巣から追われた狼
行く先々で狙われるというのは、気分のいいものではない、。
原因はあのウェブログだ。日、一日と予測が鋭さを増していく。まるで俺の動きを牽制しているかのような克明さが、行動範囲を極端に狭めさせていた。
しかも、襲撃の数が多すぎる。食料の買い出し一つとっても、愛車である軽は三回事故に合いそうになり、四回目で廃車になった、というぐらい執拗な攻撃である。
これはどういうことだ?
すべてが高見清介の部下とは思えなかった。真剣に危険だと思ったのは、あの兄妹ぐらいで、他はアマチュアに毛が生えた程度、ろくな連携もなく単発で襲ってくるだけだ。数の多いのが面倒だったが。
もう一つの救いは、隠れ家の住所を暴露されていないということだが、それ以外なら、あのブログを一通り読み返すだけで、俺の生活習慣までわかってしまうほどだった。
手も足も出ないまま、降りかかる火の粉を払うだけ。俺が怒りと不条理に押し潰されそうになっていた、ユウコと出会ってから四日目の夜。
しとつく雨の音と、バラエティ番組の声とユウコの笑いとの合間に、遠慮がちに電話が鳴った。
「もしもし」
『今すぐ逃げなさい!』
切羽詰った情報屋エドの声。
俺は、ユウコと、彼女の膝の上でうーんと体を伸ばしているアルジャーノンを見やった。
六本木の一角で轟音が鳴り響いた。
誰もが昨年末のヒルズ爆破事件を思い出し、恐怖に身をすくめるか、ざまあ見ろとつぶやいているに違いない。
さきほどまで暴れていたアルジャーノンは、爆発音に怯えたのか、それとも獣なりに事情を察したのか、今では黙ってユウコに抱かれている。もしかしたら、洗ったばかりのシャツに描かれたマッキーくんを見て、食欲を失ったのかもしれない。
彼女をかばうようにして物陰に隠れていた俺は、爆発音と同時に騒ぎ出した近隣住民――半分は正式な住民じゃないが――にまぎれて歩き出した。
頭は半分ほど混乱している。
爆発物が仕掛けられた気配は、なかった。事実、あの爆発の音と規模からして、ガス爆発と想像するのが妥当だ。音ばかりでかいが、破壊が目的の爆発ではない。
だが、安全対策の万全な隠れ家で事故などありえない。
事故を装って人を殺すこともあるのだ、逆に、どこをどう気をつければ事故が起きないか、ということも熟知している。事故でくたばる殺し屋なんて、ナンセンスもいいところ。
第一、事前に危険を知らせてきた情報屋の謎。
雨に濡れたユウコは、肩までかかる髪の毛をかきあげて、少しでも濡れないように、とアルジャーノンを強く抱きしめた。
「こっちだ」
他に隠れ家がないわけじゃない。
大通りへ向かおうとした俺の背中に、不意にひやりとした寒気が走った。予感。振り向きもせずほとんど反射的に前方へ跳躍した俺の背後を、なにかがかすめる。なにか知らないが、風圧が、威力のほどを物語っていた。
「大当たり!」
振り返って構えた俺へ、その男はニヤリと笑いかけてきた。本人はきっとニヒルな表情のつもりなのだろうが、いかんせん顔の造り自体が世にも稀なほど不細工で、あわれなくらい似合わない。
「みんな、急いでこっち集まれ、早くしねぇと俺様が一人で終わらせちゃうよ」
喉にマイクでも仕掛けているのだろう、男は左手で喉元を押さえて通信しながら、右手のナイフを構え直した。
さっきの風圧は、このナイフか。
「さぁて、お譲ちゃんは離れてな、俺の標的はナガレ一人なんでね」
その手に乗るか。隠れている人の気配は感じないが、ユウコが俺から離れた瞬間を狙っているのはわかっている。
それにしても、こんな男の接近に気付かないとは。爆発と雨に気を取られ、師匠への怒りに目がくらんでいたとはいえ、自慢の勘が狂うなんて予想外だ。
「俺はチョウ、チョウ・グフュー。お前を地獄へ叩き落す男の名前だ、覚えとけ」
ばりばり日本人のイントネーションで妙な中国風の名を名乗る。中国系だとアピールしたいらしい。たしかに、最近では日本のヤクザを名乗るより、中国系マフィアをかたった方がドスが効く。
「命もらうぜ、紅のなみダガハッ!」
俺の廻し蹴りが、まともにチョウの顔面に炸裂した。
愚か者め。敵を前に長々とお喋りしてどうする。
ナイフを蹴り飛ばし、倒れた男のこめかみに拳銃を押し付けた。金属部品を極力排除した複合素材で造られたグロック19は、ホルスターを用意する間がなくて、直接ベルトに差し込んでいたものだ。
「俺に用があるんだったな?」
「はひゃ?」
何本か歯の折れた口が、絶妙な間抜けさで歪んでいた。
「あの爆破はお前たちの仕業か?」
大急ぎでぶんぶんと首を振る。まあ、俺に気付かれずに事故を演出できるほど、チョウは利口に見えない。
「誰に雇われた? まさか、貴様ら全部が高見の指図で動いてるわけじゃあるまい?」
「ほへ? 高見?」
きょとんとした顔は、演技には見えない。やはり、俺を騙す器用さは、この間抜けにはあるまい。
「誰に雇われた?」
こめかみに銃口をめりこませると、本気と悟ったのかチョウは青ざめた顔を振るわせた。
「ち、違う、雇われたんじゃねぇ!」
「・・・・・・俺に恨みでも?」
「違う! ディッ、Dリストだ。最新の更新版で、あ、あんたの名前が乗ったんだ。ちょ、ちょうど便利な情報もネットに流れてたし、手ごろじゃねぇかと・・・・・・紅の涙をやりゃあ名も売れる。わ、悪かったよ! だけど、あのリストに載る以上、あんただって」
「Dリスト?」
一瞬の思索が俺の意識を現実から乖離させた。
――Dリストだと? そんな、馬鹿な。
気付いた時には、チョウと名乗った男は俺の手から逃れて走っていた。
間抜けは放っておいてもいい。問題は、あいつの言ったことが本当なのか、どうか。
「・・・・・・おじさん?」
ユウコの腕の中で、興奮したアルジャーノンがフーッと鼻息を荒げていた。
ああ、そうか、彼女は銃が嫌いだったっけ。
だが、まだ銃を収めるわけにはいかない。
俺は近くの電信柱へ銃を向けた。
「出て来い」
その男は、苦笑をもらしつつ、手を上げて現れた。
「いつから気付いてた? 気配消すのは得意なんだが、自信なくしちゃうよ」
男の存在に気付けたのは、チョウが逃げていった後だ。が、そんな恥ずかしい失態をバラす気はない。
「チョウの仲間か?」
グロックの撃鉄を上げると、「待てよ」 と男は自分の胸元を指差した。
首にかかった鎖に指輪がぶら下がっていた。銀色のフレームに、小さな緑色の石が埋め込まれている。
「俺は、エド、だよ。物陰から見てたけど、相変わらずたいしたもんだ」
男の顔を睨んだ。少しばかり興奮していた俺は、誰も信用できん、という境地に達していたのだ。
「さっきは危険を教えてやったじゃないか」
「お前は男だ」
「男だと悪いか?」
「いつからエドは男になった?」
男はひょうきんなくらい大袈裟に肩をすくめた。
どう見ても東南アジア系の若者、少し大陸寄りの風貌だろうか。開襟シャツがものの見事に似合っていた。
「俺のことを信用しないなら、それでいいさ。勝手にくたばればいい。だが、生き延びたいなら、ちょっとは付き合ってくれ」
「他人に生死を握られるのは、主義に反する」
「ナガレちゃんらしいね。あの化け物師匠がかわいがるわけだ」
かわいがるという言葉の用法を間違っている。
「車がある。信用しないなら、適当に乗り回して捨てればいい。俺を人質にしてな」
しばらく、エドと名乗る男を見つめていた。
もしチョウの言ったDリストが事実なら、タクシーを頼むにも用心がいる。なら、少なくとも信用のできるエドという名を信じてみるか。
もとい、利用してみるか。