赤い屋根の家(あかいやねのいえ)
黒川村の細い路地の突き当たりに、古びた白い家がひっそりと建っている。人々はその家を 「赤い屋根の家」 と呼んでいた。屋根瓦はくすんだ赤色で、雨が降っていないのに、いつも濡れているように見える。それは長年誰も近づかなかった理由のひとつだった。
田中博志は十六歳。家族と共に黒川村へ越してきたばかりで、なんと新しい家は赤い屋根の家のすぐ隣だった。引っ越し初日、博志は自分の部屋から隣家を見つめ、妙な寒気を覚えた。
理由は屋根ではない。
家の庭に立つ一本の 古い桜の木 だった。
普通の桜は空へ向かって伸びるが、その桜は違った。幹は歪み、枝々は下を向き、まるで家を覆い隠すように垂れ下がっていた。その姿は、木が家を守っているのではなく——閉じ込めているようだった。
「なあ父さん、隣の家って、ずっと空き家なの?」
荷物を運び終えた父は、短く答えた。
「そうだ。…あそこには近寄るな、博志。」
「なんで?」
「いいから。」
そんな言われ方をすれば、気になるなというほうが無理だった。
その夜、博志は布団に入ってすぐ眠りに落ちた。しかし午前二時を少し過ぎた頃、急に目が覚めた。理由は分からない。ただ胸がざわつき、部屋の空気が異様に冷たかった。
そのとき——
トン…トン…トン…
乾いた木を叩くような音がした。
隣の家のほうからだ。
博志は息を呑んだ。耳を澄ませると、次は別の音が聞こえてきた。
ギィ…ギィ…
何かを引きずるような音。
博志は布団の中で固まったまま、朝が来るまで一睡もできなかった。
次の日、学校で友達になった石田陸に昨夜の出来事を話すと、陸の表情は一瞬固くなった。
「本当に聞こえたのか?」
「うん。」
陸は図書室へ博志を連れて行き、司書の佐藤先生を呼んだ。
「先生、隣の赤い屋根の家のこと、知ってますよね?」
その言葉を聞いた瞬間、佐藤先生の顔色は青ざめた。
「……あなたたち、博志くんの家は、あの家の隣なの?」
「はい。」
佐藤先生は小さくため息をついた。
「なら、覚えておきなさい。あの家については、軽々しく話してはいけないわ。」
そして語り始めた。
「昔、あの家には中村羅之という木工職人の家族が住んでいた。妻と、桜という名前の小さな娘さんがいたのよ。家族仲も良くてね。」
しかし先生の声は徐々に暗くなっていった。
「ある夜のこと。午前三時頃、村の人は家から悲鳴と物音が聞こえたと言うの。でも、数分で静かになった。朝、心配した隣人が家に行ってみると……。」
「……どうなってたんですか?」博志が聞いた。
「誰もいなかったの。争った形跡も、血も、遺体も、足跡すらも何もない。家族三人、跡形もなく消えていた。」
陸が唾を飲んだ。
「それから毎晩、決まって午前二時か三時に、音が聞こえるようになった。木を叩く音。何かを引きずる音。中村さんが作業している音だって言う人もいれば……。」
「足音だという人もいる。」佐藤先生は言葉を切った。
「……家族を探して彷徨う誰かのね。」
博志の背中に寒気が走った。
その夜、午前二時過ぎ、博志はまた目を覚ました。
だが今日は音はしない。
静寂。
少し安心して息を吐いた瞬間、カーテンの向こうに 影 が映った。
細長い影。人のような、けれど形が歪んだ影。
影はゆっくりと首を傾けた。
——こちらを覗き込むように。
博志は震える足で窓に近づくと、影は霧のように消えた。窓を開けて外を見ると、隣の家は真っ暗。しかし屋根の赤い瓦だけが……
濡れていた。
雨は降っていないのに。
次の夜。博志はついに確かめることを決め、懐中電灯を持って家を抜け出した。赤い屋根の家の庭に足を踏み入れた瞬間、空気は一気に冷え込み、息が白くなった。
古い桜の木は、枝を垂らして家を覆うように広がっている。まるで何かを守っている、あるいは閉じ込めているように。
博志が家の扉に手を伸ばすと——
トン…トン…トン…
家の中の 壁 から音がした。
「だ、誰かいるの……?」
音は止まり、代わりに——
ギィ…ギィ…
今度は屋根裏から。
博志は震えながら扉を開けた。重く湿った空気が流れ出る。家具には白い布がかけられ、ほこりが舞った。
懐中電灯を向けた先、小さな屋根裏への扉がゆっくりと……
カタ……カタ……
震え始めた。
そして突然——
バンッ!
扉が開き、中から一本の 異常に長い腕 が伸びてきた。
青白く細い、爪が黒く変色した腕。
ついで、もう一本。
そして、歪んだ首と黒い眼窩の顔が現れた。
「……さくら……どこへ……?」
しゃがれた男の声。
博志は叫んだ。
「中村さん……ですか……?」
その瞬間、化け物はぴたりと動きを止めた。
次の瞬間——
ドタ…ドタ…ドタ…!
不自然に折れた足で床を叩きながら、異様な速さで博志へ近づいてくる。
博志は転び、懐中電灯を落とし、真っ暗な中で手探りでもがいた。
暗闇の中、手の甲に何かが触れた。
細くて柔らかい……
子供の髪の毛。
博志は悲鳴をあげて家から逃げ出した。外に飛び出して振り返ると、家はただの静かな空き家に見える。
けれど赤い屋根には、べったりと 黒い手形 が付いていた。
その手形から滴り落ちていたのは、雨水ではなかった。
どす黒い血だった。




