10.約束
誰かが肩を掴んでぐらぐらと揺らしている。
──待って、アズキと話が出来なくなる。もう少し。
「──ナナセ!」
切羽詰まったその声に、微睡みのような世界から引きずりあげられた。目の前の焦り顔のスズランにぱちくりする。
「あれ?スズラン……?」
「大丈夫か?」
「大丈夫。ありがとう。」
自分を見下ろすルグィンを仰いで笑う。ナナセはまだどこか夢見心地で、ふわりと浮遊感覚が残っていた。
目を覚まさない彼女が纏うおかしな魔術の気に肝を冷やした数分前を、スズランは振り返る。急に力の抜けた少女の体に、泣き疲れたのかと思いきやどこか不思議な眠り方で、薄く開いたの瞳の奥に見えた耳飾りと同じ魔方陣にひどく不安になったのだ。
「急に意識なくすから驚いたわ。
本当に大丈夫?」
顔を覗きこまれたナナセは、力の抜けた瞳のままでへらりと儚く笑った。
「あたし、夢を見てたのかな。
アズキに会って来たの。」
幸せそうに、それでも悲しそうに彼女のその体験に、獅子はやっと気付いた。
「貴女、夢を渡ったわね。」
一瞬目を丸くして固まったナナセは、そうだね、とまた切なそうに笑った。そんな彼女にスズランがひとこと落ち着いた声で尋ねた。
「怪我はしていたの?」
「魔法でかなあ?傷が消え……てた?」
何が聞かれているのかナナセも勘づいたようで、一瞬で青ざめた。
「貴女、アズキさんに魔術をかけたといっていたわね。その人が貴女の魔術を知っていたら、彼女が危ないわ。」
そう言ったスズランを愕然と見て、ナナセは言葉を返すことができなかった。
魔力を使えば、魔力の跡が残る。他人にかける魔力は、どうしてか跡がくっきりと出るために、ひとそれぞれの魔法の跡がよく分かる。
ナナセは自分の魔術が変わっていることを知っている。相手がもし──首狩りの魔術師であれば、ナナセの魔術だと特定するだろう。
あたしのせいだと、ナナセは心臓が締め付けられる思いがした。まだ確定したわけないと励ますスズランの声も、嫌な予感しかしなくて、もう耳には入らなかった。
***
それから数日、ナナセは塞ぎこみ気味であった。サシガネたちにも会わず、スズランやルグィンが来ても口数は少なく、始めの方に見せた空元気もだんだん消えていった。
もうふたりを巻き込まないと誓った手前、どうすればと彼女は迷っていた。自分の魔力を使い果たした今は、約束を破ってすぐに駆けつけることも出来ず、回復を待つ他ないから。
座った椅子の上で膝を抱え、身体はさらに小さく見えた。
「ナナセ。」
その部屋にスズランが二人分の朝食を運んできた。ルグィンは朝はいつもいないらしかった。
その日も朝早くから起きて、ナナセは踞って外を眺めていた。
おはようとスズランが言えば、おはようとナナセが振り返って返した。
「スズラン、ありがとう。」
ふ、と一瞬だけ口元に笑みを乗せたけれど、すぐに消えた。ナナセはやはり笑う気になれなかった。
もちろんナナセは丁寧に受け取ってきちんと食べる。話をしようとしないナナセに、スズランは付き合ってくれる。二人で黙々と食べた後は、またスズランは仕事へと戻る。それでも合間を見つけては花や珍しいものを持ってきたり、少しでも笑えというように、励ましてくれる。
ルグィンは、朝食が終わる頃に帰ってくると、それから日が暮れるまで側にいてくれる。別に何を語り合うわけでもなかったけれど、彼女が一人にならないようにと居続けてくれる。
声にはどうしても出せないけれど、ナナセは二人にとても安心し、感謝していた。
けれど夜になれば広い部屋に独りになる。昼間よりもっと──よくない想像が色々浮かんできて、ナナセはほとんど眠れなかった。涙がぼろぼろと溢れてきて、どうしようもない。
その日も眠れなかった。窓越しに見える緑が月明かりで輝く中庭を眺めていると、ふと外へと出たくなった。いくら魔力が使えなくて危ないからといってこれでは気が滅入る。
ナナセは自室のその大きな窓によじ登った。久し振りで少し胸が高鳴る。この姿のままで外へ出るなというスズランの言いつけには、夜だから見つかる可能性は低いから、と心の中で返しておく。
窓を開いた瞬間、冷たい空気が部屋へ流れ込んできた。身体に染みわたる空気が、乾いた喉へ通る水のようだった。
いつものように──昔みたいに窓枠を蹴り出して空に身を投げる。
降り立つときに、一瞬魔術を使った。青い光が薄すぎて、力を込めてもいつもの術に劣る。無理に引き出そうとして魔力に呑まれかけた。使い終えたあとにくらりと目眩を感じる。
魔力は自分の回復のために使われているようで、彼女が自由に扱う魔力はまだ少ないらしい。多分、キンヤという人が使っていた武器が、殺魔の力のあるものだったのだろう。回復にも手こずるのはそのせいもあろう。
夜の闇でなかなか見えないが、この建物はかなり大きな屋敷だった。ナナセが借りている部屋は二階のようで、その上にまだ二階分ある。
足元には硬い煉瓦。目の前には多分石造りの屋敷。この屋敷の持ち主だと言っていたスズランは、どれだけ凄い人なのだろうか。
周りには運良く誰もいない。煉瓦に裸足をつけて、背筋を伸ばして空を仰ぐ。満天の星空に細くて切れそうな三日月。日が沈んで間もない時間だろうか。星たちの煌めきに圧倒されて、自分を小さく弱く感じる。
ざあっと音をたてて吹いた風は、月明かりに光る銀色の髪を乱す。ナナセの心が、揺れた。
──あたしはなんでここにいるんだろう。
利用されるのだろうか、それなら、と思えば、ぐらぐらとたくさんの疑いと後悔が溢れてきて。
──あたしは、なんでアズキのことに心を痛めているんだろう。誰かに心を動かさないって、動かして迷惑をかけないって、決めたのに。
父の死からずっと閉じ込めていた自分の心はいつの間に開いてしまったんだろうと、自問しながら本当は分かっていた。
感情を表すことの方が多いような小さな頃からの本当の性格。その性格を、本来のあたしの姿を引きずり出してくれたのは、彼らだって。
この扉を開けたのは、アズキだと。この冷たい心を溶かしたのは、トーヤだと。
手を伸ばせば、闇に飲まれて指先は見えなくなる。それでも、手を伸ばす。先が見えないなら、届いているようでそれでよかった。
風が新鮮で心地よかった。久しぶりの風は秋の匂いとともにナナセを包む。ナナセの銀髪はかすかな月の光でキラキラと星屑のように輝く。スカイブルーの瞳は夜空のように澄んでいる。彼女の姿は、まるで夜の闇と月を表したかのようにあたたかく、そして切ない。
ほんの少しの決意をともした瞳を、彼女はそっと閉じて、外であることを忘れて風に耳を傾ける。そんな彼女は背にした屋敷から人が来たことには気付かなかった。
唐突にぐい、と襟首を捕まえられる。
「──きゃ!?」
ぐん、と後ろに振り回される。驚くナナセの首に、ふたつの腕がまわる。
「──き、」
突然の腕の来襲に強張る体。ナナセの唇が叫びの形になったところで、耳元で男の声がした。
「ナナセ。」
低くて優しい、その音。耳にかかる声がくすぐったい。
「ナナセ、俺だから。」
囁くその声に、聞き覚えがある。どこか壊れそうな切なさを含む声。
「ルグィン……?」
空気はつめたくて、触れている背中はあたたかくて。彼に触れている背中から熱がじんわりと伝わってくる。ルグィンの腕は前にまわされて、ナナセを抱き締める格好になっている。ルグィンはナナセを一度ぎゅ、と引き寄せた。優しい香りに、ナナセはふと切なくなる。
「驚いた……。」
耳元で囁かれる声は相変わらずくすぐったい。小柄なナナセは頭ひとつ大きいルグィンを振りあおいだ。
「どうして驚くの……。」
切れ長で金色の瞳を優しく細めて彼にしては珍しく、小さく笑った。
「部屋にいるはずのナナセが外にいるから。
何かあったのかと思った。」
「……ごめんね。まだ魔力で防御できる状態じゃないのはわかってるけど……。」
口ごもる銀の少女に、ルグィンは小さく笑う。
「けれど、か。」
頷き切なそうに笑う彼女に、ルグィンはなんとも言えない気持ちになる。
──きっと、今はなにもできないと知っているから余計だろう。
「アズキと、トーヤの事か?」
「うん。」
ナナセの儚い笑顔に影がさす。細い月が影を落として、余計に彼女の笑顔を暗くする。
「あたしの一番の友達だったの。
だからね、どうしても助けてあげたかった。だけど……。」
言葉を詰まらせた彼女。そのつむじを見下ろして、ルグィンは目を細めた。
「あぁ、今のお前じゃ無理だな。」
ルグィンに冷ややかに言い捨てた。ナナセはその言葉に涙を落とさぬように唇を引き結ぶ。腕の中の彼女の俯く気配に、ルグィンは静かに微笑んだ。
「お前がちゃんと後悔してて、助けに行きたいって思ってるのは知ってる。けど、今の魔力の使えないお前を抜けなきゃ助けに行けないぞ。」
その言葉に、顔をあげた。月と同じ色の瞳が、視界に飛び込んだ。
「ちゃんと治さないとさ。
……なに、その顔。見下されるとでも思ったのか。」
てっきりお前じゃ駄目だと全否定されると思っていた彼女は、心がまだ追い付かない。
助けにいかなきゃならないのに、友達を見捨てた奴に助ける資格なんかないと、誰かに否定されそうで怖かったのかもしれない。ルグィンにも『助ける資格なんかない』と砕かれると思っていたのに、心を汲んでくれた。
「助けに行って、いいのかな……。」
瞳を大きく見開いて、真っ直ぐに尋ねる。彼女の瞳の奥の怯えが、ルグィンには見えた。
「お前が行かなきゃ、誰が行くんだよ。」
軽い音をともなって額がはたかれた。そんな風に励まされたのは初めてで、ナナセは目を丸くして彼を仰いだ。
いつもはひとりで決めていた。けれど今は、背中を押してくれる人がいる。それだけでこんなにあたたかい気持ちになる。それが本当に嬉しくて、でもどう伝えれば良いか分からない。
「行かなきゃならない……いや、行きたいんだろう?」
ルグィンの声はたしかに分かりにくいけれど、優しい。低く穏やかなその声は、ナナセの胸のうちまでじんわりと染み込んでいく。そして、ふたりで空を見上げながらナナセはぼろぼろと心のうちをこぼしてゆく。
「うん。行きたい……ふたりに、会いたい。言いたいことがたくさんあるの。」
いつも変わらない淡い瞳のその奥の確かな決意に、ルグィンは頷き返す。
「なら、早く治して、早く魔術を使えるようになれよ。そうしたら、ここを離れて二人のところへ行けるだろ。
……その時は……付いていってやるから。」
ルグィンの口に乗せられた言葉に、ナナセは言葉を失う。秋の夜風がさらさらとまわりの木々を揺らす音も、今は聞こえない。
「……え?」
夜闇でほとんど見えないのにルグィンの気配のする右隣を見てしまう。面倒くさそうに、彼は口を開いた。
「だからお前と俺で、ふたりを助けに行くんだ。
無事なら無事でお前は二人に言いたいことがあるんだろ。」
ぶっきらぼうに言い直されたその言葉は、ナナセには優しさに見えた。そんなことは初めてで、素直に受けとる術が分からない。
「嬉しいけど……いいの?
お仕事とかないの?
暮らしはいいの?」
気持ちが思わず先走って、深く考える前にルグィンに尋ねてしまった。それに気付いたナナセは、ぱっと口を押さえた。
「俺は捨てられた実験動物だから。日向に当たるようないい仕事には就けないさ。
今は軍や町に金で雇われる仕事をしてるだけ、この町には未練はないな。」
どこか突っぱねるような、さっきよりも冷ややかな声。ざぁ、と流れる風が今はうるさい。
「そっか。」
それしか言えなかったナナセは励ましもできなくて情けなくて俯いた。重い空気を変えるように、ルグィンは俯いた彼女の手を取った。驚いた彼女の息がルグィンにも聞こえた。突然の口を開いたルグィンの声は穏やかで優しい。
「困ったことがあったら、助けてやる。
──見かけによらずお前、弱いから、さ。」
今、自分の中にずっと隠している私を見透かされているようで。
不思議と嫌な気持ちはない。心地よくて、胸の中に広がるのは嬉しいような優しい気持ち。繋がれた左手がどうしてかあたたかかくて、胸がいっぱいになった。
夜闇に手を繋いで言葉を交わすふたりの姿は、外の小さな人影まで見ているような人にはよく見えていた。それは例えば金獅子の美少女であったり。獣の力を人の身で発揮できる彼女は、二人から遠く玄関扉もたれて二人の背中を見ていた。くすりと笑って、足音をたてずに屋敷の中へと消える。
「あのルグィンも大人になったなぁ……。」
彼女は獣の耳で一部始終を聞いていた。自分の仕事へと戻っていく。この光景をまだ見ていた人がいることを、彼らは知らない。
次の日から、ナナセはよく笑うようになった。人形のように無理矢理笑っているのではない。確かに悲しい瞳はするけれど、時々、本当に嬉しそうに笑うのだ。笑う回数が日ごとに増えていくという少女の心が生き返るような時間を、スズランは不思議なものを見るような面持ちで見ていた。最近ずっと引きこもっていたのに、彼女はスズランやルグィンと共に外へと接触する事が増えた。まだ変化の魔術を使えない彼女を考えて、連れ出すのは人が少ない場所ではあるが。
包帯だってとれていない、魔術も十分使えない体で、たくさんのものに出会い、笑う。ひとりの力であんなに変われるものなのかと、スズランは驚いていた。
秋の深まる昼下がりに、久し振りにスズランはナナセの部屋でふたりきりだった。日向ぼっこをするために日光の当たる窓際に座っているナナセと、奥で机に向かい書き物をしているスズランの間には会話は無かった。かといって重い空気ではなくて、ただ静かだった。
また無理に動くと屋敷の主人に叱られてしまうのナナセは窓際に置いてある小さな草花の苗を眺めている。その背中に顔をあげたスズランは問いかけた。
「アズキとトーヤのことはもういいの?そんなに楽しそうにしていて、罪悪感は感じないの?」
ナナセの動きがびくりと止まった。ゆっくりと花の鉢を置いて、振り向き口を開く。
「良くないよ。治ったら必ず探しに行く。
謝りに行く。……何かあったなら、助けに行く。」
スズランを真っ直ぐに見据える瞳の中には、決意の光。そこにはもう、迷いはなかった。
言葉を選びながら、ナナセは真っ直ぐにスズランを見据えて口を開いた。
「笑うことには罪悪感は感じるよ。
けれど、思い悩んでいるのは、もっと駄目だと思うの。動かなきゃなんにも変わらない気がするの。助けに行くにはあたしが元気で強くあらないと。魔力がちゃんと使えないと、ね。」
ナナセは自分の思いを吐き出したからか、困ったような照れ笑いで誤魔化した。目を合わせていたスズランの瞳がナナセから逃げた。
「そう。それならいいわ。貴女がちゃんと決意して笑うのならね。」
スズランは目を伏せて笑った。その静かな笑みには理由があるのか、ナナセには分からなかった。それでも、スズランの声が優しかったから、頷いた。
「うん。……もう泣かない。もう、迷わない。」
決めたの、と笑って誤魔化したその中に、彼女の強い決意が獅子の少女には透けて見えた。ナナセは袖から包帯が覗く右腕で、窓ガラスに手を添えて窓の外に視線を逃がした。
ナナセはふたりには助けられてばかりだ、とまた思った。ありがとうがなかなか音にできないけれど、心の中は感謝でいっぱいだ。
「ねぇ、そう思えたのは、ナナセが笑えたのはルグィンのお陰?」
スズランの小さな笑い声も聞こえた。驚いて振り向いて真意を探るけれど、ナナセには分からない。
「うん。」
照れたような柔らかい笑みに、獅子がそっと笑みを深めた。




