アルジャーノンに乾杯
ダイニングのテーブルを挟んで向かい合って座ると、まず、ユウコが不機嫌そうに言った。
「部屋の中でサングラスなんかしないでよ。相手に失礼よ」
「後ではずすさ」
「格好いいとでも思ってるの? けど、実際、ドン引きよ」
「イタリア製だぞ、高かったんだぞ」
「デザインじゃないわよ。ついでに言えば、あたしイタリア嫌い」
サングラスを指で押し上げて、思わず苦笑した。自分勝手で気まぐれな唯我独尊に付き合うのは、慣れている。
そんなことより、と話題を変えた。
「依頼を確認しよう。ターゲットは高見清介。期限は?彼ほどの大物なら、始末するのに少しばかり時間が必要だ」
もう一つ言えば、彼ほどの大物なら、依頼料も爆発的に跳ね上がる。十四の子供に払える額ではないはずだ。ただ、親切な人とやらが、もしあの人なら、その辺りはクリアしているだろう。
「殺してほしいのは、もう一人いる」
合計二人? 妙だな。ファイルには、ターゲットは一人と書かれていたが。
「パパを直接手にかけた殺し屋」
五年前すでに大物入りしていた高見清介が、自ら手を汚すわけはない。当然部下にやらせたか、誰かを雇ったか。
「しかしな」
思わずため息をついた。
「これは、関係ないことだが・・・・・・殺し屋は、理由など聞かずに、殺せと言われた人を殺すのが仕事だ。だが・・・・・・本当にきみのパパを殺させたのは、高見清介なのかな?」
ずっと感じていた疑問だ。いや、間違いであってくれ、と思っていた、と言った方が正しいかもしれない。
イヤな予感がするのだ。
「親切な人が教えてくれたもの」
またそれか。
「なら、どうして、殺し屋だとわかるんだ?高見の部下かもしれない」
「それも、親切な人が教えてくれたの」
他人の言うことをなんでもかんでも鵜呑みにする純粋さは、今どき尊い資質だが、同時に危険極まりない間抜けな阿呆っぷりでもある。
「『親切な人』のことを信じてるのか?」
「あたし、一週間前まで施設にいたの。身寄りがなかったから。そこにヤクザがあらわれた時、凄く怖かった。あの人が来てくれなければ、あたし、どうなってたか」
「人助けは善意からだけで行われるものじゃない。悪意をもって、にこやかに笑う人もたくさんいる」
「にこやか、っていうより、あの人の場合、豪快な馬鹿笑いね」
やっぱりあの人だ、と、直感が囁く。
なに考えてるんだ、あの野郎。
「きみのパパの名前を聞いていなかったな」
え、とユウコは顔をあげた。
「依頼とは関係ないじゃない」
「いや、大アリさ」
本当は、あんまり関係ない。
「名倉敏明」
頭の中にパズルがあって、空白の場所へ、五年ぶりに聞く名前がきれいにおさまった。
はめられた。
あいつにしてやられた。どうしろ、っていうんだ、くそ。
脳裏に雨の音が甦る。
「と、いうことは、きみの名前は偽名か」
「そう。本名名乗るのは、逃亡生活では損だ、って言われて」
知り合いにも、似たようなことを口にする男がいる。本名を名乗るのは危険で損だ、と。少なくともこの街においては間違いではないが、子供に押し付ける考え方ではないと思う。
教育によくないな、と考えながら、殺し屋としては古い格言を持ち出した。
「殺し屋は殺し屋を殺さない」
「なに、それ」
「そういうルールがある。ほとんどの者は守らないが、そいつらと違って、例外的にモラルを遵守する優良業者なんだ。殺し屋殺害の依頼は断る」
不機嫌そうな彼女の顔がさらにむくれた。そういう表情をすると子供っぽく見えるのだと、この子は気付いているのかな?
「じゃ、他の業者を探すわ」
「どうやって?」
「親切な人が教えてくれたの。日本殺し屋協会の連絡先」
吹き出しそうになった。
あの人らしい諧謔だ。子供が簡単に接触できるような、そのまんまの名前の組織なんて、あるわけがない。警察に「潰してください」 とお願いするマゾヒストじゃないんだ。
「テレフォンレディがやさしく対応してくれたもの。別の人お願いします、って言うわ」
もちろん、殺し屋組織のたぐいにはテレフォンレディもいない。
「なら、お好きにどうぞ」
電話の子機を渡すと、ユウコはジーパンのポケットから紙切れを取り出し、ボタンをおした。
「・・・・・・あれ?間違えたかな・・・・・・あれぇ?」
「そいつは特別回線でね、一度しかつながらないようにできている。残念だったな」
もっともらしい嘘を並べて、ふてくされる彼女を納得させた。テレフォンレディなんて芝居は、あの人一流の遊びだろう。
「だいたい、パパを殺した殺し屋なんて、どうやって調べるんだ?」
「あたし、見たもの。パパが殺されるところも、犯人の顔も」
内心で舌打ちした。
「覚えてるのか?」
「当然よ! 真っ赤な目で髪質最悪な感じで、鼻おっぴろけでうすーい唇でにたあッて笑ったの」
どこの誰だ、それは? まるで変質者だ。
暗殺というのは、綿密な計画を立て、トラブルを冷静に処理しつつおこなう、爆弾の解体にも似た静かな作業だ。一つのミスが全体を狂わせ、失敗は即、死につながる。
変態チックにニタアッと笑う余裕などあるものか。
・・・・・・まあ、個人営業の殺し屋の中には、変態チックな趣味が入っている者もいるから、一概には言えないかもしれないが。
「目の前で、パパが撃たれたの。暗くて怪我がどこにあるのかわからなくて、血がどんどん出て、あたしなんて九歳よ、どうすることもできないわ」
しまった。禁断の記憶の扉を叩いてしまったらしい。彼女の瞳に涙が浮かぶ。
子供が泣く現場など、ほとんど遭遇したことがない。どうすればいいのかわからん。これが成人女性なら簡単なんだが。
こんな時、アルジャーノンがいてくれれば。
成人女性が部屋へ入ると、鋭い爪で飛びかかって最低一撃、調子のいい時で一跳び三発のパンチを繰り出す彼女も、子供が泣けば慰めるぐらいのやさしさはあるはずだ。
ほとんどうろたえて視線を泳がせると、にゃお、と寝室から声が聞こえた。
そこにいたか!
寝室に飛び込んで、ベッドの上に鎮座するアメリカンショートヘアと目が合った。
その目が言っている。
これで、花瓶の件はチャラだ、と。
「オーケーだ。あれはナシだ」
取引成立だ。
ところが、足元を通過する際、彼女は顔をあげ、また鳴いた。
もう一回鳴いた。
もう一回・・・・・・
「わかった。明日の餌はシルバー缶じゃなくてゴールド缶にしてやる」
獣の分際で人間様の足元見やがって。
目頭を押さえて涙をこらえる少女の膝へ、アルジャーノンは飛び乗った。
くそう、普段は触らせてもくれないくせに。
「え、なに?」
「そいつがアルジャーノンさ」
なるべく大人の余裕をにじませながら――にじんでいたはずだ――ゆっくり椅子に腰かける。
「かまってほしいみたいだな。頭を撫でてやると喜ぶ」
ユウコが言われた通りアルジャーノンの頭を撫でてやろうとすると、いやん、という感じで獣は頭を振り、ここを撫でろと喉を突き出してアピールした。
こいつめ。
「・・・・・・オス? メス?」
しばらくアルジャーノンの喉を撫でていたユウコが、落ち着きを取り戻した声で訊ねてきた。
「メスだ。去勢したせいかな、気分屋なんだ」
「猫はみんな気分屋よ。施設の近所のノラもそうだった」
なごやかな声の雰囲気に、思わず拳を握った。
思った通り、動物は子供のウィークポイントだった。
ユウコは顔をあげた。
「殺し屋のことだけど」
まだ蒸し返すか、お前は?
「目撃者を残すなんていうのは、暗殺者としては三流だ。五年前の事件だろう? そんな三下、もうとっくにくたばっているさ」
「今でものうのうと生きてたら?」
許せぬ、という彼女の形相へ、やさしく笑いかけてやった。
「生きていたとしても、まともな状態ではないだろうな。この業界は、過酷なんだよ」
まだなにか言いたそうにしているユウコの姿に、しかたない、とサングラスへ手を伸ばした。
「きみの前でサングラスをはずさないことには、理由があってね」
「はぐらかさないで」
「まあ、いいじゃないか」
笑って、イタリア製高額黒眼鏡をはずした。
彼女の視線が、一点に集中したのがわかる。
「・・・・・・ほくろ?」
「アザだ」
左の目尻にある、小さな茶色いアザ。
特徴がないということが美徳となる殺し屋業界では、最大の欠点となりうる、顔の特徴。泣き黒子ならぬ、泣きどころにアザだ。
「隠さなくてもいいのに」
「美しいものではないからね。けっこう、コンプレックスなんだ」
「そんなことないわ。なんていうか」 彼女は視線を漂わせた。「・・・・・・キュートよ」
一生懸命考えてくれたお世辞でも、今は嬉しい。
特に、パパを殺した犯人の顔を覚えていないということに、安堵した。
さっきユウコが口にした犯人像は、彼女の中で、五年の時をかけて醸成された間違った記憶に違いない。
殺人者自ら言うのだからたしかだ。