チア│戻りのフェイズ
ふわっ……。
水が体を包んだ瞬間、チアはほっとした。
冷たくて、重くて、やさしい。
体は細長く、砂に潜る感覚がちゃんと戻っている。
(……戻れた)
ゆらゆら。
いつものように、砂から顔を出す。
泳ぐというより、流れに身を任せて揺れるだけ。
それだけでいい。
息が苦しくならない。
ゴールも、順位も、拍手もない。
(ここだ……ここが、わたしの場所)
胸の奥が、じわっとあたたかくなった。
失敗しなくていい世界。
がんばらなくても、見ている人は笑ってくれる。
――なのに。
水面の向こうに、
プールの白い天井が、ふと重なった。
息が続かなくて、
体が思うように動かなくて、
声援が遠ざかっていった、あの感覚。
(……明音)
チアは、少しだけ砂から体を引っ込めた。
さっきまで自分がいた、人間の世界。
そこで必死に泳いでいたのは、自分じゃない。
(大丈夫、だったかな……)
ここに戻れたことは、嬉しい。
でも同時に、胸の奥がちくちくする。
まるで水の中に、空気の泡が残っているみたいに。
(あの子、笑えてるかな)
水槽の外で立ち止まる人影。
チアは反射的に顔を出す。
期待してしまう自分が、少し怖い。
人間に戻りたいわけじゃない。
でも――
人間の心を、置いてきてしまった気がしていた。
ゆら、ゆら。
止まって、また揺れる。
チアは、いつもより少し高く、砂から顔を出した。
まるで、水の向こうを探すみたいに。
(これで終わりじゃ、ないよね……?)
そんな予感だけが、
静かな水槽の中で、消えずに残っていた。




