西瓜カタルシス2
じゃっじゃっ。
艶やかな黒褐色の集塊を、越後屋の白い手がごそごそと掻き回す。
「こいつは、なかなか……」
「お?」
「嬉しそうな顔すんな。やっぱ気持ち悪いだけだぞ、これ」
種が付かないように、後ろで長い髪を縛った越後屋。トトが用意した水に手を浸し、思い切ってボウルの中に手を突っ込んだ。しかし、それは想像していたよりも気持ちが悪かったようだ。夏の暑さでぬるくなった水と相まって、ボウルの中は地獄の手触りだった。越後屋の眉毛は不快さにひん曲がる。
「乗り越えなさい」
「お前なんなんだよ」
「あの、お姉さん、誰?」
「うおっ……、急に出てくるなよ。ビビるだろ」
ロロである。庭が騒がしく、読書をしていられなくなった彼は、本を閉じて庭に出てきた。そこで見たものは、知らないお姉さんとトトが、奇行に及ぶ姿だった。
「ロロ、この人が越後屋紅よ」
「あっ……。こんにちは。なるほど、たしかに前髪がおかしい」
すっとお辞儀をし、挨拶をするロロ。
「礼儀正しいんだか無礼なんだか」
「自分で切っていつも失敗するって、博士が言ってました」
前髪のことはもういい、と越後屋は乱暴に手を振って話題の転換を試みた。ところが、越後屋の手からスイカの種が飛散して、ロロを強襲した。
「あっ。わりぃ」
うっ、とくぐもった声を上げて、ロロは顔をおさえた。べちべちと襲い来る種に、彼は尻餅をつく。
「ちょっと、ベニー。そんな酷いことしたら駄目じゃない」
「いや、お前だって……ちょっと待て、ベニーてなんだ?」
「紅だからベニー」
「だろうな……。おい、少年、すまなかった。大丈夫か?」
よたよたとロロは立ち上がり、少し不機嫌そうに眉をひそめたものの、怒ってはいなかった。
「わりといつものことだから」
「お、おう。そうか、大変だな。ロロ、でいいのか?」
「うん。トトに付けられた意味の無いニックネームだけど。ところで、二人は一体なにをしているの?」
越後屋とロロが会話している最中も、トトは喜々としてボウルに手を突き入れていた。
「わからん、トトに聞いてくれ」
「ベニーがわからないなら、トトに聞いたって無駄だよ」
まじかよ、と越後屋は絶句する。
「トト、ちょっと貸して」
ロロは怯むことなくボウルに手を突っ込んだ。じゃっじゃっ、と数回試してみるも、汗ばんだ手に種が張り付くだけで、楽しくはなかった。ただただ気持ち悪いばかりだった。
「これは、駄目なやつだ……」
面白くなさそうでも、やってみれば面白いこともあると、ロロは知っていた。ゆえに試してみたのだが、予想を良い意味で裏切られることはなかった。ショックのあまり、ロロは座り込んでしまった。
「そ、そんなガッカリすんのか」
「ベニーは気に入ったみたいだけど」
トトは汗ばんだ額をぬぐい、楽しそうに笑った。腕を振り回し、そこら中に種を撒き散らしている。まるで、そういう農作業機械のようだった。
「うるせ。別に気に入ってないから」
とは言うものの、越後屋はじゃっじゃっと手刀を突っ込んでいる。三人の周りには、いつか芽生えそうなほど種が散乱していた。
「あぁ……。これが、かたるしす、というやつね」
トトはひどく嬉しそうな顔で越後屋に言った。
「なに言ってんのかわからん」
「わたしもわからん」
「トト。僕が読んでた本、勝手に読んだんでしょ」
別にいいじゃない、とトト。困惑顔でじゃっじゃっとやっている越後屋。二人の視線はロロに注がれる。スイカの種に手を突っ込んでいる事とカタルシス、その関係性を問う目だ。
「待ってよ。難しくて、僕にもよくわからんです。あの本は、まだ僕には早かったんだ。読めない漢字とわからない言葉だらけだ」
「なによ、駄目じゃない」
「おい、トト。そんなにロロを責めるなよ」
「いつのまに、ぼくが悪いことになったのさ」
ロロが小さく怒ると、二人がげらげらと笑い出す。つられてロロも笑うと、もう難しいことは消えてなくなった。
夏の午後。少年と少女と、少し大きい少女が、今まで知らなかった価値観を手に入れた。スイカの種は、少なくとも三人が笑うことのできるものだったのだ。スイカは偉大なのかも知れない。
「君たち、なにしてるの……」
スイカの種をまき散らして笑う三人を、怪訝な顔で見つめている博士がいた。心なしか、眼鏡がずり落ちた気がする。
「お、お前、いつの間に……!!」
越後屋の顔はスイカのような紅色に染まった。
「なにその大量の種……。集めるのにどれだけ時間がかかるんだ」
「一粒も逃さず集めて、綺麗に洗って乾かしたわ。友達にも頼んだけど、夏休みをほぼ使い切ってしまったの」
トトは大そう自慢げだ。博士はそんな様子に慣れているのか、眼鏡を押し上げて苦笑するだけだった。
「で、これはなんの遊び?」
「カンジョーのジョウカよ」
意味がわからん、と三人は声を合わせる。
「わたしもわからん」
そう答えて、トトは相好を崩した。
「なんでスイカの種を撒き散らして、感情が浄化されるんだ……?」
「おい、真面目に考えんなよ」
博士が感情の浄化について頭をめぐらせていると、突然、ロロは体に付着した種を払いながら、切羽詰った声で呟く。
「みんな……! ぼくは気付いてしまったよ」
「ん? この状況と、感情の浄化の関係?」
「違うよ。このたくさんの種、小さな虫の群れに見える……と思わない?」
一瞬。
観察と思考の静寂。それを破ったのは、四人の悲鳴だった。