五つ目の献立
喜怒哀楽では救えぬ客に、店主の健太は裏メニュー「忘」を出す。
真っ白な大根を食し、過去を鍵に変えて置いていく客たちは、
身軽になってまた明日から歩き出す。
深夜二時。『めし処・きどあいらく』の看板
の灯が落ちた後、健太は一人で店内に残って
いた。
すると、ガタリと戸が開き、一人の男が滑り
込んできた。
その男の顔には、喜びも怒りも悲しみも楽し
さも、何一つ浮かんでいなかった。
「……何か、あるかい」
男の声は、乾いた砂のように響いた。
健太は黙って頷き、品書きにはない五つ目の
札を厨房に掲げた。
そこには、墨で大きく『忘』の一文字が書か
れていた。
健太が取り出したのは何の変哲もない真っ白
な大根だった。
それを丁寧に角が取れるまで面取りし、透き
通るような出汁で静かに煮込んでいく。
味付けは、ほんの少しの塩と、隠し味の酒だけ。
「お待たせしました。『忘定食』です」
運ばれてきたのは、真っ白な風呂吹き大根と、
お湯のように澄んだお吸い物。そして、真っ白
な炊きたての飯だった。
男は箸をつけ、熱い大根を口に運んだ。
湯気と共に、男の目からポロリと一粒、涙が
こぼれ落ちた。
「……ああ、何も思い出せない。でも、それで
いい気がする」
男が食べ終える頃には、その顔からどす黒い
疲れが消え、赤ん坊のような無垢な表情に戻って
いた。代金代わりに男は胸のポケットから
古びた鍵を一つ置き、夜の闇へ消えていった。
「お疲れ様。また明日から始めなよ」
健太は男が去った後の席を拭き、預かった鍵を
レジ横の小箱に収めた。
そこには、これまで『忘』を食べた客たちが置
いていった、捨て去りたい過去の遺物がいくつも
眠っている。
翌朝、店を開ける健太の顔は、いつもの跡継ぎの
表情に戻っていた。
メニューにあるのは、今日も『喜・怒・哀・楽』
の四つだけだ。




