『1177円の朝に、コーヒーを。』
変わらない日々の中にも、気づけばそっと積もるものがある。
これは、そんな小さな揺らぎを拾い上げた、ひとりの静かな記録。
大阪の最低賃金が、上がったらしい。
ニュースでその数字を見たとき、 僕はちょうど、
朝の味噌汁を温めているところだった。
ふわりと立ちのぼる湯気の向こう。
テレビ画面に浮かぶ「時給1177円」という文字。
なんだか現実感があるような、ないような。
そんな、ふわふわとした心地だった。
嘱託として働く僕の時給も、
それに合わせて数十円ほど上がったという。
数十円。
財布の中に、小銭が一枚増えた。 ただ、それだけのことだ。
嬉しいような。 けれど、どこか少しだけ切ない。
もちろん、上がらないよりはいい。 でも、数十円上がったところで、
僕の生活が劇的に、バラ色に変わるわけじゃない。
せいぜい、昼休みの自販機の前で、
「今日は……やめとくか」 と迷う時間が、ほんの数秒短くなる。
ただ、それくらいのこと。
職場の廊下を歩いていると、ふと思う。
「僕は今、この会社のどのあたりに立っているんだろう」
嘱託という身分は、 大きな歯車の外側で、
静かに回っている「補助輪」みたいなものだ。
中心では、現役のエリートたちが、 凄まじいスピードで、
火花を散らして回転している。
僕はその遠心力のずっと外側で、
誰に急かされることもなく、自分のペースで回っている。
昼休み。 いつもの自販機の前で、立ち止まった。
ボタンを押す指が、いつもよりほんの少しだけ、
軽い気がした。
それは本当に、時給が上がったからなのか。
それとも、「上がった」という事実に、
自分を無理やり納得させようとしているだけなのか。
自分でも、よく分からない。
「カチッ」
プルタブを開けると、小さな音がした。
それと同時に、胸の奥に、ふわっとした空気が広がっていく。
温かい缶を両手で包んで歩く。
その熱が掌に伝わるとき、
ほんの少しだけ、世界が優しく見える瞬間がある。
人生は、そう簡単には変わらない。
でも。 変わらないなりに。 こうして少しずつ、
何かが積み重なっていく。
僕は、上がった数十円ぶんのコーヒーを飲み干した。
その静かな積み重ねの中に。
今日の、僕の居場所を探しながら。
日々の中にある小さな変化は、気づかなければ通り過ぎてしまうほど儚い。
けれど、その儚さこそが、人生をそっと形づくっているのだと思う。
数十円の重みを胸に、今日の自分を確かめる——
そんな静かな時間を、ここに記しておきたかった。




