18.王女のこころ
黒の少女と黒猫が、リョウオウへ冬の空を駆ける。慣れたように飛ぶふたりの飛びかたは本来違っているのだが、ナナセが歩幅を合わせるようにひらりと空を飛ぶ。
「ナナセ。」
「なに?」
屋根の煉瓦や木々へと跳び跳ねて、街のひとつやふたつはもう越えた頃に、ルグィンが名を呼んだ。もう飛び方に慣れて、ナナセは肩を並べたルグィンにちらりと目を向けた。
「お前はそこまでして、国から必死に逃げてまで、何がしたいんだ?」
ルグィンは少女の黒い瞳の奥を見つめて問うた。
容易く問われたその問いかけには、少女はすぐに答えを返せなかった。少女の偽りの黒い瞳の奥には、微かな空が見え隠れする。けれども瞳は揺れることなく真っ直ぐに黒猫を映す。
数秒の沈黙の後、ナナセは口を開いた。
「あたしは、いつかライに会いに行きたいの。」
「ライ……、王の執事か。」
うん、と静かに頷いてナナセは空を見上げた。
「今行ってもきっとあたしが弱くて話をしようとしても駄目だろうから、はやく強くなって、とうさんを殺した理由をもう一度聞きたいの。
なんでとうさんはフェルノールに殺されたのか、知りたいの。」
ナナセは口を閉じて、一旦息を吸い込んだ。彼女の心の奥底にずっと持っていた想いは、迷いなく音として紡がれる。
「あたしがしたいことは、聞きたいことを聞いて、何をするのか決めることかな。」
誤魔化すように黒髪の少女が笑った。ルグィンはナナセが迷いながらも返答を拒否せずに答える様子に、小さな覚悟を持って尋ねる。
「何を聞きたいんだ?」
その問いが来るのを予想していたように、間髪入れずに答えが返ってくる。
「あたし、ルイスに来たときに昔の話をしたでしょう?」
風が二人の耳元でごうと鳴る。黒い偽の瞳でも、真っ直ぐに射抜くように見ることは変わらないらしい。
「あぁ。」
「あの話を思い出しながら、聞いてね。」
ルグィンが頷いたのを見て、ナナセはそう前置きして話し出した。
「普通、国王を暗殺した国は支配されるはずなのに、どうしてルイの国を支配しないでいるのかな。政権が握られて軍事に特化したくらいしか変わっていない。
もちろん戦争に駆り出されたり酷い扱いを受けているけど、どうして残虐国と名高いフェルノールにこんなに甘い扱いを受けてるのかな。あたしはもっと酷い仕打ちにあって滅んだ国をたくさん知ってるわ。
どうして国民はは生きていられるのかも分からないの。」
「うん。それで?」
先を促されて少女は続ける。
「悪魔の娘にとうさんは……カイは殺されたと言われているの。
王を殺した理由をライに聞きたいの。」
「聞いて、どうする。」
ルグィンはまた尋ねる。こうしている間にも、どんどんと足元の景色は流れていく。自分達だけが鮮明で、世界に取り残されたようだ。
「場合によっては、あたしと一緒に探しているルイの石を渡してもいいわ。」
そんな少女の答えにルグィンは絶句した。自分を狙っていた者に褒美を与えるなんてルグィンは理解できなかった。その顔を見て、ナナセは困ったように笑う。
「この石はどうやらルイの王族しか使えないみたいなの。
だから王族じゃないライは石は使うことができないはずだから、魔力は受け継げないと思う。お祖父様のかけた魔法を続かせることは出来ないけれど、国王の飾りとして、威厳を示すことには使えるわ。」
「威厳、か。」
使えない飾りをあげてしまうのは少し残酷かな、と思う時もある。けれどもこれがナナセにとっての最善だった。
「そう。昔話に出てきた伝説の耳飾りは国を平定するのに使えるかも知れないでしょう?」
「持っておかないのか。」
納得できない、という感情はルグィンの眼や声からナナセにはよく分かる。ナナセの左手は無意識に耳飾りに触れる。
「あたしは王にはなれないし、使い道は無いから偽りの王でも国を統べる人にルイの石を渡しておきたいわ。」
「なぜ、王にならないんだ?」
資格はあるのにと、ルグィンは小さく続けた。その言葉にはナナセは目を伏せ首を振った。
「一度でも汚名を着せられた王女様に、付いてきてくれる人はいないでしょう?」
泣きそうな、悲しそうな一番苦しい笑顔は少年の心にくっきりと焼き付く。
誰もに信頼されないと知っていて王になるのは辛いだろう。野望もなくただ民のために働く真っ直ぐな王が、民に一生信頼されないのは、ひどく惨いことに思えた。
「だから、王にはなれないけど。もうあたしを知る人には会えないけど。育った城には戻れないけど。
それだけ、いつか聞きたいんだ。」
笑って彼女の目尻から透明な滴が、風に消えた。
今は亡き父への、ただ大好きな人への、ただ純粋な想い。自分を裏切ったライへまだ少しだけの願いを抱えて、いつか会いに行きたいと願う少女。
もどかしいなと、ルグィンは思った。
「旅の仲間を望むなら、ライに会ってその願いが叶うまででも、その後まででも。俺が旅の連れになる。」
この王女のためなら、忌み嫌われる異形で、一般人より少しだけ優れた禁忌の体が、今は誇れる気がした。
「ほんとう……?」
ナナセがはっとしたようにルグィンを見上げた。
「ああ。」
頷く彼のその仕草に、涙で濡れていた瞳がさらに潤む。
「今助けてくれるだけでも心強いのに、そんな。」
ナナセの呟きは、意図せずぽろりと落ちたような弱々しいものだった。
「いい。これは俺の意思。」
彼のこの想いに、裏はなかった。ただこの少女が独りにならないように、などと深く考える前に音として紡いでいた。
彼の左手が彼女の右手を拾い上げた。だから負けるな、とくれた瞳があまりにも心強くて喉が詰まってなにも言えなかった。
彼の優しさが自分を助けてくれる度に切なくて、嬉しいのは何故か。溢れるようにあたたかい気持ちが胸に染みていく。出会った1ヶ月ほど前は、あんなに警戒していたのに、その優しさが今は純粋に嬉しかった。
***
埃っぽいひとつの窓から差し込んでくる光がその部屋の明かりだった。小さな埃が、薄い陽射しにきらきらと舞っている。
ひとりの少年とひとりの少女だけがその部屋の住人だった。暗色の髪の少年は壁を背もたれに俯き座っている。一方、少女は優しい色の茶髪を床に広げて、寝転がり時を過ごしている。少女に少年が問うた。
「なあ、アズキ。」
「ん、なぁに?」
「今日でここに連れてこられて何日目?」
俯いた頭が声に反応して上がる。呼び掛けた少年を見た瞳は、暗がりでもよく分かるほどの赤色だった。
「今日で……」
少女が壁に寄っていき、壁に鉛筆でつけられた傷を数える。偶然ポケットに入れたままだった短い鉛筆がふたりの精神を救っていた。
「今日で、二七日目。私たちが連れ去られたのは、ハルカと別れて一五日目だから、えっと全部で四二日ね。」
その答えを聞いて彼はため息をついた。もうそろそろこの施設で開発のためだけに部屋の外へ出されて、それ以外は魔術の使えない部屋に閉じ込められるのは辛くなってきていた。いいように獲物を釣る餌にされて、自分の魔力を強くされるのはまだ我慢が出来るけれど、大事なひとの迷惑になっていると毎日聞かされる言葉は当たっていて苦しい。
アズキもふう、と息を吐いた。
「……トーヤ。いま誰もいないよね?」
茶髪の少女、アズキの声が少しだけ鋭くて、トーヤと呼ばれた少年は顔をあげた。真剣な茶色の瞳と褐色の瞳がぶつかる。硝子に格子をはめられた廊下側の暗い窓を覗いてから、トーヤは小声で答えた。
「いないよ。」
安堵の表情を見せたアズキはおもむろに口を開いた。扉から戻ってきたトーヤが座る。
「あたし、多分先見の才があるでしょう?
いま、視たよ。ナナセと連れの子が、リョウオウに着くよ。」
自分が視たのは、ここではない場所だった。魔力を吸いとり使えないようにする殺魔の魔術がかけられた部屋に居ても、アズキには混線するように、時折世界が見えた。
「そうかぁ!」
ぱっとトーヤの笑顔が花開く。純粋な笑顔はお互いにとって久しぶりで、アズキも笑った。
「連れは女?」
「ううん、違うわ。黒猫さんっていう男の子みたいだよ。」
ふふ、と少女は笑って答えた。
「え……!あいつか!」
「知っているの?」
「あ、噂でな。確か政府直属のとても強い軍人だったはずだけど。『黒猫…の?ル……うーん…。」
少女の連れの肩書きを必死に思い出そうと少年は躍起になるが、それ以上進んでいない。その答えをいい加減に聞いて、少女は小さく笑う。
「ふぅん、あんな優しそうな人が……。」
そう言って視た光景を思い返すアズキを羨ましげに睨んでから、視線を鍵のついた閉ざされた扉に移す。そして、考えたくなくて話を少しずらす。
「今日は確か俺の家族がアズキの家に行く日だな。俺がいなくなった今も行ってるといいな……あ、いや、行ってない方がいいのかな。」
途中で少年は頭をがりがりと掻き、舌打ちする。その気持ちはアズキにもよく分かる。その共感は、名に乗せた。
「トーヤ……。」
「俺らを助けに来てほしいけど、来てほしくないな。この気持ちってなんなんだろうな。」
アズキに向けられたトーヤの泣きそうな笑顔が、ひどく痛々しかった。
***
アズキとトーヤの両親は、子供を国が雇う首狩りに連れ去られた今でも一週間に一度、アズキの家に集まっていた。
外は綺麗な青い空が見えても、4人の気持ちは上がらない。もちろんそれは、いるべき二人がいないからだ。
「……サヨさん、カルヤさん。何か収穫は?」
トーヤの両親は力なく首を振る。
「首狩りの二人の名前だって偽名だったし、どこに連れていかれたかも分からない。」
カルヤもやりきれない様子で、肩を落とした。
「そう……。」
カルヤの話を聞いてエリもため息と同時に相槌のように口にする。
「私のせいだな。私があんなに暴走しないで、ナイフを投げなかったら……。」
ナナセが出ていってから、ひとまわり、ふたまわりも痩せてしまったコルタがうなだれて呟いた。コルタのこの呟きでだれも何も言えなくなり、情報交換会はいつも幕を閉じるのだ。
今日も一緒だと思っていたその時、控えめなノックの音がソライの家に響いた。コルタが玄関へ行き扉をおそるおそる開ける。この一ヶ月で彼らには警戒が身に付いてしまっていた。
扉の先に見えたのは、見慣れぬ軍服を来た黒髪の見知らぬ少年少女だった。娘を拐った首狩りの所属する軍自体への信仰心も、既に消えていた。
「軍隊なら帰ってください!」
僅かに目を丸くした少女に、コルタは息をつかずに捲し立てる。
「娘達を盗っていったのは、あなたたちの雇う首狩りじゃないですか!何故なにもしていない娘達が……。」
少年少女の軍服に見える衣装を見て、アズキの父は怒鳴る。彼は来訪者の装いが国軍のものとは違うと気付いていない。少女の黒の瞳が彼を真っ直ぐに捉える。またなにかを発しようとしたコルタの唇は、どこか見覚えのある切ない視線によって閉じてしまう。
何もかもがあの少女とは違うのに、コルタが最後にすがった少女になにかが似ていた。
アズキの父親はぶんぶんと首を振ってそんな訳がないと、立ち直る。玄関に続く廊下が軋む音に振り返れば、親達がコルタの怒鳴り声に様子を見に出てきた。その3人も、来客の戦闘用の衣装を見て、立ち退きを請う言葉を語る。
「出ていって!」
「お願いだ、帰ってくれ……!」
「お願いですから……。」
口々に言う彼らを背に来客と向き合うコルタの茶色の瞳が後ろからの声なんか聞いていないように少女に釘付けになり、瞳に迷いが浮かんだのを見て、少年は呟く。
「俺はともかく、こいつは軍の関係じゃないぜ。」
落ち着いた、冷たく静かな声がコルタの耳に届いた。静けさを取り戻すためならその一言で十分だった。
「──ハルカ、って言ったら分かりますか?」
少女の唇から落ちたのは、コルタがすがれなかった少女の名。彼女の薄い唇の動きに、親友の両親四人ともが凍りついた。
「本当に……?」
呆然として答えるエリに、口角を引き上げて少女は笑う。その笑いかたは、追い出した女の子によく似ていた。
「うん、ほんとう。」
「……じゃあ、質問。ハルカとあの子達が出会ったのはいつだった?」
トーヤの母が発したこの言葉は、きっと合言葉。ハルカと名乗ったあの王女と、アズキとトーヤと、あとから聞いた親たちしか知らない出会いの顛末。
「……あれは。」
過去を遡る少女の声は静かだった。
「秋の深まり始めた季節。満天の星が見える夜のことよ。教会の時計塔の上にふたりで来てくれたの。」
黒の瞳が、ほんの少し揺らめいて微かな青が見え隠れする。その確かな少女の答えを息をつめて聞いていたサヨが顔を上げて黒の瞳をまっすぐに見詰める。
「分かったわ。あの子……ううん、あなたをこの間は信じられなかったから。」
少し危ない橋を渡っているのかも、と呟いたサヨの声は、耳のいい少年にしか聞こえなかった。
信じると言ったそのサヨの言葉に誰も反論はしない。迷いは微かに見え隠れしていても、誰もが望んだことだった。
「ありがとう……ございます。」
あの日の疑いと拒否がこもった目とは違う目が、ナナセを見ていた。ハルカを終えてやっと得られた信頼に、彼女はわずかに笑った。
この街を出ていった頃の切なげで儚いあの雰囲気が、少しだけ柔らかくて。飛び出した先で強くなって帰ってきてくれたのだと、エリは思った。
娘が怪我をして王女が飛び出して行った日、娘が囚われた日。娘のように王女様を信じられなかった自分をエリは悔いた。もしも帰ってきてくれたら、と思わない日はなかった。
彼女自身の立場と私達との別れ方は複雑なのはわかっているけれど、娘達を助けてほしいとエリは思っていた。あの子達がいなければ何のために生きているのか分からないと思うほど、子供とはそういう存在である。
──信じてあげられなかった娘達と、信じなかった私達と、それから目の前にいる偽りの姿でしか動けない彼女のために。
今度こそ話を聞いて、彼女を信じたいと、エリは玄関口に突っ立ったままのふたりに歩み寄った。
「悪いけど、あがって。ばれるとだめでしょう?」
エリはそう言ってナナセとルグィンの肩をポン、と押した。




