14.ゆさぶり
草原からルイスにあるスズランの屋敷へ戻るころには、昼を大きく過ぎていた。思ったよりも長い間草原にいたようだ。三人揃って遅い昼食を食べたのち、食器を片付けながらスズランがふと口にした。
「ナナセ。貴女の髪、中途半端に長いのね。伸ばすの?」
ナナセは石鹸だらけの手を止めて振り返った。スズランの視線の先にあるのは肩まで伸び、毛先が柔らかく跳ねた銀色の髪。
「理由はないわ。気にしないで。ただ思い付いただけだから。」
そう言うスズランを見てキッチンに向き直ると、食器を洗う手を動かしながら、ナナセは口を開いた。
「決めていないなぁ……。いつもは姿を変えているし、見せる人はほとんどいなかったから。どっちでも良かったしね。」
彼女は瞳を伏せて、だから、と静かに続けた。
「この姿をずっと晒して過ごすのは久しぶり。」
ここではない遠くを見て、静かに笑うその口元がスズランにはなんだかいたたまれなかった。
「どうしようかな?」
気に留める風もなく軽く笑って元に戻ってナナセに、スズランは小さく溜め息を吐いた。周りから追われる生活をしていたせいもあったとしても、お洒落に無頓着すぎる気がした。
「……ナナセ。」
沈黙を破ったのは、低くて温かい声だった。ナナセは驚いて振り返った。次の言葉を紡がないルグィンの金色の瞳に自分の空色の瞳を合わせた。
「伸ばせば。」
一言、ルグィンの薄い唇から発せられた。不思議そうに次の言葉を待つナナセとスズランに気付いて、ルグィンはもう一言付け加える。
「長い髪も、似合うんじゃないか。」
「そ、そうかな……。」
消え入りそうな声ではにかむ彼女を見て、彼は我に返った。手に持ったままだったふきんを見下ろす。机をさっと拭いて、ルグィンはふきんを置いてこの部屋から出ていった。バタン、と閉まる扉の音を聞いて不思議そうに首をかしげたナナセに、スズランが溜め息をついた。
「……髪伸ばしてね、ナナセ。」
「うん、似合うといいな。」
意味を汲んでくれたと全く感じさせない彼女に、またスズランは溜め息をついた。
「ねぇ、ナナセ。貴女、お洒落しいでしょう。」
「うん。小さい頃から苦手かな。」
小さい頃のお洒落はすべて世話係に当然任せていた。大きくなった今でもどうすればいいのかなんて知らない。教わる人もいなかった。
そう、と溜め息をついたスズランは、すぐにナナセを見据えて強気に笑った。
「明日、覚悟してなさい。」
「……うん。」
企み顔でニヤリと笑ったスズランに、ナナセはひきつった笑みを貼り付けて答えた。
***
朝から叫び声が屋敷から響く。その声に屋敷の屋根の小鳥が次々に飛び立った。防音魔術はスズランがかけ忘れたらしい。
ナナセの部屋から響く声に、サシガネとトキワが部屋に駆けつける。
「どうした!」
バタバタと駆け寄ってくるふたりの目に映ったのは、彼女の部屋の扉にもたれる黒猫だった。
「黒猫!」
ルグィンは二人を映した瞳を鬱陶しそうに伏せて、溜め息を吐いた。
「……着替え。」
そんなルグィンの言葉に、ふたりは構えていた肩を落とした。
「ユリナちゃんには何もなかったんだな。」
トキワがほっとした声を漏らした。そんな三人をよそに、乱闘が聞こえてくる。
「きゃあぁぁ!」
「そんな声出さないで!なにもしてないじゃない!」
「それはうそ!スズラン、ちょっと、くすぐった……。」
「じっとしなさい!」
鍵の魔法をかけていない扉の向こう側からそんな声から聞こえてくる。どうやらナナセが抵抗しているようで、どたばたと物音も聞こえてくる。
しばらくすると声がやんで、戸が開いた。銀の少女が開いた扉から押し出されてきた。
「きゃ!」
つんのめるように廊下へと飛び出してきたナナセは、床にある足の数を見てユリナへと変わらないといけないことを悟る。
「ねぇ、スズラン……。」
「もう、なんで顔をあげないの!」
下を向いたまま助けを求めたのに、後ろから苛立った声が聞こえた。
「だって、この格好恥ずかしい……。」
ぼそぼそと呟いてスズランに文句を言うために渋々顔をあげる。目の前にはルグィンがいる。恐る恐る視線を合わせて、ちょっと笑ってみる。
「変だよね……。」
そう聞かれたルグィンが、戸惑う。彼が口が達者なら、まさかと即答していたはずだ。
腰にリボンのついた紺色のエプロンスカートに、縞模様の長い靴下。肩で柔らかく跳ねた銀髪は、上手くまとめられていて、いつも下ろしていた銀髪はサイドで一つに結われていた。どちらかと言うと幼さの残る彼女の顔に似合うような衣装の選択は、彼女の長所が引き立つようにと計算されている。
「可愛いでしょう?」
自身の渾身の作のユリナことナナセを誇らしげにして言うスズランに、ますますルグィンは焦る。可愛いのに、似合っているのに、上手く言葉になってくれない。口は開けど音にはならない。恥ずかしさと自分の沈黙に肩を落とすユリナに、意を決して口を開いた。
「ユリ……」
「ユリナちゃんかっわいーね!」
名も最後まで言えずにサシガネに先を越された。サシガネの笑顔に、ユリナもぱあっと嬉しそうに笑う。
「本当?ありがとうございます!」
「それ全部スズランさんがやったの?」
「えぇ、そうよ。」
スズランがそう答えて、トキワがほほうと緩く笑った。
「スズランさん、美の感覚が凄いですね。鋭いと言うか…。」
トキワはスズランの技に本当に感心したようで、口に手を添えてユリナをじっくりと見る。
「もともとの素材がいいからね、これくらいは出来るわ。もうちょっと抵抗しないでくれたならもっと可愛く出来たんだけれど……。」
「だって、スズラン背中の開いたドレス着てって言い出すんだもん、嫌だよ。」
呆れたように首を振るスズランに、ユリナが口を尖らせて反論する様子を、ルグィンは呆然と見ていた。けれどすぐに一度喉まで出てきた言葉を飲み込んでなんでもなかったように四人の輪に入る。
「お、それ何?」
サシガネがナナセの首もとに目を遣った。いつもよりも襟ぐりが広い服のお陰で、青い石が顔を出していた。サシガネが指差す先には小さくてくすんだ輝きを放つ青い石のついたペンダント。ユリナは、それに手を添えて、大事そうに笑う。
「これ、前いた町の友達から貰ったんです。」
これは手放せないものになっていた。綺麗なペンダントは、アズキが安い小遣いをはたいて街で買ってくれたものだ。ハルカだったあの頃に貰ったこの青い石は、今ではまだ彼女を親友と見ている自分の証だった。
ちらりとトキワとサシガネが目配せをして、大事そうに首筋のペンダントに手を添えるユリナに視線を戻した。『友達』を大事にする彼女の姿に、トキワの声音が変わる。
「こんなに古いものを?安そうだし。」
少しだけ見下したような、そんな声に、すぐに彼女は顔をあげた。
どれだけ安っぽくても、古ぼけていても、ユリナにとって高い宝石よりもどれ程価値があるのか分からない。
「そんなに大事なのか?その友達。」
馬鹿にした嘲笑うような響きは、ぴしり、と穏やかだった空気を凍らせた。ユリナの笑顔が固まった。五人でいる廊下は、やけに寒く感じた。
トキワは優しくユリナの価値を否定して、ゆっくりとユリナの気持ちを踏み砕く。
「そんな石なんか捨てちゃいなよ。要らない繋がりをずっと持ってたって、辛いだけだろ。
……捨てればいい。」
そんな冷たい言葉がユリナを通り抜けて──ナナセに刺さった。酷い別れ方をした自分を、瞬間に思い出した。スカイブルーの瞳に涙を湛えて、感情のままに口走った。
「そんなこと、ないもん!あたしにとってあの場所は……」
そこまで言ってはたと言い淀んだ。珍しく憤る姿にその場にいた全員がユリナを見てしまう。
ユリナは涙を零さないようにトキワを睨みつけた。『ユリナ』で隠せなかった『ナナセ』の心が溢れ出す。今までのように知り合いを侮辱されても平気だ、とどうしても演じ切れなかった。
「あの場所はあたしにとって……アズキの隣は……トーヤの隣はどれだけ大事か……!」
つう、と片目から涙が一筋、ついに流れた。震えた拳が、怒りを堪えている。
「『アズキ』と『トーヤ』……?」
引っ掛かりを覚えたふうにサシガネがその名前を口にした。彼の黄土色した瞳はまっすぐに彼女を見据えていて、ぞくりと得体の知れない悪い予感がした。
「俺ら、最近聞いたことあるんだ。お前の友達?」
静かに罠にかけた獲物を見据えるその瞳は聡い。答えないユリナのその沈黙を肯定と見なして、彼は射るような瞳をしながらユリナを見つた。
まさか、と思い当たる節に瞳が怯えて、それを満足げに観賞したサシガネはやっと口を開いた。
「魔力の開発をされたらしい。アズキとかいう女の方はもとの魔力が合わさって開発が成功したらしいぜ。」
「かい、はつ?」
ぐらり、とナナセの世界が傾いだ。やはり、と考える前に頭が真っ白になった。
「それにそいつ、ナナセの『友達』らしいぜ。」
願っていた『友達』という地位を、今の今にくれたって、嬉しいよりも悲しかった。『友達』でなかったなら、アズキはこちらの世界に巻き込まれずに済んだのだ。
どうしようと、呆然と考えるあまり忘れていた。もうひとつの手掛かりを与えたことを。
「お前、ルイの血筋?──違うだろ。ユリナ、お前はルイ・ナナセだろ。」
「……う、」
──ばれた。
サシガネの台詞にぎゅう、と唇を引き結ぶ。サシガネの目が、首狩りの目をしていた。
射るような、探るようなふたりの瞳から逃れるように駆け出した。あてはない。ただ、ここから逃げ出したかった。
逃げ出したナナセに反応し、すぐにルグィンがあとを追う。まっさらな白に近い髪がスズランたちから遠ざかる。
「あっ、戻ってきて!!」
スズランが背後から呼ぶ声が聞こえた。ここにはいられないと思った彼女は走り出した足を止めない。廊下に二人が消えた。スズランも二人が去った方向へと足を向ける。
「あんたたち、私や黒猫の目の届くところであの子狙ってみな。ルグィンがきっと許さないわ。」
睨みと共に言葉を吐いて、スズランもナナセを追いかけた。嵐を起こした本人は、嵐から取り残された。黒い瞳をより深く闇色にしながらトキワは呟く。
「サシガネの言った通りだ。ナナセだ。」
トキワは何の悪気もなくそう言う。はっ、とサシガネが笑った。
「だろう?揺さぶり、サンキュ。お疲れ様。」
演技をやめた、冷めた瞳のサシガネは、ゆっくりと口元を引き上げる。
「……怪しいったりゃありゃしない。名前を変えただけで誤魔化せると思うなんてね。ずっと近くにいたらナナセの振る舞いのままにしていたボロが見える、見える。隠すのが下手なんだろう。」
彼はそんな瞳のままに、からからと笑った。
「──さて。……どうやって手に入れようか。」
ふふ、と笑みを浮かべた彼の眼はは狩人の眼。にんまり笑う笑い方は変わっていないのだが、雰囲気はがらりと変わる。
「でも黒猫が黙っていないって。」
トキワの躊躇いに、それは愉しそうにサシガネは笑った。
「見つからないように手に入れるのさ。」
彼らは、狩人。賞金首を狩る、首狩りの一人だ。欲しいものは何がなんでも手を伸ばすのである。
***
硬い靴の音を響かせて、ルグィンは廊下を駆ける。白銀が黒猫の視界で揺れて、紺のスカートと白いシャツがなびく。何事かと廊下へと出てきた見知らぬ首狩りたちには目もくれずに、ふたりは神速の如く豪奢な廊下を走り抜けた。無意識下で魔術を使い逃げるナナセをルグィンは追うが、自慢の神速でもまだ追い付けない。
目の前の白に懸命に手を伸ばしても、空を掴んだ。
「──は……!」
ルグィンは歯を食い縛って、声にならない叫びを噛み殺す。少し近づいた彼女にもう一度、手を伸ばす。もう少しで、服の裾を掴めるのに、あともう少しだけが届かない。
突然、手を伸ばした視界の彼女が崩れ落ちた。段差に躓きぐらりと傾いたナナセを見て、黒猫はありったけの力で床を蹴り出す。
受け止めようとする彼の手が、崩れ落ちるまでに届いた。腕を引いて、後ろへと倒す。ルグィンはわざとナナセの下敷きになり、ふたりして座り込む。
幸い廊下は静かで、人がいない区画だった。息を乱しながらもう一度逃げ出そうとしたナナセを、ルグィンががっちりと抱き締めて、一言零した。
「……ナナセ、どこへ行く?」
耳元で、低い優しい声が聞こえた。ゆっくりと荒れたナナセの心が鎮まる。それでも唇は震えていた。
「ひと、のっ、いない……ところっ……」
ひゅ、と息を零した彼女の頬を雫が伝った。屋敷の廊下が薄暗くて良かった、と黒猫は心底思う。誰も来ない廊下は彼女の正体のためになるから。
ルグィンは膝の上に抱き締めて、無意識に彼女の頭を撫でた。ふたりはそのまま乱れた息を整える。赤い絨毯には四つの足が投げ出されたままだ。
彼女は俯き、顔をあげない。見かねた彼は指で優しく銀髪を乱した。
「泣けよ。」
ルグィンの声に、ナナセが弾けるように顔を上げた。彼女の揺れた瞳が、引き結んだ唇が、悲しみを物語っている。彼女はいつも強がりだ。涙の膜を張った瞳で、それでもまだ耐えようとしていた。
ナナセを片手で抱き締めたまま、ルグィンはもう片方で涙が揺れる瞳をふさいだ。小さな嗚咽と共に、彼女の瞳をふさいだ左手がじわりと湿る。
ぽたり、とナナセの頬からルグィンの腕を伝って、涙が絨毯に染みを作った。
もとはといえば自分が不注意に姿を晒したのが引き金で、ユリナと偽ったのが悪かったのだ。得られない絆を求めた自分が悪いと、ナナセはひどく悔いていた。最初から彼らが賞金首の『ナナセ』を狙っていると知っていたのに、心を開いたから。ナナセが賞金首で、相手は首狩りだと知っていたのに勝手にふたりを信じて、自分が獲物だと気づかされただけだ。けれどもそれが、こんなに辛い。
分かり合えないなんて昔から知っていたのに、こんな失敗は何度もあったのに、いつになく胸が痛かった。涙を溢すのは弱いことだと知っていても、ルグィンの前だと気を張れなくなる。どこか安心してしまう。気持ちを見透かしたように気付いてくれて、こうして追って来てくれたら、今の自分は酷く心を開くから歯止めがきかない。
心を取り戻したら、こんなにも脆い。
──すぐ泣いて。すぐ信じて。すぐ動揺する。
でも、心をもう捨てられなかった。人の温かみが感じられるこの場所から逃げることができなかった。
人の温かさに囚われた。
『人を疑え。』と、暗殺されかけて城を追われてから持っていたそんな決意は、アズキとトーヤが砕いた。人のあたたかさが、その闇が戻ってくることを辛うじて阻止している。腰に回った、大きくて華奢なルグィンの右手が、アズキに出会う前の自分に戻らないように引き留めている。
昔のように自分が戻らないと感じていても、経験と共に理性はまだ警戒している。やはり理性は『信じるな』と警鐘を鳴らす。
けれども過去も知らない異形の彼を、それでもすがりたい、信じたいと思う自分もいた。自分の中の矛盾が苦しくて。疑うことが、信じることがどうしても辛くて、涙がまた溢れた。
黒髪の少年はその場に言葉を落とさずに彼女の涙で濡れた左手で額をするりと撫でた。言葉はやはり紡がずに、悲しげな金色の瞳で彼女の額に肌を寄せた。
***
赤い絨毯の上にふたりで、どれくらいの間そうしていただろう。湿った服の裾や腫れた瞼が、時間の経過の証拠だった。泣き疲れた彼女が彼に体を預けてきた。ふぅ、と息をついて、しゃっくりあげながら、言葉を落とす。
「ごめんね、ルグィン。追って来てくれて、ありがとう……。」
返事は俯いたナナセの肩を優しく叩くことに代えられた。
そこにもう一人の足音がした。びくりとナナセが体を強張らせるが、ルグィンが彼女の頭に右手を乗せて呟いた。
「……スズランだ。」
曲がり角から、金色の耳が出てきた。立ち止まった彼女に合わせてくすんだ金髪が揺れた。
「ルグィン、ユリナ。」
「スズラン……。」
感謝も、何もかも伝えたいのに、彼女の名しか口から出てこない。
「部屋へ、帰ろう。」
スズランが、少し瞳を揺らしていた。差し出されたスズランの手に自分の手を重ねてナナセが立ち上がる。彼女が銀髪を揺らして、振り返った。涙で赤い目の彼女が笑う。
「ありがとう、ルグィン。」
少女が黒猫に手を差し出した。小さな白い手に少し大きな骨張った手が乗った。
正午前の冬のあたたかな日差しは、いつもよりも寒く感じた。




