不思議な兄と非常識な妹
二台の車がすぐわきの大通りを走り去っていった。
スーパーカブは自転車よりゆっくりと道路のど真ん中を進む。
閑散としているとはいえ、交通量も人の流れもゼロではない。それらの中のなにものかに、俺の勘が異常を感じ取った。
「おじさん・・・・・・?」
俺の顔つきが変わっていたのだろう。ユウコが不安そうに訊ねてきた。それに答えず、危険の根元を探す。
いた。
向こうから歩いてくる二人連れ。まだ若い。二十歳前後の青年と、十歳ほどの女の子。兄妹か? 手をつないで歩くさまは、普段ならけして危険など感じない、ほのぼのとした光景だ。
だが。
俺の勘が囁いている。
お前と同じ臭いがするぞ、と。汚れた、裏の世界に巣食う闇の臭い。チンピラヤクザごときでは醸し出せない、負のオーラ。
敵か? 敵意のようなものは感じない。闇の者同士が偶然顔を合わせただけなのか?
ユウコからバッグを受け取り、彼女の手も握った。
「なに?」
「行くぞ」
相手も子供連れだ、もし敵であっても、いきなり銃をぶっ放す真似はしないはず。
踵を返そうとした時、やけに澄んだ声が聞こえてきた。
「カツラ、ユウコさんと、ナガレさん、ですね」
ヒップ・ホルスターに収めている拳銃、グロック19の柔らかな複合素材を、無意識のうちに背中越しで確認していた。
敵だ。しかも、俺の組織内でのコードネームまで知っている敵。
いや、そもそも、なぜここにいるとわかった?
脱出経路が頭の中に思い浮かぶ。この周辺の地理ならよく知っているし、第一、俺は逃げ道のない場所へ出かける愚はおかさない。それが殺し屋に必須な警戒心だ。
走り出そうとして、右手が後ろに引っ張られた。
「きゃッ」
ユウコがたたらを踏んでいる。
しまった。俺一人ではないのだった。
内心で舌打ちしながら、男を舌先三寸で誤魔化せるだろうか、と振り向いた。
目の前に、十歳の女の子の小さな体があった。大人の体とはバランスの異なる大きな顔で、見開いた目が殺意に輝いていた。
馬鹿なッ!
跳び廻し蹴りをバッグで受け止めると、体が後ろにズレた。倒れずにすんだのはバッグのおかげだ。それでも、衝撃で呼吸が止まる。
身長2メートルクラスの格闘家崩れとやり合ったこともあるが、そいつと威力の変わらない蹴りだった。体重四十キロ程度の小学生にできる芸当ではない。
馬鹿な、なんだ、これは?
女の子は着地と同時に見事な左フックを放っていた。細く短い腕が、空気を巻き込むようにして、正確に俺の肝臓を狙ってくる。
後ろに跳んでよけた。蹴りの威力から想像して、その見事なリバーブローは、まともに食らえばどんな巨漢も悶絶間違いないはずだ。
小さく息を吐いてバッグを道路へ捨てると、呼吸を整えて身構えた。
舐めてかかれる相手ではない。見た目に惑わされたら、痛い目を見る程度じゃすまない。
ヒップホルスターの拳銃を抜きたい衝動にかられたが、そんな隙は、少女のぴたりと決まった構えからして、あたえてくれそうもない。
少女の構えは、後ろ足に体重をかけた空手の型に似ていた。やや拳の位置が低い。さっきのフックは、空手というよりボクシングスタイルに近かったから、総合格闘術と呼ぶべきだろうか。
「・・・・・・ふるべ、ひふみよ・・・・・・」
ふと、聞きなれない音が耳に届いた。奇妙なリズム、どの国の言葉とも違う一種呪術的でさえある韻。
妹の向こうで戦いを傍観している兄が、つぶやくようにつむいでいる言葉だ。
記憶の片隅で、なにかが光った。
――噂で聞いたことがある・・・・・・
「ひや」
兄の声が終わると同時に、妹が大きく後ろへ跳んだ。
逃げたのか? という拍子抜けするような思いは一瞬で消えた。
後方で爆発音。
反射的に振り向いたそこには、爆発炎上したバイクが乗り手を失い暴走しているところだった。
その炎の塊が、俺へ向かって突っ込んでくる。
全身をバネにしての跳躍が一拍遅れていたら、まともに事故車と衝突していたはずだ。バイクは跳びすさった俺のわきを通り過ぎ、雑居ビルの空店舗に閉まったシャッターへ激突して止まった。
頭の中に、直前に男が言った言葉が浮かぶ。
ひや。火、矢?
偶然というタイミングではない。男はなんらかの方法でバイクを炎上させたのだ。
噂には聞いていたが、こいつは、噂以上にでたらめだ。べらぼうだ。
再び跳びかかってきた少女の蹴りをかろうじて受け流し、こいつは逃げるが勝ちだ、と走り出そうとして、ふと思考が止まった。
なにか忘れていないか?
・・・・・・
ユウコ!
「おじさん!」
ユウコの叫び声に反応して路地へ目を向けた。
どう見てもチンピラにしか見えない男が、彼女を無理矢理引っ張って走り去る後姿が見えた。
自らの迂闊さに舌打ちしたのも束の間、追いかける余裕も許さない少女の怒涛の攻撃に、俺は防戦一方だった。
くそッ!
気ばかりが焦って、少女の打突一つ受け流せない。
銃を抜きたい、だが隙がない。ヒップホルスターまでの距離をこれほど遠く感じたことはなかった。思わず内心に叱責する。
俺はなにをやっている!
その時。
「がはあッッ!」
間抜けな悲鳴に俺と少女が一瞬目を向けた路地の向こうでは、ちょうどチンピラが吹き飛ぶところだった。
・・・・・本当に飛んでいった。壁に激突してぴくりとも動かない。
「なんか街が騒がしいと思ったら、あなたたちですね」
チンピラを布切れのように吹き飛ばした怪力的跳び蹴りの主は、二十歳前後の妙齢な美貌に笑みを浮かべて俺と少女を睨みつけた。
「他の街ならいざ知らず、ブクロでやんちゃ起こそうなんて、いい度胸してますねー」
俺は心の底から美人へ感謝の言葉を捧げた。
「助かった、テイシン。その子を頼む」
「テイシンだと!?」
男の声が驚愕に彩られていた。
そりゃあそうだ。裏の世界でテイシンの名を知らない者はモグリと呼ばれる。正確には、テイシンの親代わりの男を。
「ブレインハッカーの助手か!? カナ、下がるぞ!」
兄の指示に従い、少女が小さな体を反転させる。
逃がすか、と追おうとした俺を、テイシンが呼び止めた。
「そんな相手より、この子はどうすんですか」
畜生。これだから子守りは面倒なんだ。テイシンの登場で敵が泡食った今がチャンスだったのに。
走り去る兄と妹の背中へ銃弾をぶち込んでやろうかと思ったが、かろうじて殺人の欲求を抑えた。