一章(1):どこかで見た文字
桜。
薄桃の蕾が、大きく膨らんでいる。
校内の桜も、そろそろ咲くようだ。
昇降口。
人だかりが、出来ていた。
「よう」
その中に、見知った姿を見かけて、声を掛ける。
「お、春樹。掲示、見たか?」
人ごみから少し離れたところに、仁がいた。人ごみが少なくなるのを、待っているようだ。
「この人だかりは、それか」
「ああ。今日から、学校だろ。だから、昇降口に、クラス替えの掲示が張ってあるんだ」
俺達の通う、高校。
私立桜美高校は、一年毎に、クラス替えが行われる。
「今年も、またお前と、同じクラスだと良いがな、仁」
「そうか?」
「ああ。気が楽だからな」
「ははは。それは、言えてるな」
後ろ。
遠慮がちに、肩を叩かれた。
振り向く。
園村だった。
「二人とも、おはよう」
「あ、ああ、園村か。おはよう」
「園村さん、おはよう」
不意で少し、戸惑ってしまう。
いかんいかん。
普通に、普通にだ。
「学校、始まっちゃったね」
「そうだね。俺はもう少し、休みたかったな」
「ふふ。実は、私も」
仁と園村が話している。
何となく、園村と話しづらくて、人だかりの方を見ていた。
「ふっふっふ…」
笑い声。甲高い。人ごみの方から聞こえてくる。
何か、聞いた覚えのある、声だ。
「ふふふふ!!」
嫌な予感がする。
こういう時の俺の勘は、ほとんど外れたことはない。
「何か、女子の笑い声が聞こえるね」
「おい、仁?」
「ああ。だな」
「? どうしたの、二人とも?」
「全く、朝から、元気のいいヤツだぜ」
「俺は少し、見習った方が良いかな?」
「ま、お前はおっさんだから、見習った方がいいのかもな。オレは、激しく、遠慮しておく」
「え? え?」
「園村も、今にわかるよ」
人ごみから、笑い声の主が、満面の笑みで出てきた。
「やった、やったわ!」
ひそひそと、園村に話しかける。
「…園村、他人のフリだ」
「え? う、うん」
声の主から眼を逸らし、そのまま、三人で玄関に入ろうとする。
笑みの主。
俺達の姿を、しっかりと捕捉したようだ。
「そこの三人! 何、他人のフリしてるのっ!?」
「あ、バレた」
「あれ? もしかして、美咲?」
「もしかしなくても、美咲さんだよ」
「二人とも、逃げるぞ」
「え、どうして?」
「その方が、楽しいからだ」
「ははは、間違いない」
仁と二人で、駆け出した。園村も、ついてくる。
「な、何で、逃げるのよ!? こら、そこの三人、待ちなさいっ!!」
「われごは、いねがぉぉっ!!」
「私は、なまはげじゃなーい!!」
「ははは」
「ふふふ」
四階まで、階段を駆け上がっていく。二年の教室は、四階のはずだ。
「そういや俺、自分が何組か、見てないな」
駆けながら、仁が笑う。
「それなら、大丈夫だ。美咲さんが笑ってる間に、見てきた」
「お、やるな、仁。それで、どうだった?」
「うん。俺達四人、めでたくまた、同じクラスだ」
「お、それは」
「めでたいのか、腐れ縁なのか、だね」
「はは、その通りだ」
園村が、俺の代わりに言う。おもわず、笑った。
「さて、5組まで、逃げようか。まあどうせ、後で、捕まってしまうんだが」
「なまはげに、な」
「ん、なまはげに、ね」
「なまはげ言うなー!!」
「ふふふ」
階段を、すごい勢いで駆け上がっていく。
擦違う生徒達が、ぎょっとしている。
その中を、笑いながら、駆け上がっていった。
新学期が始まり、四日経っていた。
窓の、外。
桜が、咲いていた。まだ、二分咲きといったところか。
窓際の席。一番、後ろ。
昨日の席替えで、そこに決まった。
何故か、くじびきではなかった。
これまではだいたい、席に番号を振って、番号の書かれたくじを引き、席を決めるのが普通だった。
しかし今回は、何故か、違った。
場所の希望を取って、かぶれば話し合い、それで決まらなければ、最後はじゃんけん。そういう決め方で、席を決めていった。
なかなか、激戦だった。
この、窓側最後尾の位置というのは、絶好の眠り場所なのだ。
俺も含め、授業中の安眠を貪ろうとするヤツらと、取り合いとなった。
まあ、最後に勝ったのは、俺だがな。
宣言じゃんけんで、負けたことは無い。
最初に、出す手を言う。それで、相手は、出す手を考える。
相手の性格によって、裏を掻いたり、そのまま出したりする。
このじゃんけんで、大抵のヤツには、負けたことは無い。
鳥谷など、格好の獲物だった。確実に、勝てる。
園村とは、五分五分といったところか。
何故か、仁には、ほとんど勝てたことはない。
「ふわああ」
外の景色を眺めながら、盛大に欠伸した。
春めいた陽気だ。眠気に誘われるのも、無理は無い。
「で、ここの数式は…」
授業中だった。
数学。
アルファベットが、念仏に聞こえてくる。心地よい響きだ。
前の席を見る。
鳥谷。華麗に、シャーペンを走らせている。時々、様々な色のカラーペンに持ち替えている。
やるな。さすが、学年ナンバーワン。
俺の使う色は、専ら、赤か黒だけだぞ。
右前方。
仁。真面目な顔で、聞いていた。
全く、偉いヤツだ。クラスの四分の一は、夢の中だというのに。
ま、俺は今から、その四分の一の中に入っていくわけだが。
筆入れ。
机の真ん中に、置く。それを枕にして、窓側に首を向け、寝る姿勢に入る。
前、そのまま机で寝たら、首を寝違えたことがあった。
それから筆入れは、クッション性の高いものを使っている。
すぐに、眠気が襲ってきた。眠りは、近い。
「…ぐー」
「では、問5の答えを…。南雲」
「は、はいっ!?」
跳ね起き、立った。
まだ、頭は寝ぼけている。一度、眠りかけたのだ。
「…何ですか?」
「聞いていなかったのか? 問5の答えだ」
「…あ、はい」
そうは言ったものの、答えられるわけがない。
さっきまで、半分、寝ていたのだ。当然、予習なんてものは、していない。
ノートは、真っ白だ。今の俺の頭の状態。それによく似ている。
「……」
教室。静かになっていく。何事かと、起きてきたヤツもいる。
くそ。寝てたヤツらめ。
代われるもんなら、代わりたいもんだ。
「…え、えーと」
教科書。問題を見る。
「…むう」
駄目だ、全然わからん。
ま、ろくに授業を聞いてないんだから、当たり前だが。
だが…。
「どうした? 早く答えろ」
マズイ。
わからないとでも、言ってしまおうか。
だが、それでは、俺は馬鹿だと、自分で言っているようなものだ。
かといって、適当な答えでも言って、全然違っていたら、それこそ馬鹿だろう。
どうする?
「…えっと」
ちょんちょん。
何かが、わき腹に当たる。
その方向に、眼だけ動かす。
お。
ノート。赤丸で囲まれた黒の字。
救いの、一文字。
「ほら、早く答えろ」
「あ、はい。ええと、『2』です」
緊張の一瞬。頭の中に、ドラムロールが響いていた。
「…正解だ、座れ」
「…ふう」
座る。
隣の席の園村に、小声で話しかけた。
「ありがとな」
「ううん、気にしないで。もし間違ってたらって思ったら、私まで緊張しちゃったよ」
「助かった。今度、何か、おごる」
「ふふ。うん、楽しみにしてる」
園村が、黒板の方に、視線を戻す。
危なかった。
あそこで園村がいなかったら、ずっと立たされたままだっただろう。
感謝しなきゃな。
それからは、授業を真面目に聞いた。
だが、内容は、半分も、頭に入ってこない。
時々、隣の席の、園村を見た。
懸命に、板書を取っていた。真剣な顔だ。
思わず、見入ってしまう。
視線に気づいたのか、園村が俺を見て、不思議そうな顔をする。
俺は、何も言わず、首を横に振る。
園村は不思議そうな顔をしていたが、すぐに少し笑って、ノートを取るのに戻った。
外の景色を見る。
「…はぁ」
何やってんだろうな、俺。
意識しないと、決めたじゃないか。
全然、出来ていない。
それどころか、日に日に、どんどん意識している自分を見つけたりもする。
おいおい。
マズイだろ。
このままだと、いずれ。
考えたくない。
それでも、考えてしまう。
もし、とか。
あるいは、とか。
多分、それは、跳び上がってしまうぐらい、嬉しいコトで。
だから、俺は、それを考えてしまうのだろう。
それでも、駄目なのだ。
ちょうどいい、距離感。
甘えている、と思った。俺はただ、三人に甘えている。
それでもいいじゃないか、とも思う。
思って、しまう。
まだ、ガキだな。
それだけは、はっきりとわかった。
宙ぶらりんな想いを抱えたまま、外の景色を見ていた。
見える景色は、眼には入らなかった。
気づくと、眼で追っていた。
園村。
隣にいる時は、さすがに止めた。
それでも、自然に、眼で追っていた。
何度か、眼が合った。
眼が合うと、園村は手を振って、笑う。
手を、振り返す。そんなやり取りが、なんだか楽しかった。
眼を、逸らせなかった。逸らしてしまうのは、何か、露骨に避けているような気がした。
それで気づかれてしまっては、元も子もない。
だから、あくまで自然に、友達として接しようと思った。
今のところ、大きく間違ったことはしていない。
時々、視線を感じた。
その先に、園村がいた。
眼が合うと、園村のように、手を振って答えた。園村も、返してくる。
多分、気のせいだ。視線を感じてしまうのは。
俺がそれだけ、園村のことを意識しているからだろう。自意識過剰ぎみな自分に、少し呆れた。
そして、それだけ園村のことを意識してしまっている自分にも、気づいた。
気づくと、どうしようもない想いに陥る。
罪悪感だとか、やるせなさだとか。少し、恥ずかしい気持ちだとか。
だんだん、それを抑えるのにも、慣れてきていた。
そんな時だった。
「ん?」
朝の昇降口。
下駄箱を開く。何か、紙のようなものが、入っていた。
「これは…?」
おいおい。
「嫌な予感がするな…」
手紙。封に包まれている。真っ白な封だ。
「まさか、だよな」
その場で開けてみる。一枚の紙。封と同じ、白だった。
「ん、どうした、春樹?」
一緒に登校した仁が、俺の様子に気づいて、手紙を覗き込んでくる。
「これ」
持っていた紙を、仁に渡す。
「おや、これは…」
仁が笑う。明らかに、面白がっている表情だった。
「春樹君のことが好きです、付き合ってください。お返事は、放課後裏口で。待っています、か」
「声に出して読むな」
「間違いなく恋文、だね」
「言い方が古いぞ」
「それは、仕方ない。なにせ、おっさんだからな」
「…はぁ」
「良かったじゃないか、春樹を見てくれている女の子がいるとわかったんだ」
「放課後、か。憂鬱だ」
「付き合うのか?」
「まさか。俺は、お前らとつるんでる方が楽しいんだ。今は、誰とも付き合う気は無いな」
「そうか、残念だな。面白いものが見れそうだったのに」
「仁、間違っても、見にくるなよ?」
「はは、俺もそこまで野暮じゃない。まあ、頑張ってくれ」
仁から手紙を受け取る。もう一度、まじまじと見てみる。
「差出人の名前が無いな」
「それは、そうだろう。名前を書いて、掲示にでも張られてみろ。軽く不登校になるな、俺は」
「まあ、それもそうだな」
「それに、名前を見て、クラスまで乗り込まれて、あまつさえそこで返事を返される場合もある。そしたら、クラス中の笑いものだろう」
「…何で、お前、そんなに詳しいんだ?」
「さて、ね」
仁が軽く、笑う。
一年付き合ってみても、謎の多い男だった。
「んー?」
「今度は、どうした?」
「いや、この手紙に書いてある字なんだが、どこかで、見たことがあるような気がしてさ」
「ふーん、どれどれ…」
仁も見る。何かに気づき、少し笑った。
「ああ、この字は、俺も見たことがある」
「お、誰の字だ。教えろ、仁」
仁が、わざとがっかりした様子で、ため息をつく。
「春樹、さっきも言っただろ。この手紙の主は、名前を知られたくなかったから、名前を書かなかったんだ。その気持ちを、汲んでやるべきじゃないか。例え、告白を受ける気は無くても、な」
「あ…」
言われてみれば、確かに、仁の言う通りだ。
興味本位で、聞いてしまった。少し、浮ついているのかもしれない。
「そうだな。わかった。放課後まで、憂鬱に待つことにするよ、俺は」
「ん、それが、正解だ」
手紙を、もう一度だけ見る。
やはり、見たことのある字だ。
しかし、いくら考えても、その字の主は、わからなかった。