのアズキの力は……あたしの、せい?」
行き着いた答えを、ナナセは泣きそうな声で紡いだ。心のどこかで予測はしていたとはいえ、ぐらぐらと動揺する自分の心を押し隠して、真っ直ぐにサラを見つめる。サラは頷き一言溢す。
「悪いが、そうじゃよ。もとから大きかった魔力が、ナナセ王女、あなたの魔力がきっかけでアズキの魔力の扉は開いたのだよ」
その答えを聞いて、ナナセは両手で顔を覆う。言葉にするのも辛かった。あたしがあの時魔術をかけなかったら、という後悔は計り知れなくて、底がなくて涙が滲んだ。
「ナナセちゃん」
彼女の背中に声が掛かる。はいと顔をあげれば、笑ったエリが目の前にいた。
「あなたと知り合えたこと、アズキはきっと後悔してないよ」
その笑顔は悲しくて、だけどどこか温かくて。
──嘆いちゃ駄目だ。大好きな二人のために、前を向かないと。
ナナセはぎゅっと唇を引き結んで、目にたまった涙を払った。そんなナナセの振舞いに微笑んで、サラは話を続ける。
「それから、アズキの魔力の大きさに気づいた首狩りに二人ともさらわれた、という訳じゃ。 トーヤまで連れ去ったのは、あいつもあなたの魔力の影響を、少なからず受けておるからじゃ。お前さんの魔力は大きすぎて、他に影響を与えやすい。……だから、今まで必要無くかけなかったんじゃろう?軍のある街へ連れ帰り、実験台としてきっと二人の眠っている魔力を解放したのじゃろうな。アズキもトーヤも王女のあなたの名前をちらつかせれば敵の命令にも従うはず。それにつけこんでいいように操るつもりじゃな」
そして、サラは溜め息をつきながら締めくくる。
「魔力で人を強くするのは子供の方が身に馴染むのさ」
言い終えたサラは、瞳を閉じて難しい顔をしていた。誰もなにも言えなくて、黙っていた。
数十秒の静寂を、コルタが破る。
「……助けてくれ」
ナナセは、声が聞こえた方を振り返る。躊躇いなく十歳以上離れた少女に頭を下げたコルタがいた。それをなにも言わず見ていたスカイブルーの瞳が笑んだ。
「ええ、もちろん。アズキとトーヤの二人とも、必ず助け出します」
「頼んだぞ」
にこりと笑い、コルタを見た空色の瞳の中に、強い光がまた宿る。サラがナナセの隣にいたルグィンに視線を移す。
「お前さんもか?黒猫のルグィン。 違ってはいないだろう?」
呼ばれた彼は、即答する。
「もちろん。助けるなら手伝う」
金の瞳が優しい光を帯びた。
「黒猫の……ルグィン?」
トーヤの父、カルヤが呟く。名を聞いたことがある、とでも言うように口の中で反芻する。
「名前なんかいちいち気にしなくても……」
小声で呟いたルグィンは居心地悪そうに頭に手をやる。その姿を見ていたカルヤは、ふと少年の頭に目がいく。伸ばされた先の帽子は、やけに大きな物だった。
「ルグィン……?」
カルヤは、まだ思い出せない。その名をどこで聞いたかと記憶を手繰る。彼の被っている帽子のてっぺんの、不自然な二つの膨らみ。
「ルグィ……」
彼の隣に立つ銀の少女が彼の名を呼んだ。不安げにちらりと少年を見上げた少女は、返ってきた静かな金色に黙った。
「俺は」
口を開いた少年の隣で揺れる不安が滲み出た、王女の空色の瞳。開いた口をそのままに一瞬だけ固まった黒髪の少年は、もう一度深く息を吸い込む。
「俺は、ルイ国軍国内警備部特別指令課……シュン・ルグィン」
彼の薄い唇が低い音を紡ぎだす。
「『黒猫』で通っている」
そう言うと自らの手で帽子をずらして、彼が見せたくない頭部をさらけ出す。髪と同じ色をした、あるべきではないそれは、名の由来の黒い猫の耳。
大人達は絶句する。サラだけはそうか、なんて頷いている。怖がっては失礼だと思っていても、彼の姿は背筋が凍るものがあった。魔術で作られた彼の耳はどことなく、でも確かに人間には不釣り合いだ。『軍』の響きが親たちに不安の種を植え付ける。首狩りのトップは、軍の機関だ。子供をさらった機関なのだ。
かける言葉に悩む親たちを見て、ルグィンは口を開いた。
「俺は、魔術で改造されたただの人間。軍の端くれだが、あいつらの……首狩りの味方はしないから気にしなくていい」
親たちの目に安堵が映る。
「俺は、こんな馬鹿げた人間を増やすことには反対なんでな。 軍にはいるが、生きていくのに便利だからというだけ。 忠誠心なんてない」
彼の眼ははどこか冷めた、でもどこか傷付いた子供の瞳をしていた。
「ルグィン……」
「それで、彼らはどこにいるんだ」
ルグィンの問いに親たちは首を振った。知らないらしい。
「悪いけど……」
「……そう」
「でも、魔力を開発する場所だろ?俺が昔いた場所と変わらないんじゃないか?」
「町の名は?」
「メノウ」
リョウオウはルイ国北部の小さな街だ。対するメノウはルイ国南部の大きな軍中枢の大きな要塞都市である。
「俺らなら、明日の朝に行けば夜にメノウに着く。向こうが夜の方がいいよな?俺たちなら目が見える」
まっすぐな金と空の瞳が交わる。
「うん。行こう。 明日の夜、メノウに」
ナナセの静かで強い声に、ルグィンと二人で顔を見合わせて強気に笑った。




