平穏な街に轟く破壊
足立区から埼玉へ入った。
目的地の住所はおおよそ聞いているが、とんでもない遠回りをしたものだ。
荒川を越えた辺りからは、街の様子も一変する。潰れている店が減り、代わりに小奇麗な格好をした若者や家族連れが目立つようになる。ファミレスにたむろする不法入国者やチンピラも姿を減らし、無修正ポルノなんて扱っていないであろう健全なビデオショップがあちこちにネオンを輝かせている。
東京を逃げ出した者たちの住む街。
十数年前の東京も、こんな街だったのだろうか。
埼玉に入ってからは大きな通りに乗った。車の交通量が増えたが、そろそろ深夜に近い時間のためか渋滞するほどでもなく、スムーズに進んでいく。
「これから行くところは、近くにまとまった水田の広がってる場所でね」
危険を振り切った清々しさを顔ににじませ、エドが軽口を叩いていた。
「広いと言っても、街中だからたかが知れてるけど。昔、バブルっていう、馬鹿みたいに景気のいい時期があって、その時、田んぼを潰して新興の住宅地にしよう、って計画があったらしい。けっきょく計画はポシャッたけどね。そういうところさ」
エドの言わんとしていることはわかる。
そんな利権の薄い場所は危険な輩も素通りする。テロの標的にはならず、寂しいからみんな一緒に死んでくれ、なんて言う自爆学生もいない。犯罪とは無縁で、安全な、牧歌的な土地。
・・・・・・最も俺の似合わない場所。
さいたま市を抜けて、もう一度荒川を渡る。
荒川はでかい。川幅だけでなく、河川敷が広く取られていて、ゴルフコースが設置されているぐらい広い。
長い橋の上から、河川敷のグランドや、遠くを走る貨物列車を眺めながら、俺の体はすっかり弛緩しきっていた。
安心感と呼べばいいのか。
「この通りをまっすぐいけば、そこそこ大きなショッピングセンターがあるから、服でもなんでもそこで揃えるといい。ユウコちゃん向けの店もあるから」
「ちゃんなんてつけないで」
といういつものセリフにも、緊張感がない。嬉しそうに、助手席のシートを掴んでくる。
「ここなら、かわいい服きてもいいでしょ、おじさん。文句ないよね?」
ああ、好きにしろ。そう言おうとした。言おうとして、喉が詰まった。
等間隔で並ぶ街灯、真っ直ぐ伸びる白線、その向こう、橋の終点に、男が立っている。
黒いジャケットが風になびき、同じく黒いジーパンが地を貫いているように、道路の真ん中に立って動かない。
東京以外でなら確実に周囲から浮いてしまう黒一色の男は、両手を胸の前で結んだ。
「やつだ」
「なに?」
「兄の方だ!」
見ると、反対車線には止まっている車。
「ひき殺してやる」
と本気かどうか息巻くエドを「やめろ」 と制し、身を乗り出して男を見つめた。
男の口が動く。読唇術は得意じゃないが、なんとか読み取れた。
「ブレーキぃッ!」
俺の言葉に反応したように、エドの体が前のめりになる。俺も、壊れたダッシュボードに両手をついた。後ろでユウコの悲鳴。
だが、悲鳴も抗議の声も、次の瞬間かき消えた。
やつは、こう言ったのだ。
――はしよおちろ。
轟音とともに、眼前の道路がひび割れ、傾き、崩落した。
激しい土煙が男の姿を消し、橋の惨状をも視界から奪っていた。
ただ、車のすぐ前にある橋の境界線が、非現実的な現実を突きつけてくる。
橋はそこで途切れてた。ねじ曲がった鉄骨がまさに骨のようにコンクリート断面から突き出し、今もまだガラガラと破片が落ちていく。
火薬の爆発ではない。音もしなかったし、爆破特有の振動もなかった。
ありえるのか? 一人の人間が、爆薬も使わずに橋を落としてしまう。もはや、映画の中の魔法にひとしい。
ありえない。
馬鹿げてる。
そんな思考の停滞を見抜かれたのかどうか。
硬質ガラスの割れる音に我に返って後ろを見やると、トランクに乗って後部座席へ手を伸ばす小さな体がそこにあった。
妹の方だ。
舌打ちしつつグロックを抜いた時には、ユウコの体は半分以上が車外へ引きずり出されていた。
「くそがッ」
エドの無事の確認をする余裕もなく、ドアを蹴飛ばして妹を追う。
中央分離帯のガードレールを飛び越える寸前で、俺は妹へ追いついた。
「止まれェ!」
両手でホールドしたグロッグを妹へ向ける。この距離なら、拳銃のような命中精度に信用のおけない銃でも、空き缶のロゴマークに命中させる自信がある。
妹は暴れるユウコの後ろへ巧みに隠れていた。体が小さいというのは、こういう時、卑怯とも言えるな効果があった。
「来ないで。殺すわ」
見た目通りに幼い声が、全然幼くないことを言う。ユウコの首にかけた手に力が入り、俺はやむなく立ちすくまざるをえなかった。
「今回は、邪魔は入らないぞ」
男の声に驚いて視線を送ると、車のわきに兄が立っていた。
橋は一部にせよ破壊されたはず。空まで飛べるとでも言うのか?
その謎は、すぐにとけた。
風に流されて消えた煙の向こう、十数メートルにわたって崩壊している橋、その上で、ガードレールだけが、奇妙にねじくれてバランスを保ち、つながっていたのだ。
ありえない・・・・・・
どうしようもない虚脱感に襲われたが、なんとか気力を振り絞る。
「助っ人はこの様だ」
兄が、運転席のドアを開く。
エドの胸を、コンクリートの破片が潰していた。血が流れていく。
「カツラユウコを渡してくれれば、お前の命までは取らないが、どうする?」
怒りのあまり歯軋りしていた。