ずれた線の指跡
期待、という言葉はこの場所では数えられていた。
床から天井まで、同じ幅の線が引かれている。
一本につき一つ。
誰かが来るたび、一本増える。
来なくても増えることがある。
ここは数えるためだけに存在している場所で、入ることはできるが、出た形跡が残らない。
僕は線の前に立ち、指でなぞる係だった。
判断基準は一つだけ。線は左から右へ数える。
それ以外は考えない。
線が増えたら数す。減ったら数し直す。
理由は不要だ。
人は時々来る。
青年、女、名札を外したままの誰か。
彼らは線の前で立ち止まり、しばらく黙ってから言う。
「まだですか」
僕は線を示す。数は進んでいる。
期待は増えている。増えているものは数えられる。
それで十分だった。
ある日、線の間に小さな空白が現れた。
線でも床でもない、薄い間。
僕は数える指を止めなかった。
空白も一として扱う。
それが僕のやり方だ。
数えることだけがここでの正しさだからだ。
女が聞いた。
「それも入るんですか」
入る。そう判断した。判断は揺れない。
ところが、線の増え方が変わった。
左から右ではなく、途中に差し込まれる。
昨日まで四本目だった線が、今日は五本目になり、翌日には三本目になる。
規則が壊れた。
数える対象はあるのに、順序だけが成立しない。
青年が線を指差して笑った。
「期待って、こういうことですか」
僕は答えなかった。笑いは数えない。線だけを見る。
そのとき、誰かが床にチョークで文字を書いた。
「これは何だ?」
すぐに消えたが、消えた跡の粉だけが残った。
粉は線の一本のように見える。
僕はそれも数に入れた。
人は増え、線も増える。
期待という言葉が口にされるたび、空白が一つ増える。
空白は線のふりをして並び、並びの規則を壊す。
僕は数え続ける。
数えること自体は成立している。
気づくと、来た人の数と線の数が合わなくなっていた。
一つだけ、多いか少ないか分からない。
どこを数え直しても、一つだけ余る。あるいは足りない。
女はいなくなっていた。
出た形跡はない。
青年もいない。
線だけが残る。
空白も残る。
僕は最初からもう一度、指を左に置いた。
数え始める。
途中で必ず一つ、合わない。
期待はそこにあるはずなのに、どの線にも一致しない。
僕は指を止めない。数え終わる直前で、また最初に戻る。
同じ数を、もう一度数える。




