豪雨の夢で見た殺人
山奥の県道。
昼間でさえ車の通りのない道路で、軽自動車の運転席に身を沈めて待つ。
デジタル時計が深夜二時を目指して刻々と数字を変えていく。教えられた情報通りなら、そろそろターゲットが来るはずだ。
助手席で、師匠が煙草をくゆらせていた。人には酒も煙草も禁じておいて、この人は大酒かっくらうヘビースモーカーだ。
「緊張してるか?」
「いえ」
「ふん、かわいげのねぇ」
緊張していないわけがない。これが初仕事、そしてなにより、人生初の殺人だ。
恐怖はない。悔恨もない。今まで、人の殺し方を散々教わって、禁忌など心から消されていた。ようやく自分の技術を試せるのだ、という高揚感があるほど。もっとも、今回は技術など不要な簡単な仕事。
「まあ、テストみたいなもんだ」
と師匠は言っていた。
「これで、組織でも一人前として認められる。その後は、馬車馬のようにこき使われるわけだが」
フロントガラスを叩く雨粒を見つめながら、仕事内容を思い出した。
依頼人、高見清介。ターゲット、高見の弱みを握った名倉敏明というフリージャーナリスト。三十九歳。アジア人、黒髪、黒瞳、身長、体重、家族構成・・・・・・
雨は激しい。仕事をするには好都合だ。雨のヴェールが殺人者の足音を隠し、雨の音が心をはやし立ててくれる。
来た。
「しっかりやれ」
師匠の励ましを背中に、運転席を出る。
来た。白のセダン。家族で帰省していたターゲットが、仕事の都合で一人先に帰宅する、その途中。
腰の拳銃を確認してから、大きく手を振る。
止まってもらうために、車の前へ体をさらした。
ターゲットは、無防備に車の窓を開けた。
「どうしました?」
雨の音で消されないように、大きく声を張り上げている。
にこやかな笑顔で近づいて、ちょっと車が故障してしまって、という言い訳を並べようとした。その瞬間、愕然となった。
助手席で、小学生ぐらいの女の子が眠っていた。
情報と違う。ターゲットは一人だと聞いたのに。どうする? これは修正可能なイレギュラーだろうか?
冷静になれ。まだ殺し屋だとはバレていない。ここでストップしても、支障はないはずだ。なら、今回はあきらめて、次の機会を待つか・・・・・・
ターゲットの顔を見た瞬間、それらの思考は吹き飛んだ。
窓の向こうにあった驚愕の表情。
バレた、と判断した。
右手に握った拳銃を窓へねじ込み、一定のリズムで引き金を引く。
三回。
銃声に驚いた女の子が飛び起きて、理解できない事態を前に呆然としている。
――目撃者は消す。
銃口を女の子へ向けた時、不意に、思いもかけない強い力で、手首を掴まれた。
どこかで電話の音が鳴っている。
電話の音で、目が覚めた。
あの夢を見るのは久しぶりだ。
人を殺すことに罪悪感など感じていない、と心は主張するが、無意識の領域には澱のようなものが堆積しているのかもしれない。それが一定量まで達すると、あの夢を見て、血で汚れるという意味を思い知らされる。そんなシステムが構築されているような気がする。
自分の車へ戻った弟子を、師匠がどんな顔で迎えたのか、記憶が曖昧でよく覚えていない。ただ、「テストってこういうことか」 と詰め寄ると、ひどく柔らかな笑顔で、手を伸ばしてきた。
「血がついてるぜ」
左の目尻を撫でられて、苛立ちが増した。
「これはアザだ」
「いや、血さ」
指を見せられると、赤く染まっていた。
あの赤色は、ひどく鮮明に覚えている。
電話の音がまだ鳴っている。誰からの電話か、おおよそ見当はついていた。もっと焦らしてろう、と時計を見て、三時二十五分を確認した。
二十六分になってから、受話器を取る。
「もしもし、こちら喫煙者撲滅キャンペーン事務所です」
『おう、失礼、間違えた』
「冗談ですよ」
『ユーモアのセンスねぇなあ、相変わらず』
気の向いた時だけ連絡を寄越す気まぐれ者が、受話器の向こうでけたけた笑っていた。
「じゃ、アル中抹殺計画推進事務所」
『事務所から離れろよ。それで、ユウコちゃんはお前んとこにいるのか?』
「やっぱり」 むらっと怒りがわいた。「親切な人ってのはあんただったか」
そして弟子とユウコの再会を計画したのもあなただ。やってくれる。
「あの時殺せなかった子を、今になって始末しろとでも言うつもりか?」
『馬鹿たれ。それなら、五年前にやってるよ』
それはそうだ。
あの時、少女を撃つことができなかった。
師匠はどういうつもりか生存者の存在を組織に隠し、テスト結果を偽ってくれた。その気なら、あの時、師匠が少女を抹殺していただろう。
「どういうつもりだ」
『どうもこうもねぇ。たまたま、高見がいたいけな少女を狙ってる、って小耳に挟んだのさ。それがなんと、あの時の子だった』
「あの時の依頼人も、高見清介だったな。やつはどういうつもりだ?たかがガキ一人、たとえ目撃者であっても恐れる理由はない。それを」
『ま、それも含めて、彼女を頼むわ』
「含めてってのはどういう意味だ?」
『殺しの依頼と、彼女の護衛』
ふざけるな。
「俺はボディガードじゃない!」
『大声出したら、ユウコちんが起きるぞ』
「あんたから教わったのは人を殺す方法だ。人を護ることなんかじゃない」
『なら今から学べ、馬鹿弟子。じゃあな』
「あ、待て、この野郎・・・・・・!」
言いたい事だけ言って勝手に切る。いつもの師匠のやり方だ。組織の情報網ですら消息の掴めない通称忍者マン、彼とこちらから連絡を取る方法はない。言いたいことは次に電話が鳴る時まで伝えられないのだ。
くそ馬鹿野郎め。
心中で毒づきながらキッチンへおもむき、ミネラルウォーターを飲んでから、師匠の魂胆に想像を巡らせる。
まさか、事情をすべて知っているのか? 生涯心に秘め通そうと思っていた事情を?
冷蔵庫からレタスを一枚取り、床の皿からアルジャーノンの餌をつまんで、即席のツナサラダ巻きを頬張った。
ふと、視線を感じた。
ダイニングへ目を向けて、硬直した。
アルジャーノンが殺意むき出しの目で見つめてくる。
しまった。
彼女は、いつも餌を少しだけ残すくせに、つまみ食いされると機嫌が悪くなる。いつもなら見られていないか確かめてからいただくのに、師匠の馬鹿笑いで苛立っていて注意を怠ってしまった。
ぷい、とアルジャーノンは身を翻した。
彼女と元の信頼関係を築き直すのに、おそらく一週間はかかるだろう。
以前に書いた「ブレインハッカー」同様、主人公の「俺、僕、私」を封じていたのですが、限界です。
今回、「俺」を使ってしまいました。
己れの未熟を感じます。
今後は主人公は「俺」でまい進します。
頑張ります。