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幼なじみの魔導師様にもらったお守りが、全部「居場所探知」の魔道具でした

掲載日:2026/10/28

プロローグ 五歳の誕生日


 五歳の誕生日の朝、ミレイユ・アーデンは窓辺で頬をふくらませていた。

 ほんのひと月前、森で迷子になったせいだ。蝶を追いかけて屋敷の裏の森に入り、気づけば帰り道がわからなくなっていた。暗くなって、寒くなって、木のうろの中で泣きながら眠った。見つけてくれたのは、隣の伯爵家に住む十歳のルシアンだった。夜明け前、泥だらけの彼が、木のうろを覗きこんで名前を呼んだのを覚えている。

 それ以来、母はミレイユを庭から一歩も出してくれない。誕生日なのに、お出かけもなしだ。


「ミレイユ」


 低い声に振り向くと、生け垣の隙間からルシアンが入ってくるところだった。黒い髪に、夜の湖みたいな青い目。いつも難しい顔で本ばかり読んでいて、近所の子どもたちからは「仏頂面のお坊ちゃん」と呼ばれている。


「ルシアン! 来てくれたの?」


「誕生日だろう」


 彼はそれだけ言って、小さな包みを差し出した。中に入っていたのは、空色のリボンだった。端に、銀の糸で細かな模様が刺繍してある。


「きれい……。これ、なあに?」


「お守りだ」


「おまもり?」


「持っていろ。ずっとだ」


 ルシアンはしゃがみこみ、不器用な手つきでミレイユの髪にリボンを結んだ。指先がかすかに震えていたことに、そのときのミレイユは気づかなかった。リボンが一瞬だけ、ふわりと青く光ったことにも。


「似合う?」


「……ああ」


 短い返事なのに、ルシアンの耳は真っ赤だった。ミレイユはくすくす笑って、彼の手を取った。


「ありがとう、ルシアン。ずうっと大事にするね」


 その言葉を聞いて、彼がほっとしたように息を吐いたことも、やっぱりミレイユは気づかなかった。

 こうして、毎年の誕生日にお守りが一つずつ増えていくことになる。

 まさかそのすべてが、とんでもない代物だったなんて。このときのミレイユは、知るよしもなかった。




本編




 それから十四年。

 十九歳になったミレイユは、王立図書館の司書として働いていた。


「ミレイユ、また増えてない? それ」


 閲覧室の返却本を棚に戻していると、同僚のナタリーが呆れ顔で耳元を指さした。


「これ? 先月の誕生日にもらった髪留めよ」


「髪留めじゃなくて、全部よ全部。リボンに、ブローチに、耳飾りに、腕輪に、指輪に、足首の鈴まで。あなた、歩く宝石箱みたいになってるわよ」


「失礼ね。全部、お守りなの」


 ミレイユは胸を張った。空色のリボンは、今は髪ではなく手首に結んでいる。七歳のときの銀のブローチ、十歳のときの雫型の耳飾り、十五歳のときの細い腕輪。数えればちょうど十五個。毎年欠かさず、誕生日の朝に届けられたものだ。


「ルシアン様からでしょ。毎年律儀よねえ。あの『氷の副団長』が」


 ナタリーの言葉に、ミレイユは苦笑した。

 ルシアン・ヴェルナー。二十四歳にして宮廷魔導師団の副団長を務める天才魔導師。部下にも貴族にも笑顔ひとつ見せないことから、王宮ではそんな二つ名で呼ばれているらしい。

 でも、ミレイユにとってはずっと、隣の家の無愛想なお兄さんだ。


「律儀なのは、私が手のかかる妹みたいなものだからよ。昔、森で迷子になったことがあるから、まだ心配してるの」


「妹、ねえ……」


 ナタリーは何か言いたげに目を細めたが、そのとき閲覧室の扉が開いた。

 入ってきたのは、黒い外套を羽織った長身の青年だった。とたんに、室内の空気がぴんと張りつめる。机で居眠りしていた学生が飛び起き、奥の書架にいた文官たちがそそくさと背を向けた。

 噂をすれば、である。


「ルシアン。どうしたの、こんな時間に」


「近くを通った」


 彼は表情ひとつ変えずにそう言い、紙袋をミレイユの手に押しつけた。中から、焼きたての木の実のパイの香りがする。ミレイユの好物だ。


「昼を抜くなと言っただろう」


「抜いてないわよ。まだ食べてないだけ」


「同じことだ」


 ルシアンは小さくため息をつくと、ふと手を伸ばしてミレイユの耳飾りに触れた。指先がかすめて、少しくすぐったい。


「……緩んでいる」


「え、そう?」


「じっとしていろ」


 彼が金具を留め直すあいだ、ミレイユは息を止めていた。顔が近い。長い睫毛も、すっと通った鼻筋も、子どもの頃とはまるで違う。いつの間にこんなに大人の男の人になってしまったのだろう。


「よし」


 ルシアンは満足げにうなずくと、そのまま踵を返した。


「もう行くの?」


「会議を抜けてきた」


「えっ」


 問い返す間もなく、黒い外套は扉の向こうに消えた。閲覧室に、ほうっと安堵の息が広がる。


「……ねえミレイユ。今の、本当に『妹』への態度だと思う?」


「思うわよ。だって、ルシアンは私に何も言わないもの」


 ミレイユはパイの袋を胸に抱えて、小さく笑った。

 ふと、四年前の誕生日のことを思い出す。

 十五歳になった朝、ルシアンはいつものように生け垣の隙間から現れた。その頃の彼はもう魔導学院を首席で卒業し、宮廷魔導師団に入ったばかりだった。黒い制服姿があまりに大人びていて、ミレイユは庭先で立ち尽くしてしまったのを覚えている。


「手を出せ」


 言われるまま差し出した右手首に、彼は細い銀の腕輪をはめた。ひやりとした金属の感触。腕輪には小さな青い石が一つ埋めこまれていて、ミレイユが手を動かすたび、きらきらと光を返した。


「きれい。でもルシアン、これ、高かったんじゃない?」


「材料は自分で集めた」


「そういう問題じゃなくて……」


「似合っている」


 ぽつりと落とされた言葉に、ミレイユは顔を上げた。ルシアンは腕輪をはめた手首を、まだ握ったままだった。大きな手だった。剣だこならぬ、ペンだこのある、少し骨ばった指。

 その指が、ほんの一瞬だけ、ミレイユの手の甲を親指でなぞった。

 心臓が、大きく跳ねた。


「ル、ルシアン?」


 名前を呼んだとたん、彼はぱっと手を離した。そして「仕事だ」とだけ言って、足早に去っていってしまった。耳の先が赤かった気がしたけれど、きっと朝日のせいだと、ミレイユは自分に言い聞かせた。

 あの日から、ルシアンの姿を目で追うようになった。彼が笑わないのを寂しく思うようになった。そして、自分だけが一方的に意識しているのだと思うたびに、胸の奥がちくりと痛むようになった。

 きっとあの日が、恋の始まりだったのだと思う。けれどルシアンは、あれから一度も、ミレイユを女性として扱うようなことは言わなかった。お守りをくれて、昼食の心配をして、それだけ。

 それはきっと、そういうことなのだ。




「縁談、ですか」


 その夜の夕食の席で、父のアーデン子爵が切り出した話に、ミレイユはフォークを止めた。


「ああ。ホルスト商会の次男で、ダミアン殿という。二十二歳、真面目で穏やかな青年だそうだ。先方がおまえの評判を聞いて、ぜひ一度会いたいと」


「……私の評判?」


「図書館で、子どもに本を読んでやっているだろう。それを見かけたらしい」


 父は穏やかに笑った。母も、隣で静かにうなずいている。


「無理にとは言わない。ただ、おまえももう十九だ。考えてみてもいいんじゃないか」


 ミレイユはしばらく黙ってから、うなずいた。


「……はい。お会いしてみます」


 母が少しだけ意外そうな顔をした。父の後ろに控えていた古株の執事が、なぜか「ああ……」と天を仰いだ。

 自室に戻ったミレイユは、鏡台の前に座り、身につけたお守りを一つずつ指でなぞった。リボン、ブローチ、耳飾り、髪留め、腕輪、指輪、足首の鈴。どれも灯りを受けて、きらきらと光る。

 十五回の誕生日の、ルシアンからの贈り物。


「……ちゃんと、区切りをつけなきゃ」


 いつまでも妹のままでいるわけにはいかない。でも、すぐに諦められるほど、軽い気持ちでもなかった。

 せめて。せめて最後に、これがどれだけ心のこもった贈り物だったのか知りたい。どんな守りの魔法がかかっているのか。彼がどれくらい、自分を大事に思ってくれていたのか。

 それを確かめたら、きっと笑って前に進める。

 翌日、昼休みにその話をすると、ナタリーはなぜかにんまりと笑った。


「いいわね、それ。鑑定してもらいましょう。腕のいい鑑定士を知ってるの」


「本当? 助かるわ」


「ええ。……きっと、とっても面白いことがわかるわよ」


 含みのある親友の笑顔の意味を、ミレイユはまだ知らない。




第二話 鑑定所にて


 ナタリーに連れられて訪れたのは、王都の西通りの奥にある、小さな鑑定所だった。

 看板には「ベアトリス鑑定所」とだけある。扉を開けると、からんと乾いた鈴の音が鳴った。棚という棚に古い魔道具や鉱石が並び、薬草と古紙の匂いがする。


「いらっしゃい。……あら、ナタリー」


 奥のカウンターから顔を上げたのは、三十代半ばほどの女性だった。栗色の髪をきっちりとまとめ、片眼鏡をかけている。


「こんにちは、ベアトリスさん。今日はこの子の持ち物を見てほしくて」


「ミレイユ・アーデンと申します。よろしくお願いします」


 ミレイユはお辞儀をして、身につけていたお守りを一つずつ外し、カウンターに並べた。十五個の装身具が、窓からの光を受けて静かに光る。


「幼なじみが、子どもの頃から誕生日のたびに贈ってくれたお守りなんです。どんな魔法がかかっているのか知りたくて。その……記念に」


「なるほど、記念にね。拝見しましょう」


 ベアトリスは慣れた手つきで、最初に空色のリボンを手に取った。片眼鏡越しにじっと見つめ、指先で銀の刺繍をなぞる。


「これが一番古いもの?」


「はい。五歳のときにもらいました」


「ふむ。刺繍そのものが術式になっていますね。子どもが作ったにしては、ずいぶん丁寧な……物理防御。転んだときに衝撃を和らげる程度のものです。それと――」


 ベアトリスの指が、ぴたりと止まった。


「……居場所探知」


「いばしょたんち?」


「持ち主が今どこにいるか、術者にわかるようにする魔法です。迷子札の、すごく高級なものだと思ってください」


 ミレイユは目を瞬いた。


「ああ……それはたぶん、私が森で迷子になったことがあるからです。心配してくれたんだと思います」


「そうですか。では次を」


 ベアトリスは銀のブローチを取り上げた。七歳の誕生日にもらったものだ。


「毒物無効化。食べ物や飲み物に毒が入っていても、身につけている限り効きません。それから、居場所探知」


「……また?」


「また、です」


 ナタリーが、口元を押さえて肩を震わせている。

 ベアトリスは淡々と鑑定を続けた。雫型の耳飾りには、悪意を持って近づく者を察知すると冷たくなる魔法。細い腕輪には、攻撃魔法を跳ね返す反射の魔法。髪留めには、強制転移を妨げる魔法。指輪には、道に迷ったときに帰り道を光で示す魔法。足首の鈴には、転落したときに体を浮かせる魔法。

 そして、そのすべてに。


「居場所探知。……こちらも、居場所探知です」


 十個目を過ぎたあたりから、ベアトリスの声は少しずつ平坦になっていった。十三個目で、彼女は片眼鏡を外し、眉間を揉んだ。


「失礼。少し休憩させてください」


「あの、大丈夫ですか?」


「私は大丈夫です。問題は、こちらの品々のほうでして」


 ベアトリスはカウンターに肘をつき、まっすぐミレイユを見た。


「アーデンさん。贈り主の方は、宮廷魔導師か何かですか」


「はい。魔導師団の副団長をしています」


「でしょうね。ほかにこんな真似ができる人間がいるとは思えません」


 ベアトリスは十五個のお守りを、年代順に並べ直した。


「いいですか。最初のリボンは、才能のある子どもが一生懸命作った、という出来です。ところが年を追うごとに、術式がどんどん精密になっていく。十歳を過ぎたあたりからは、もう一流の宮廷魔導師の仕事です。そして最近の五つほどは……」


 彼女は、先月もらったばかりの髪留めを指先でつついた。


「正直に申し上げて、王城の結界と同じ水準の術式が組まれています」


「……え」


「全部合わせると、物理、魔法、毒、呪い、転移、転落、悪意。だいたいあらゆる危険から持ち主を守るようにできています。竜に踏まれても、たぶん無傷です」


「り、竜に……」


「値段をつけろと言われたら困りますね。国の予算が要ります」


 ナタリーがとうとう吹き出した。ミレイユは笑うどころではなかった。手の中のブローチが急に重く感じる。


「それと、もう一つ」


 ベアトリスは声を落とした。


「十五個すべての居場所探知が、同じ一人の術者に直結しています。しかも常時です。持ち主が身につけている限り、術者はいつでもあなたの居場所がわかる。……逆に言えば」


「逆に言えば?」


「全部を外して手元から離せば、品物に残ったあなたの魔力の名残が薄れたところで――そうですね、半刻もすれば、術者の側では、あなたの反応が一斉に消えたように見えるはずです」


 鑑定所の中が、しんと静まり返った。


「……つまり、ルシアンは、十四年間ずっと、私がどこにいるか知っていたってことですか」


「そうなりますね」


「図書館にいるときも、市場で買い物をしているときも、家でお昼寝をしているときも?」


「そうなりますね」


 ミレイユは両手で顔を覆った。

 昼食を抜くなと言われたのは、まさか昼どきに図書館から一歩も動いていなかったからなのか。たまたま近くを通ったと言って現れるのは、本当にたまたまだったのか。思い返せば、思い当たることが多すぎる。


「どうしよう、ナタリー。私、怒ったほうがいいの? 喜んだほうがいいの?」


「両方でいいんじゃない?」


 親友は涙を拭きながら言った。

 ベアトリスが、片眼鏡をかけ直して小さく咳払いをした。


「鑑定士として、一つだけ付け加えさせてください。追跡の魔法というのは、悪用しようと思えばいくらでもできるものです。でも、これらの術式はどれも、持ち主を縛ったり、行動を制限したりするものではありません。全部、守るためだけに組まれている」


 彼女は、空色のリボンをそっとミレイユの手に戻した。


「こういうのはね、失くしたら生きていけないと思っている相手にしか、贈らないものですよ」


 ミレイユは、手の中のリボンを見つめた。五歳のあの日、震える指で結んでくれた、銀の刺繍のリボン。

 妹だから、ではないのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。期待して、また違ったらどうしよう。ずっと勘違いしていたのは自分のほうだったら。


「……ねえ、ナタリー」


「なあに」


「確かめてみても、いいかな」


 ミレイユは十五個のお守りを見下ろした。


「縁談の顔合わせ、三日後なの。その日、これを全部外して行ってみる」


 ナタリーの目が、きらりと輝いた。ベアトリスは片眼鏡の奥で、なんとも言えない顔をした。


「それは……やめておいたほうが、とは言いませんが。たぶん、ものすごい勢いで飛んでくると思いますよ、その方」


「来なかったら、それはそれで、答えだと思うんです」


 ミレイユは、精いっぱい笑ってみせた。


「来てくれたら……そのときは、ちゃんと聞きます。どうしてこんなことをしたのか」




第三話 全部外した日


 三日後の朝。

 ミレイユは鏡台の前で、お守りを一つずつ外していた。

 足首の鈴。指輪。腕輪。髪留め。耳飾り。ブローチ。最後に、手首の空色のリボンをほどく。十五個を小箱に収めて蓋を閉めると、体が妙に軽く、心もとなく感じられた。

 十四年間、お守りを置いて出かけた日など一日もなかったのだと、今さら気づく。湯浴みのときでさえ、リボンだけは手首に巻いたままだった。


「お嬢様、本当にそのお姿でお出かけに?」


 支度を手伝ってくれていた侍女が、不安そうに尋ねる。廊下では、古株の執事が真っ青な顔で立ち尽くしていた。


「ええ。今日は、何もつけずに行きたいの」


「……左様でございますか」


 執事は遠い目をして、小さくつぶやいた。


「旦那様。屋敷の修繕費を、少し多めに見積もっておいたほうがよろしいかと」


「何の話だ?」


 父が首をかしげたが、執事は答えなかった。




 それから、半刻ほどのち。

 王城の東棟にある会議室では、宮廷魔導師団の定例会議が開かれていた。長い卓を囲むのは、団長と副団長、各部隊の隊長たち、そして財務を預かる文官が数名。議題は、来年度の予算配分である。


「――以上の理由から、北方結界の補修には例年の一・五倍の予算を」


 文官の説明を、副団長ルシアン・ヴェルナーは無表情で聞いていた。正確には、聞いているように見えていた。

 彼の意識の片隅には、いつも十五の小さな光が灯っている。王都の東の住宅街、アーデン子爵邸の二階。朝の支度をする時間だ。今日は図書館が休みの日だから、昼まではきっと屋敷にいるだろう。今朝から一度も光が動かないのは、部屋で本でも読んでいるからに違いない。

 ひとつ、光が消えた。

 ルシアンは眉をひそめた。足首の鈴だ。留め具が壊れたのだろうか。帰りに寄って直してやらなければ。

 ふたつ、みっつ。

 指輪、腕輪。立て続けに消えていく。

 よっつ、いつつ、むっつ。


「――副団長? 何かご意見が」


 文官の声は、もう耳に入っていなかった。

 ななつ、やっつ……十三、十四。

 そして、十五個目。いちばん古い、空色のリボンの光が、ふっと消えた。

 がたん、と椅子が倒れる音が会議室に響いた。

 全員が見上げた先で、氷の副団長が立っていた。顔から血の気が引き、青い目だけが異様な光を帯びている。卓の上の書類が、彼の魔力に煽られてばらばらと舞い上がった。


「ヴェルナー? どうした」


 団長の問いに、ルシアンは短く答えた。


「失礼する」


「待て、会議は――」


 言い終わる前に、ルシアンの姿は青白い光とともに消えていた。宮廷内での無許可の転移魔法は、厳しく禁じられている。そんなことは、彼がいちばんよく知っているはずだった。

 残された会議室で、若い隊長のひとりがぽつりとつぶやいた。


「……今の、副団長の顔、見ました? あの人、あんな顔できたんですね」


 団長は深くため息をつき、倒れた椅子を見下ろした。


「アーデン家のお嬢さんに何かあったんだろう。……カイ、追いかけて行け。転移の始末書は、あとで山ほど書かせる」




 青白い光が弾けたのは、アーデン子爵邸の正門の前だった。

 最後に光が消えた場所。ルシアンは門を押し開け、玄関へと駆けこんだ。ちょうど庭先の掃除をしていた使用人が、箒を取り落として尻もちをつく。


「ミレイユは」


 玄関ホールに響いた声に、奥から古株の執事がゆったりと姿を現した。まるで、この瞬間が来るのを知っていたかのような落ち着きぶりだった。


「お早いお着きで、ヴェルナー様」


「ミレイユはどこだ。反応が全部消えた。何があった」


「お嬢様はご無事です。今朝、ご自分の手でお守りをお外しになりました」


 ルシアンの動きが止まった。


「……自分で?」


「はい。本日は何もつけずに行きたい、と」


「行く? どこへ」


 執事は一拍置いて、うやうやしく一礼した。


「中央通りの白百合亭でございます。旦那様とご一緒に、ホルスト商会のご子息とのお顔合わせに」


 沈黙が落ちた。玄関ホールの窓ガラスが、ぴしりと音を立てて凍りつく。


「……顔合わせ」


「縁談の、でございます」


 次の瞬間、ルシアンは踵を返していた。王城に近い中央通りには、転移を阻む結界が張りめぐらされている。外から魔法で飛びこむことはできない。門の脇につながれていた伝令用の馬に飛び乗り、手綱を取る。


「借りるぞ」


「どうぞ。それから、こちらをお嬢様に」


 執事がうやうやしく差し出したのは、お守りを収めた小箱だった。ルシアンはそれを上着のポケットにねじこみ、馬の腹を蹴った。


「修繕費の見積もりは、すでに済ませてございますので」


 執事は遠ざかる蹄の音に耳を澄ませ、門の外を見送りながら、静かにつぶやいた。


「十四年。ようやく、でございますね」


 尻もちをついたままの使用人が、ぽかんと口を開けて執事を見上げた。




 顔合わせの場所は、王都の中央通りにある「白百合亭」という茶館だった。窓の大きな明るい店で、個室の卓には季節の花が飾られている。


「はじめまして。ダミアン・ホルストです」


 立ち上がって迎えてくれたのは、柔らかな茶色の髪をした青年だった。少し緊張した面持ちで、それでも丁寧に椅子を引いてくれる。


「ミレイユ・アーデンです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 父と、先方の両親は、別室で歓談している。若い二人で少し話してみなさい、ということらしい。

 ダミアンは、聞いていたとおりの穏やかな青年だった。商会の仕事のこと、各地を旅して見た珍しい本のこと。ミレイユが図書館で働いていると言うと、彼は目を輝かせた。


「実は、図書館であなたが子どもたちに本を読んでいるのを見かけたんです。竜と羊飼いの話でした。声色を変えて、竜の台詞を読んでいて」


「えっ、見られてたんですか。恥ずかしい……」


「とても楽しそうでした。子どもたちも、僕も、すっかり聞き入ってしまって」


 ダミアンが照れたように笑う。ミレイユもつられて笑った。

 いい人だ、と思った。きっとこの人となら、穏やかで優しい毎日を送れるだろう。

 けれど、話しながらも、ミレイユの目は何度も窓の外へ向かってしまう。それに気づくたび、自分がひどく不誠実な気がして、膝の上で手を握りしめた。

 お茶が二杯目になったころ、ダミアンがふと口をつぐんだ。それから、困ったように眉を下げて言った。


「アーデンさん。間違っていたら申し訳ないんですが……もしかして、どなたか、想う方がいらっしゃるんじゃありませんか」


 ミレイユは息を呑んだ。


「ど、どうして」


「さっきから、誰かを待っているような顔をしているので」


 責める口調ではなかった。ただ静かに、確かめるような声だった。

 ミレイユはしばらく唇を噛んでから、正直に頭を下げた。


「……ごめんなさい。いるんです。ずっと昔から。でも、向こうは私のことを妹みたいにしか思っていないって、そう思っていて。だから、諦めるつもりで、今日ここに――」


 そのときだった。

 茶館の表で、馬のいななきと人々の悲鳴が上がった。続いて、店の扉が開く音。いや、開くというより、蝶番ごと吹き飛ぶような音だった。

 廊下を駆けてくる足音。給仕の制止する声。そして、個室の扉が乱暴に開け放たれた。

 そこに立っていたのは、ルシアンだった。

 いつもきっちり整えている黒髪は乱れ、額に汗が光っている。正装の上着は片腕に引っかけたまま、靴は泥だらけ。肩で大きく息をしながら、青い目が室内を素早く見回し、ミレイユの姿を捉えた。


「ミレイユ」


 かすれた声で名前を呼ばれた次の瞬間、ミレイユは強く抱きしめられていた。


「無事か。怪我は。誰に何をされた」


「え、あの、ルシアン――」


「反応が消えた。十五個全部、ほとんど同時にだ。転移阻害も、悪意感知も、何も反応しないまま、全部」


 背中に回された腕が、かすかに震えていた。耳元で聞こえる心臓の音が、信じられないくらい速い。

 ミレイユは思わず、壁の時計を見た。

 お守りを外して屋敷を出てから、まだ一刻も経っていなかった。


「……本当に、来た」


 つぶやいた声は、自分でも驚くほど震えていた。

 ルシアンが腕を緩め、ミレイユの顔を覗きこむ。そこでようやく、彼女の手首にも耳にも何もついていないことに気づいたらしい。そして、卓の向こうでティーカップを持ったまま固まっている青年にも。

 ルシアンは、ぴたりと動きを止めた。

 卓の上の花瓶。二人分のお茶。少しだけ着飾ったミレイユ。向かいに座る、身なりのいい若い男。

 氷の副団長と呼ばれる男の顔から、すうっと表情が抜け落ちていく。


「……これは、何だ」


「縁談の、顔合わせ」


 ミレイユが答えると、部屋の気温が一気に下がった気がした。窓ガラスに、うっすらと霜が降りていく。

 ダミアンはしばらくルシアンとミレイユを見比べていたが、やがてカップを静かに置き、ふっと笑った。


「なるほど。『妹みたいにしか思っていない』方、ですか」


「あ……」


「アーデンさん。僕が言うのもなんですが、たぶんそれ、勘違いですよ」


 ダミアンは立ち上がり、ルシアンに向かって丁寧に一礼した。


「ホルスト商会のダミアンと申します。ご心配なく、僕はここで失礼します。両親には、僕から上手く伝えておきますので」


「……すまない」


 ルシアンが低い声で言うと、ダミアンは小さく肩をすくめた。


「いえ。一刻もかからずに駆けつけてくる方に、勝てる気はしませんから。――どうか、お幸せに」


 彼が出ていくのと入れ違いに、廊下の向こうから若い魔導師がよろよろと駆けこんできた。ルシアンの部下のカイだ。


「ふ、副団長……会議中に、転移しないでください……あと、茶館の扉の弁償……団長が、始末書は山ほどだって……」


 息も絶え絶えの部下に、ルシアンは一瞥もくれなかった。その目はただ、ミレイユだけを見ていた。


「説明してもらおうか、ミレイユ」


 ミレイユは深呼吸をして、まっすぐに見つめ返した。


「それは、こっちの台詞よ。ルシアン」




第四話 十四年分の理由


 茶館の扉の弁償はカイに任せ、別室の父には「あとで説明する」とだけ伝えて、二人は店を出た。

 昼下がりの川沿いの道を、並んで歩く。ルシアンは上着を着直しもせず、片腕に引っかけたままだった。ミレイユはちらりと横顔を見上げる。いつもの無表情に戻っているけれど、唇が固く引き結ばれていた。

 川べりのベンチに腰を下ろすと、ルシアンは片腕に引っかけた上着のポケットから小箱を取り出し、黙ってミレイユの膝に置いた。屋敷を出るとき、執事に託されたのだという。蓋を開けると、十五個のお守りが、午後の陽を受けてきらきらと光った。


「この前、鑑定してもらったの」


 ルシアンの肩が、わずかに揺れた。


「物理防御、毒物無効、悪意感知、魔法反射、転移阻害、転落防止、それからまだいろいろ。……全部に、居場所探知」


「……ああ」


「竜に踏まれても無傷なんですって」


「計算上はそうなる」


「値段をつけたら、国の予算が要るって」


「そこまでではない。材料は自分で採ってきた」


 そういう問題ではない、とミレイユは額を押さえた。


「ルシアン。十五個よ? 居場所探知が十五個。普通、一つで十分でしょう?」


 すると彼は、本気で不思議そうな顔をした。


「一つでは、壊れたときにわからなくなる」


「……」


「二つでも、同時に壊れることはある。だから毎年増やした。……足りなかったか?」


「多すぎるの!」


 思わず大きな声が出た。川辺で釣りをしていた老人が、驚いたように振り返る。ミレイユは慌てて声を落とした。


「十四年間、ずっと私の居場所を見てたのよね。図書館にいるときも、家でお昼寝してるときも」


「見ていたわけではない。わかるだけだ。光が、意識の端にあって……」


 ルシアンはそこで言葉を切り、しばらく川面を見つめていた。それから、ひどく静かな声で言った。


「おまえが、森で迷子になった夜のことを覚えているか」


 ミレイユはうなずいた。木のうろの暗さと、寒さと、心細さ。そして夜明け前に聞こえた、自分の名前を呼ぶ声。


「あの夜、大人たちは松明を持って森じゅうを探した。俺もついていった。夜中になっても見つからなくて、誰かが『川に落ちたのかもしれない』と言った」


 ルシアンの声が、わずかにかすれた。


「俺は、大人たちの列からはぐれて、一人で探し続けた。まだろくに魔法も使えなかった。灯りの魔法だけで、何度も転んで。やっと見つけたとき、おまえは木のうろの中で丸くなって、唇が真っ青だった。抱き上げたら、氷みたいに冷たかった」


「……覚えてる。ルシアンの外套、すごくあったかかった」


「俺は、おまえが死んだと思った」


 その言葉に、ミレイユは息を止めた。


「息をしているとわかるまで、たぶん数秒もなかった。でも、あれほど長い時間はなかった。……二度と、あんな思いはしたくなかった」


 だから、と彼は続けた。


「図書室で迷子札の術式を見つけて、ひと月かけて覚えた。リボンに刺繍したのは、それしか方法を知らなかったからだ。あのリボンをおまえの髪に結んで、光が灯ったとき、ようやく息ができた気がした」


 ミレイユは手首の跡を、そっと撫でた。今朝まで、ずっとリボンが巻かれていた場所だ。


「それから毎年、怖いものが一つずつ増えた。おまえが七つのとき、どこかの令嬢が茶会で毒を盛られたと聞いた。だからブローチに毒物無効を組んだ。十のとき、人さらいの話を聞いて耳飾りに悪意感知を。今年は、転移魔法を使う誘拐犯の話を聞いて、髪留めに転移阻害を」


「それで、毎年……」


「魔導師になったのも、そのためだ」


 さらりと告げられて、ミレイユは目を見開いた。


「え?」


「もっといい守りを作るには、もっと魔法を知る必要があった。十二で魔導学院に入ったのも、首席を取ったのも、宮廷魔導師団に入ったのも、全部」


「全部、って……副団長になったのも?」


「副団長になれば、王城の結界術式を閲覧できる。最新の防御術式が手に入る」


 ミレイユは、口を開けたまま固まった。王国最年少の副団長。氷の天才魔導師。その経歴のすべてが、自分のお守りのためだったなんて。


「……ルシアンって、本当に加減を知らないのね」


「よく言われる」


「誰に?」


「団長に」


 ミレイユは思わず笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱くなってくる。


「でも、ルシアン。だったらどうして、何も言ってくれなかったの。私、ずっと、自分は妹みたいなものなんだと思ってた。手のかかる妹だから、心配してくれてるだけなんだって」


 ルシアンが、ゆっくりとこちらを向いた。陽の光を映した青い目が、まっすぐにミレイユを捉える。


「妹だと思ったことは、一度もない」


 低い、けれどはっきりした声だった。


「おまえが子どものうちは、言うべきではないと思った。大人になるまで待つつもりだった。十八の誕生日に、言おうと決めていた」


「十八の……?」


「その少し前に、図書館でおまえが同僚と話しているのを聞いた。『ルシアンはお兄ちゃんみたいなものよ』と」


 ミレイユは、さあっと青ざめた。

 覚えている。同僚たちに「あの副団長様とはどういう関係なの」とからかわれて、とっさにそう答えたのだ。本当の気持ちを知られるのが怖くて。期待して、違ったときに傷つくのが怖くて。


「あ、あれは、違うの。あれは、照れ隠しで……」


「そうだったのか」


 ルシアンは、長く長く息を吐いた。それから、片手で目元を覆った。


「……一年、損をした」


「わ、私だって! 私だって、ずっと諦めようとして、今日だって、ちゃんと区切りをつけるつもりで……」


 言いかけたミレイユの言葉は、そこで途切れた。ルシアンが、彼女の手を取ったからだ。お守りのない、何もついていない手を。


「ミレイユ。おまえが好きだ」


 飾り気のない、たった一言。


「おまえが五つのときから、ずっとだ。おまえが笑っていればそれでいいと思っていた。でも、今日、おまえが他の男と茶を飲んでいるのを見て、それでは足りないとわかった」


 握られた手が、熱い。


「おまえの隣にいたい。守るだけじゃなく、隣に」


 ミレイユの目から、とうとう涙がこぼれた。彼女は空いているほうの手で、ルシアンの胸をぽかぽかと叩いた。


「ずるい。ずるいわ、ルシアン。十四年も黙ってて、最後にそんなこと言うなんて」


「すまない」


「勝手に居場所探知を十五個もつけて」


「すまない」


「会議を抜け出して、茶館の扉まで壊して」


「それは、すまないとは思っていない」


「思って!」


 叩く手を、ルシアンがそっと受け止める。ミレイユは涙を拭い、鼻をすすって、彼をにらみ上げた。


「……私も、好き。たぶん、ずっと前から」


 ルシアンの目が、大きく見開かれた。氷の副団長と呼ばれる男が、まるで十歳の少年のような顔をしている。


「でも、条件があります」


「条件」


「一つ。これからは、黙って魔法をかけないこと。何をかけるのか、ちゃんと私に言って」


「わかった」


「二つ。お守りをつけるかどうかは、私が決めます。ルシアンがくれたものだから、大事につけるけど。今日みたいに外したい日だってあるかもしれない」


 ルシアンは一瞬、苦しそうな顔をした。けれど、やがてゆっくりとうなずいた。


「……わかった。そのときは、俺が我慢する」


「三つ」


 ミレイユは、小箱の中から空色のリボンをつまみ上げた。


「私にも、同じ魔法を教えて」


「同じ……居場所探知を?」


「そう。ルシアンばっかり私の居場所を知ってるなんて、不公平でしょう。今度は、私も見つける側になりたいの」


 ルシアンはしばらく黙っていた。それから、ふっと口元を緩めた。

 笑ったのだ、とミレイユが気づくまで、少し時間がかかった。十四年の付き合いで、数えるほどしか見たことのない顔だった。


「いいだろう。ただし、俺は教えるのが下手だぞ」


「知ってる」


 ミレイユはリボンを差し出した。ルシアンは五歳のあの日と同じように、それを彼女の手首に結んだ。今度は、指先は震えていなかった。

 リボンが、ふわりと青く光る。

 その光を、ミレイユは初めて、自分の目でちゃんと見た。




エピローグ 十六個目と、おあいこ


 翌朝、ルシアンは正装でアーデン子爵邸を訪れた。

 応接間で深々と頭を下げ、「ミレイユ嬢との結婚をお許しいただきたい」と告げた彼に、父は紅茶を噴きそうになった。母は「やっとなのね」とハンカチで目元を押さえた。古株の執事はただ一人、満足げにうなずいていた。


「……ヴェルナー殿。娘のお守りの話は聞いた」


 父が咳払いをして、重々しく口を開く。ルシアンは背筋を伸ばした。


「はい。無断で術式を施したことは、お詫びのしようも――」


「いや、いい。いいんだ。昔から、娘はやたらと怪我をしない子だと思っていたんだ。階段から落ちてもけろりとしているし、腐りかけた牡蠣を食べても平気な顔をしているし」


「お父様、その話はやめて」


「十年以上、娘を守ってくれていたんだな。……ありがとう。どうか、これからもよろしく頼む」


 父が差し出した手を、ルシアンは両手で握り返した。その耳が赤くなっているのを、ミレイユは見逃さなかった。

 ちなみに、茶館の扉の修繕費と、会議中の無断転移の始末書二十枚は、きっちりルシアンに請求された。団長からは「次に転移するときは、せめて書類を片づけてからにしろ」と叱られたらしい。転移すること自体は、もう諦められているようだった。




 それからひと月のあいだ、ミレイユは仕事帰りに魔法の勉強をした。

 場所は、なぜかベアトリス鑑定所の奥の作業部屋である。ルシアンが「屋敷で二人きりでは集中できない」と言い張り、ナタリーが「じゃあベアトリスさんのところでいいじゃない」と言い出したのだ。


「違う。術式の三行目は、魔力を右から流す」


「右って、どっちから見て右?」


「……術式から見て右だ」


「術式に目はないでしょう!」


 カウンターの向こうで、ベアトリスが黙々と帳簿をつけながら、ときどき肩を震わせている。ナタリーはお茶を飲みながら、満面の笑みで二人を眺めていた。


「ねえナタリー。あなた、最初から全部わかってたでしょう」


「さあ、何のことかしら」


「鑑定を勧めたとき、すごく楽しそうだったもの」


「だって、あなたの耳飾り、ルシアン様が来るたびに光ってたのよ。気づいてなかったのは本人たちだけ」


 ミレイユは真っ赤になって机に突っ伏した。ルシアンは咳払いをして、窓の外に目をそらした。

 ルシアンの教え方は、本人が言ったとおり、とても下手だった。天才にとっての「普通」は、ミレイユにとっての「無理」だったし、説明は三言で終わってしまう。けれど彼は、ミレイユが何度失敗しても、一度も呆れた顔をしなかった。同じ箇所を、十回でも二十回でも、言葉を変えて説明してくれた。

 十四年前、図書室で迷子札の術式を必死に覚えた少年も、きっとこんなふうだったのだろう。そう思うと、ミレイユは何度でも頑張れる気がした。




 ひと月後の休日。

 ルシアンに呼ばれて、ミレイユはあの川べりのベンチに向かった。少し早く着いたつもりだったのに、彼はもう待っていた。当然だ。ミレイユがいつ屋敷を出たのか、彼にはわかっているのだから。


「ずるいわ。いつも先回りして」


「待つのは慣れている」


 十四年分の重みがこもった一言に、ミレイユは言い返せなくなる。

 ルシアンは上着の内側から、小さな箱を取り出した。紺色の天鵞絨の箱だ。


「十六個目だ」


 蓋を開けると、銀の指輪が二つ並んでいた。飾りは控えめで、内側に細かな術式が刻まれている。片方は少し大きく、片方は少し小さい。


「……二つ?」


「約束どおり、先に言う。この指輪にかけた魔法は、一つだけだ」


 ルシアンは小さいほうの指輪を手に取った。


「呼べば、声が届く。どれだけ離れていても、相手の名前を呼べば、その声が相手の耳に届く。……どちらからでも」


「どちらからでも」


「おまえが俺を呼ぶこともできる。俺が、おまえを呼ぶこともできる。片方だけでは意味がない魔法だ」


 居場所探知でも、防御でもない。守るためでも、見張るためでもない。ただ、互いを呼ぶための魔法。

 ミレイユは、胸がいっぱいになって何も言えなかった。ルシアンが、少し不安そうにこちらを見る。


「足りなかったか?」


 いつかと同じ台詞に、ミレイユは泣き笑いで首を振った。


「ううん。これがいいの。これ以上の魔法なんて、いらない」


 ルシアンが、ミレイユの左手の薬指に指輪をはめる。ミレイユも、大きいほうの指輪を彼の指にはめた。二つの指輪が同時に、淡い青色に光った。


「それから、私からも」


 ミレイユは鞄の中から、小さな包みを取り出した。中身は、紺色の布に刺繍をほどこしたお守り袋だった。刺繍は、正直に言ってあまり上手くない。糸はところどころ引きつれているし、模様も少し歪んでいる。


「この一か月で覚えた、居場所探知の術式を刺繍したの。ベアトリスさんに鑑定してもらったら、効果範囲は王都の中だけで、しかも三回に一回くらい光が消えるって」


「……」


「ルシアンのに比べたら、全然だめだけど。でも、これで――」


 ミレイユは、彼の手にお守り袋をそっと押しつけた。


「これで、おあいこです」


 ルシアンは、手の中のお守り袋をしばらく見つめていた。歪んだ刺繍を、指先で何度もなぞる。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。

 ミレイユは、息を呑んだ。そこにあったのは、氷の副団長の顔ではなかった。十四年前、五歳の誕生日に、リボンを結んでくれた少年の顔でもなかった。

 くしゃりと目を細めて、心の底から嬉しそうに笑う、一人の男の人の顔だった。


「一生、外さない」


「……大げさよ」


「本気だ」


 ルシアンはお守り袋を胸元にしまい、それからミレイユを抱き寄せた。茶館で抱きしめられたときとは違う、静かで、あたたかい腕だった。

 ミレイユは彼の胸に頬を寄せ、そっと目を閉じた。意識の端に、ちかちかと頼りない小さな光が灯っている。ときどき消えそうになりながら、それでも確かに、すぐそばで瞬いている光。

 ああ、ルシアンはずっと、こんなふうに私を見ていたんだ。

 そう思ったら、なんだか無性にくすぐったくて、ミレイユは小さく笑った。




 後日。

 宮廷魔導師団の会議室では、若い隊長たちがひそひそと噂していた。


「最近、副団長、会議中にときどき胸元を押さえてません?」


「ああ、あれな。婚約者さんの手作りのお守りらしいぞ。光が消えるたびに不安そうな顔をして、また灯ると、ほっとした顔をするんだと」


「あの副団長が? 嘘でしょう」


 そのとき、上座のルシアンがふと顔を上げた。左手の指輪が、かすかに青く光っている。


 ――ルシアン。今日の夕食、うちで食べていかない? 母が、木の実のパイを焼くって。


 耳元に届いた声に、氷の副団長はわずかに口元を緩めた。そして指輪に唇を寄せ、小さな声で答えた。


「行く」


 会議室にいた全員が、その日、副団長の笑顔を目撃した。

 団長は深いため息をついて、議事録の端にこう書き添えたという。


 ――本日の会議は、定刻どおり終了すること。副団長の転移を防ぐため。



(完)

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