悪夢の馬鹿笑い
グリーン大通りから一本はなれた路地に建つ雑居ビルの二階に、小さな針灸院がある。
事務スペースと狭い治療室、無闇に広い待合室、流しには本格的なキッチン。なにが主体でなにを主張したいのか、よくわからないフロアだ。
テイシンの親代わりが経営する針灸院で、彼女はその事務員兼助手だった。
「センセイはいないのか?」
待合室のソファに落ち着いた俺は、熱いお茶をふうふう言いながら飲んでいるユウコの様子を窺いつつ、忙しそうに立ち働くテイシンへ訊ねた。
センセイと呼ばれるこの針灸院の主は、三十歳半ばの若さで老人の落ち着きを手に入れた能天気さが、周囲の人から好かれている。突然の誘拐劇で気が動転しているに違いないユウコの話し相手なら、もってこいの人選だ。
「昨日から出張中ですよ。北海道の資産家さんの息子さん、ちょっと目が悪いそーなんです」
そんなことよりも、とテイシンは近づいてきて、無遠慮にも俺のフランス製サングラスをひょいと取り上げた。
「こら」
「肉弾戦、それも超接近戦でグラサンはずさないポリシーには頭が下がりますけどねー。いつか死んじゃいますよ?」
よけいなお世話だ。
「あのー」
ふと、俺の隣でユウコが呑気な声をあげた。
「テイシン、さん? おじさんの恋人?」
思わずテイシンと顔を見合わせた。
「あのな、ユウコさん。よりにもよって、この」
「あたしの旦那はセンセイだけですよ。やだなー、ユウコちゃん」
「そうですよね、テイシンさんみたいなかっこいい人が、おじさんと恋人だなんて」
おい、ちょっと待て。言葉の内容もアレだが、それより、なにか? 俺がユウコちゃんと呼ぶのは駄目で、テイシンはいいのか? 俺と彼女はたいして歳も変わらないぞ。たぶん。
「よかったー、そうですよね、おねえさんみたいなかっこいい人が」
とユウコは繰り返す。
おい、俺はおじさんで、テイシンはおねえさん、か? しかも、お前がよかったと安心する内容の真実なのか?
「思ったより落ち着いてるんですね、ユウコちゃん」
「だって、ずっと狙われてたんだもん。あんなこと、馴れちゃった」
だもん? ちゃった?
なんだか混乱する。
こいつは本当にユウコさんなのか?
「でも、ワンピが汚れちゃったね。着替えはあるの? よかったら、あたしの服を貸してあげるけど」
「着替えならある」
ユウコとテイシンの会話に、俺は強引に割って入った。
「あのバッグだ」
えー、やだー、テイシンさんのお古がほしー、と嘘みたいな駄々をこねるユウコにボストンバッグを持たせ、着替えて来い、と言いつけて治療室へ追いやった。
テイシンが笑っている。
「そんなトモヤ初めて見ました」
「どんな俺だ?」
「女に手を焼くあなたですよー」
まだ笑っていやがる。
「あいつの前では、トモヤと呼ぶな」
「わかってますよ。本名は誰にも内緒、なんですね」
にこにこにこにこ笑っている。性か名かあざなか、本名か偽名かもわからないテイシンという奇妙な名前の美女を、軽く一睨みした。
「下の美容院はやってるのか、今日」
「年中無休です。トモ・・・・・・えーと」
わざとらしく間違えたテイシンに 「・・・・・・今はナガレだ」 と伝えて、奪い返したサングラスをかけた。
「ナガレさんも、ようやくヘアスタイルの変革を意識しだしたんですか?」
「ユウコの髪を切る。変装にもならないが、なにもしないよりはマシだ」
池袋に来たのは半分その目的もある。美容師とはいえ、どこの馬の骨ともわからない者にユウコのそばで刃物を持たせたくはない。その点、ここの美容院なら安心だ。
「やめた方がいいですねー」
「なぜ」
「女の子の髪は命より大事なものなんです。そう簡単に切ったりできません。それに」
俺の反論を制して、テイシンは事務机からノートパソコンを持ってきた。
「怪情報が流れてるんですからね、そんな小細工は無駄ですよー」
彼女が軽く操作すると、画面はいくつか飛んでいき、「紅の涙逃亡日記」 と題するサイトにぶち当たった。
画面の上半分を占める俺とユウコの写真。二人並んでいるところを、背後から撮影されたらしい。いつの間に? あとは延々と文字が並ぶ。ところどころ「コメント」 とか書かれている。
「なになに、なに見てんの?」
背後からユウコの声。彼女のことは気配で察していたから驚きはしないが、画面に映る文字にはびっくりして目が吸い付いた。
「あらあ、かわいいじゃない、ユウコちゃん。マッキーくんだって」
「ギャグです。ギャグ・・・・・・ギャグって、みんな思ってくれますよね? 恥ずかしくないですよね?」
「全然オッケーだよー」
お前ら、やかましい。
書き込まれている内容だけでも頭が痛いってのに。
殺し屋ナガレとカツラユウコの行動予測。出現時間予測。逃走経路予想。
可能性としていくつもの予測が書き込まれているのだが、その中に、池袋の調達屋と接触、とか、池袋の美容院でカツラユウコ変装、というものもあった。
「凄いですよね」 と、画面に見入る俺の横顔へテイシンが言った。「ここまでナガレさんの行動を予測できるなんて、よっぽどのファンかストーカーですよ、きっと。モテるんですね」
ふざけるな、と言おうとして、彼女の顔がくそ真面目であることに気圧された。
女の真剣な表情は苦手だ。
「あたしもこれを見て、まさかと近所を見回りしてたんですよ。あいつら、このブログを信じてやって来たんでしょうか?」
いや、こんなウェブログ上の怪情報、やつらも信じてはいなかったはずだ。そもそも、俺がユウコの依頼相手であることも、果たして知っていたかどうか。池袋に人を送ったのも、念のため。
もしやつらが確信を持っていたとすれば、さっきの襲撃はあまりにお粗末すぎる。
「紅の涙を相手に、三人なんてありえませんもんね」
まるで俺の思考を読み取ったように、ユウコはつぶやく。
「でも、これからは、さっきのようにはいきませんね。ナガレさんがユウコちゃんと一緒だっていうことも、この書き込みが信用できることも、相手は知ったはずだから」
そうだ。それだ。問題はこれからなんだ。どこの誰だか知らないが、よけいな真似をしてくれる。ユウコだけでなく、俺までがやつらのターゲットになってしまった。
「ナガレさん、このブログ立ち上げた人、心当たり、ないんですか?」
あるわけがない。
任務に関しては組織内でも一部の人間しか知らされない極秘情報だし、今の俺は、殺し屋と依頼人は行動を共にしないという裏世界の常識を破っている。予測云々以前の話だ。それらを知りうる者がいたとしても、俺自身の性格をまで知悉していなければ、ここまで正確な予想は不可能だ。そんな人間、この世にいるわけがない。
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・いや、いた。
「あの腐れ外道ッ」
昨夜の電話で聞いた言葉が甦る。
――今から学べ、馬鹿弟子。
あんたは面白おかしけりゃそれでいいのかもしれないが、こっちはユウコっていうお荷物抱えてるんだぞ! 昔みたいに、訓練と称してナイフ一本だけを持たされ、樹海のど真ん中に置き去りにされたりとは、わけが違うんだ!
「わりと壮絶な過去があるんですねー・・・・・・」
俺の独り言が漏れたのか、テイシンは同情の眼差しで首を振っていた。
ああ、あの時樹海に響いた師匠の馬鹿笑いが、耳にこびりついて離れない。きっと今もどこかで、あの馬鹿は笑っているのだろう。