今日もこの星の片隅で生きていきます
複製された日常に、複製された私。いたって変わり映えのない毎日を、一つ一つ踏み歩くのである。一日の終わりには、ああ、今日も一日が終わったな。特別何も無かったな、こう思って目を閉じる。
何の話だろう? ここまで書いてきて、自分でもよく分からなくなってきた。
彼女は自称作家である。趣味で本を書くのであり、本業は薬剤師である。作家だけ食べていけないことはよく分かっている。また同じくらいに、小説を書かないと自分を保っていけないこともよく知っている。常にロマンチックで、美しい物語を作ることに努めて書くのであるが、自分の書いたものを何度も読み直してみると、中身がいまいちパッとしないし、空っぽのように思えて、途中で投げ出してしまうことがある。そうなると、原稿さえ見るのも嫌になるので、破り捨ててしまうのだ。彼女は、自分に良い文章を書く才能がほとんどないことを悲しく思う。絶望的になり、悲しくなる。
この日も、数行の文章を書き、もう一度読み返してみると、苦々しく感じた。こんな文章を書いた人間がひどく嫌いになった。破り捨ててしまおうと思って、メモパッドから、ビリッとはぎ取り、グチャグチャに丸めようとした時、一瞬、紙の表面がキラリと光った感じがした。じっくり紙を見るが、もうなんてことのない紙片に戻っているのである。何だか捨てる気にもなれず、机の引き出しに閉まっておくことにした。
しばらく、筆をとるのを休んでいた。ある日の夜、一日の仕事を終えてベッドに滑り込んだ彼女は、なかなか寝付かれなかった。普段から不眠症のため、睡眠導入剤を服用しているのだが、今日に至っては、なかなか効いてくれない。パッチリとした目を天井に向けて、どうでもいいやと思って、そのまま横になっていた。そうすると、目が重くなり、意識がなくなっていった。
すると突然、「ねぇ」と呼びかける声が耳元でする。目を開けると、ベッドのすぐ脇に佇む一人の青年がいた。
「ねぇ」
青年は彼女の方を見て、ニコリと微笑んでいる。誰かも分からない人間が、自分の部屋でポツンと立っているのは、恐怖を感じるはずなのに、不思議と馴染んでしまって、平静でいられた。窓から差し込む月の光を背にして立つ青年の顔は、暗くてよく見えない。
「あなたはだあれ?」
彼女は、最大限一言一言をゆっくり低い声で発した。月の光がちょうど良い具合に当たるところへ青年が歩いたので、横顔がよく見えた。
目鼻立ちがしっかりしていて、背は高い。中性的な顔立ちと、スタイルの良い細身の身体を見て、彼女はふと思った。
こんな好青年を素敵でロマンチックな恋愛小説に登場させたら、素晴らしいと。
青年は、彼女の酔ったような目にいくらか苛立ちを感じたのか、口を尖らせた。
「僕を知らないの? 僕は君の頭の中の主人公だよ。君が書こうとしていてやめてしまった小説の。今は、机の引き出しに入っているよ。
……ねぇ、僕をもう一度書いてみない?
……いや、書いてほしいんだよ」
訴えるような大きな瞳を彼女に向けた。まるで、子犬のような哀願している目である。彼女は、ベッドからむっくりはい出すと、引き出しを開けた。紙類が乱雑に押し込まれたその中に、キラキラと黄金に輝く紙切れがあった。
やっぱり、これは変だ。
そう思いながらも、この状況を受け入れるしかない。あの、嫌な書きかけを読み直してみた。やはり、意味不明だし、気取っている文章だ。
「これ、本当に嫌な文章ね。
……実は、何を書くのだったか忘れてしまったの。あたしの頭の中は空っぽよ。
……あなたは本当に、この小説の主人公?」
「うん、そうだよ。僕の名前はアキ。飼っている犬はロキだよ」
「アキ? 何だか、女の子みたいな名前じゃない。あなた、男の子でしょ? そんな名前はつけないわ。それに、あたしは犬は嫌いよ。そんな小説、書くわけないわ。第一、全然ロマンチックじゃないもの」
「そうでもないよ。僕は好きだな。この話」
青年はむっつりとした顔をして、窓の外に見える異様に大きな月を見た。
「あなた、その話を知っているなら、あなたが書けばいいじゃない? あたしは全く分からないもの」
「……僕は書けない」
「なぜ?」
「僕は、……君の小説の中の主人公だから」
「そんなこと言ったって、あたしには書けないわ。知らない小説なんて」
青年はしばらく黙ったままうつむいていたが、低い小さな声でつぶやいた。
「実は、僕は、……もうすぐ死ぬんだ」
「……いつ」
「明日の朝、太陽がこの世界を照らし出した時だよ」
「……どうしてよ」
「君が書いた小説では、朝日が昇って全てを満たした時、僕は死ぬことになっているんだ」
「……」
彼女は戸惑った。そして、焦った。
「じゃあ、あなたが死ぬのを止めるには、どうしたらいいの?」
青年の悲しい表情が、急にパアッと明るくなった。
「ここに座って、ペンを持って、小説を書くんだ」
急かすように彼女の背をポンポンたたいて、机に向かわせた。青年は、部屋の隅にあった小さな椅子を近寄せて、隣同士に座った。青年の言う通りにペンを手に、なんの構想もない真っ白な頭で、机に向かった。
「複製された日常に、複製された私。いたって変わり映えのない毎日を、一つ一つ踏み歩くのである。一日の終わりには、ああ、今日も一日が終わったな。特別何も無かったな、こう思って目を閉じる」
不思議とペンが意識と離れて、勝手に紙の上を滑っていく。
「なに……、この感覚は?」
続きはこうだった。
***
次に目を開いたときには、何もかもが変わっていた。
僕は、ベッドを離れ、地球を離れ、遠く宇宙の彼方にある星にいた。寝巻きの格好のまま、黄土色の砂の上を裸足で歩いていた。大小様々な岩石が、あちこちにあったけれど、幸い僕の足のつくところには、細かな砂しかなくて、痛くもなんともない。くすぐったくて気持ちがいい。僕が立っているのは、まん丸の小さな星だった。くるりと星の表面を一周してみた。その後、あてもなく方々を歩き回ってみた。ゴツゴツする岩と細かい砂でできた、非常に寂しい星だった。
少し丘のように盛り上がったところに、特別大きな岩があり、その下に小指の爪くらいの小さなハート型の葉っぱがあった。こんなところでも、生きている植物があるのだなと僕は感心した。他に生物はいないのだろうか。小さな星を何度も歩き回ったけれども、この小さすぎる植物しか見つからなかった。
急に僕は、寂しくなった。帰りたくなった。僕の故郷へ。けれど、どこに帰ればよいのか、全く見当がつかなかった。
一体、僕はどこからやってきたのか。
どこかに存在している太陽の光が、ちょうどステージのスポットライトのように僕の星に注いでいる。周りは、真っ暗闇で、たまに遠くの方でスウっと流れ去る光の球が見えるだけだ。僕は歩き疲れて、さっきの岩に背中をつけて座り込んだ。
小さな葉っぱは、双葉になっていた。
突然、ゴウゴウと地響きがした。星の中心で、何かが唸っているような恐ろしい音がした。僕は、怖くなって身を縮めた。ゴーっという音はだんだん大きくなり、地面の揺れが体全体に伝わる。恐る恐る暗闇にじっと目を凝らすと、僕のいる星のそばを大きな星がひどくゆっくりと通り過ぎているところだった。その星の上に何か、見覚えのあるものがこっちを見ているのに気がついた。
犬だ。
雑種の白犬で、首に赤い輪が付いている。首輪から、赤いリードが犬をぐるぐる丸く囲むようにして、地表を覆っている。
「ロキ!!」
僕は、思わず叫んだ。犬は、ピンクのベロをペロッと出して、とぼけた目でこちらを見ている。
やっぱり、僕の犬だ。
そう確信した僕は、ゆっくり通過しつつある星の方へ駆け出した。けれど、向こうの星は、近くにあるように見えて、実際は思った以上に遠く離れていて、全く届かないところにあった。
「ロキ!!」
「ワン! ワン!」
ロキは悲しそうな目をして、吠えているに違いない。僕の方へ駆け出したくてうずうずしているはずだ。ロキの口は吠えているような形を繰り返しているが、音はこちらへ届かない。そして、犬の輪郭がぼんやりとしか見えなくなった。
「ロキ!! ロキ!!」
僕は何度も叫び続けた。もう、ロキが星の光の点にしか見えなくなってしまっても、僕は泣きながら、声が枯れるまで叫び続けた。
僕は、完全に真っ暗な宇宙にたった一人取り残されてしまったのだ。もう、僕は一人で死んでいくだけだ。そう思うとなぜだか、急に体の力が抜けてきて、変に、心が落ち着いてきた。
何とも奇妙な感覚。
死ぬ時ってきっとこんな風に感じるのだろうか?
足元の植物は、もう僕と同じくらいの背丈になっていた。
僕は思った。
あれはロキじゃない。ロキは、もういないんだ。ロキは僕に会いたいはずはない。きっと、僕を心から憎んでいるに違いない。
僕は、もう一人だ。いや、ずっと昔から一人で生きてきたんだ。けど、一体何のために生まれてきたんだろう。このまま星と一緒に消えて、塵になってしまいたい。
僕は、両足を抱えてうずくまった。もう、どうだっていい。生きる意味なんてないのだから。
急に視界が暗くなったと思ったら、あの植物は大木になっていた。幹を伸ばし、葉を茂らせている。大木の成長は止まらなかった。どんどん大きくなって、ついに、星の倍くらいの大きさになると、突然、ズドンという大きな音がした。星がビクビク震えている。
「星が砕けるぞ!」
僕は怖かった。破裂すると思うギリギリのところで、大木の成長はピタリと止まった。僕はひとまず安心すると、しげしげと木を観察してみた。爪くらいの小さな葉っぱがいっぱい付いていて、赤、青、黄、緑、紫と、いろんな色をしていた。
「きれいだな」
僕がうっとり眺めていると、枝のところに一羽の鳥がいるのに気がついた。透明な鳥だった。真っ直ぐ僕を見ていた。僕は鳥に言った。
「僕は一人ぼっちだよ。大切な友達もいなくなってしまった。君も一人かい?」
鳥は答えた。
「いいえ、私には、この大きな木があります。この木がなければ、私は存在しませんでした」
僕は、ムッとした。鳥も一人ぼっちでいて欲しかったから。
「君は一人ぼっちだ」
「いいえ」
鳥は決して、認めようとはしなかった。
「君はどうして透明なの?」
「私は何にでもなれるのです。だから透明なのです。あなたには、私が何に見えていますか?」
「鳥だよ」
「そうですか。私の姿かたちは、あなたが今、一番必要としているものになります。あなたが望むようにしなさい」
そういうと、鳥は粘土がグチャグチャに混ぜられるように、形が変形し一匹の犬になった。
「ロキ!!」
赤い首輪を付けたとぼけた目をした犬。ロキだ。
僕は駆け寄って抱きしめた。ロキのカールしたフサフサの巻き毛が僕の顔に触れた途端、遠い記憶が蘇った。
***
その日は朝からついてなくて、イライラしていた。冬休みの課題で作った鳥の形をした粘土を、弟が壊したからだった。不器用な僕が奮闘して作った作品だった。なかなか思うように形にならなくて、作ってはグチャグチャにしての繰り返しで、やっと形になった鳥だった。だから、弟に壊されたことに激しい怒りが込み上げた。弟なんていなければ良かったと思った。
冬休み明けの初登校の前日、自分の机の上に、鳥の粘土を置いて思った。
みんながこれを見たらなんて言うかな。
緊張した。
明日着ていく服もノートも全部準備したし、目覚まし時計もセットした。
これで、大丈夫。
僕は、その夜ひどい夢を見た。自分の唸り声で体がブルっとして目が覚めた。まだ外は暗く、家の中はひっそりとしていた。家族はまだ寝ていると思って、忍び足で用を足しに廊下へ出た。
戻ってくる時、リビングのドアの隙間から、ほんのり灯りが漏れているのに気が付いた。不思議に思って中を覗くと、弟が一人暖炉の前でうずくまっていた。炎がゆらゆらと揺れている。
弟は一人で暖炉に火がつけられたんだっけ?
僕は弟の背中に声を掛けた。
「もう、起きていたのか」
「うん、もう目が覚めちゃった」
三つ年下の弟は今日から僕と同じ小学校に通うのだ。初めての学校で緊張しているのだと、僕にはよく分かった。僕らは少し神経質過ぎるんだ。弟の隣に座って、これから学校で体験するであろう事柄を話し合った。
僕は、弟に兄として余裕がある感じを見せたかったけど、臆病な僕は、本当は一人では、いても立ってもいられないくらいドキドキしていたんだ。
いつのまにか雨がしとしと降っていた。
しばらくすると、両親も起き出してきて、早めの朝食を囲った。お父さんはまた出張で、飛行機の便に間に合うようにと早めに出かけた。お母さんと僕と弟で、玄関に並んで見送った。お父さんの目は、気のせいか、ぼんやりしていた。
僕らは、学校へ行くには時間が早すぎたので、犬の散歩に行くことにした。飼い犬は散歩が大好きだし、僕らも大好きだ。お父さんの兄が僕らにくれた犬で、ロキという名前がついていた。僕らはすぐにロキが好きになった。犬のリードをどちらが持つかで、いつも喧嘩したくらい。行きと帰りで交代で持とうと約束しても、弟はいつもリードを離さない。そのくせ、犬がうんちをした時は、僕に任せるくせに。でも、僕と弟はロキを中心にして、仲良しだった。
あの日が来るまでは。
出かける時はいつも用を足さないと不安な僕が、行く準備でまごまごしていた時、弟はジャケットを着て外に出ていた。
もう、雨は上がったらしい。
突然、大きな声で騒ぐ弟の声が聞こえた。慌てて、お母さんが台所から走って出てきた。僕も急いで走ると、弟は何かをじっと見ていた。視線の先を追う。
何だ、これは。
一瞬何だか分からなかった。
グチャグチャになったぼろ雑巾みたいな何かがそこにあった。お母さんがキャアと甲高い悲鳴を上げ、僕らを激しくつかんで、家の中に引っ張り込んだ。
ロキが死んだ。
普通の犬の死に方ではなかった。僕たちは、残骸をまともに見てしまったから、茫然実質だった。そういえば近頃、近所で飼い犬や猫が虐殺される事件があったことを思い出した。
まさか、ロキは大丈夫だと思っていたのに。
毎日、公園でロキと走り回って遊ぶのが僕らの楽しみだった。特に、朝早い公園には誰もいなくて貸切だった。
弟は遊び始めると、興奮して、はしゃぎ過ぎることがよくあった。我を忘れたようにキャーキャー叫び続けている弟に、いくら声を掛けても無駄だ。でも、僕がロキを呼ぶと、ロキは弟を連れて僕のところでお座りする。「連れてきたよ」と言うような目で、僕を見上げる。僕は、いい子いい子してあげる。弟は「もう終わり?」という顔をするが、ロキが落ち着いて座っているのを見て、弟も落ち着きを取り戻す。
ある時には、トランプで負けたのがそんなに悔しかったのか、弟は家族の制止もきかず、トランプカードを歯で噛みちぎろうしたり、手足をバタバタさせて手当たり次第、物を壊そうとしたけど、ロキがすぐ弟に駆け寄って、顔をペロペロなめて、涙もなめて、口の中も舐めようとしたから、弟は我に返って笑った。
ロキは僕たち家族を仲良くさせようと一生懸命だったのだと思う。僕らの架け橋になってくれたロキがもう、いないなんて、信じられない。その後、少しの間僕らは口を利かなかった。なんとなく、家の中が寂しくて、重苦しい感じだった。
お母さんは弟をよく心配していた。僕も器用な方じゃないけど、弟はそれ以上に勝って不器用だ。何度注意されても同じ間違いを繰り返すし、よく転んで怪我をするから僕は自然と弟に目をかけてやらねばならない。お母さんは、僕に学校から友達と帰る時も、弟も一緒に連れて帰るようにと、口うるさく言った。僕と友達が遊ぶときは、いつでも弟が一緒だった。僕の家は共働きで学校から帰ってきても誰もいないから、弟を家に残しておくわけにはいかない。家でも燃やされたら大変だ。弟ならきっと、しでかすかもしれない。お母さんだって、仕事に集中できなくなってしまう。
でも本当は、友達の家に遊びに行くとき、弟を連れて行きたくなかったんだ。なぜなら、弟はゲームはとろいし、友達の家を走り回ったり、友達のお母さんが作ってくれたおやつを全部食べちゃうし、「もっと食べたい」ってねだるから。友達にはもう、弟を連れてきてほしくないと言われた。
僕はだんだん友達がいなくなっていった。学校で、僕の弟が変だとうわさされて、僕がいじめられた。弟は、僕がこんなに悲しくて悔しいことなんか少しも知らなかっただろう。僕は、鬱憤を晴らすように、事あるごとに弟に意地悪をするようになった。それは、ロキが死んでからのことだ。
***
僕は目を覚ました。いよいよ今日から学校が始まる。机の上の鳥の粘土を見る。粘土の鳥は、太陽の日を浴びて気持ちが良さそうだ。学校に行く準備はもうできている。
これで、僕は大丈夫だ。
僕は、緊張していた。でも、きっと粘土の鳥を見れば友達も、すごいと思ってくれるだろう。僕だって、みんなと同じ、イケてるところがあるんだと、見せつけるんだ。
けれども、それは叶わなかった。
弟が粘土を壊したから。
僕は、怒りが抑えられなくなっていた。ゲンコツで弟の顔を思いっきり殴った。弟は、火がついたように泣き出して、お母さんのところへ走っていった。お母さんがすごく怖い顔をして部屋に入ってきて、僕の頬をたたいた。弟は、鼻血が出ただけで、骨折はしていなかった。お母さんは、弟の顔を心配していた。大人になって、傷が残ったらどうしようと言ったけど、僕はいい気味だと思った。お母さんは、いつも僕じゃなく、弟の方を可愛がる。そのくせ、弟の面倒は僕に押し付けるんだ。僕が友達と遊ぶのを犠牲にしたことも、学校でいじめられていることも、それで僕が傷ついていることも、心配させないために言わなかったことなんて、お母さんは知らない。僕は、いつだって弟のために生きてきた。鳥の粘土を壊されたことなんて、本当はどうでも良かった。
ただ、僕の方をもっと見て欲しかっただけなんだ。でも、もう手遅れだった。僕の壊れた気持ちは、もう元には戻らなかった。
ロキが死んだのは、僕のせいだと弟は言い張った。近所で、不穏な事件が起きたことをテレビのニュースで知った後、弟はロキを自分の部屋で飼うと言い出した。僕は、弟がまたバカなことを言っていると思って、取り合わなかった。ロキに限って、そんなことにはならないと思っていたから。
僕が十八になった年の夏、弟は車にひかれて突然死んだ。横断歩道を歩いていた弟は、信号無視をした車にはねられたのだ。弟が転がっていた近くには、クッキーが粉々に散らばっていた。弟は小麦アレルギーだから、クッキーは食べない。僕は、自分のためにどんな些細なことでも、弟に言いつけた。
この日も、クッキーを買ってくるように命令したのだ。弟の見ている目の前で、見せつけるかのようにクッキーを食べることが、ほんの少しの慰めになっているくらい、僕は、意地の悪い小さい子みたいだった。弟は、僕の機嫌を損ねないように、クッキーを買いに行ったのだ。
お母さんは弟が死んだのは、僕のせいだと言った。お父さんは、僕のせいじゃないって言ったけど、何だか他人事のように、その目は冷たかった。僕たち家族は、弟が死んだことを一切口に出さないようにしていた。
僕はいつの間にか、三十になり、余命三ヶ月の治らない病気になっていた。病院の冷たい白い壁に囲まれた部屋で、ずっと天井ばかりを見て、吐き気とだるさに一人耐え続けていた。そして、いつしか眠りに落ちた。僕は、また夢を見始めた。
***
目の前の一匹の犬は、僕にフサフサのしっぽを元気に振って見せた。
「僕は死ぬんだろうか?」
ロキは大きな瞳で僕を、いつまでもどこまでも見続けた。でも、僕は信じなかった。
「君は本当のロキじゃない。ロキは殺されて死んだんだ。僕がロキを殺してしまったんだ」
犬は口を開いて話し始めた。
「アキが僕を信じるかどうかだよ。さあ、リードを持って。早く!」
「いや、僕は信じないぞ。誰も、誰も、信じない」
***
僕はまた、過去のある日を思い出していた。ロキが死んでから、両親はよく喧嘩するようになった。毎晩、隣の部屋で言い争う声と、怒鳴り声と、すすり泣きが聞こえるたびに、僕たちはイライラした。結局、両親は離婚した。お母さんは、僕じゃなくて弟の方を連れて行った。
本当は、僕はお母さんと一緒が良かったのに。
僕は、お父さんと大きな家に残された。でも、弟がどうしても僕がいないと、パニックを起こすから僕らは一緒になり、お母さんは別の家で暮らすことになった。
家族がこんな風になるはずじゃなかったのに。
僕たち家族は、近所では、仲の良い家族で評判だったんだ。休日、家族そろって出かける様子を見た人たちは、「仲が良くていいですね」と口々に言ったものだ。僕たち家族は、永遠に仲良し家族だって確信していたし、誇りに思っていた。
それなのに、お父さんはお母さんを裏切った。出張だと言って出かけたあの朝、本当は別の女の人と会うために出かけたんだ。
家族を見捨てて。
大きくなるにつれて、僕はいろんな真実を知っていった。家族の絆がこんなにも、たやすく壊れてしまうなんて僕は信じられなかったけど、これが現実なんだと思い知った時、唯一信じられるのは自分自身だけだと気づいた。他の誰も信用できなかった。僕は反抗的な大人になった。僕をそうさせたのは家族だと思うことで、自分の苦しみから逃れようとしていたに違いない。
***
眩いばかりの光が辺りを照らした。僕は逆に一瞬視界が真っ暗になった。と、すぐに目の前が見えてきた。別の大きな星が通り過ぎようとしていた。
「お兄ちゃん!」
その星に弟がいた。僕は弟の名前を叫んだ。弟は僕を見て、笑顔で手を振っていた。
「さあ、リードをつかんで!」
ロキの声に自然と体が動いて、リードをつかんだ。すると、犬は急に走り出して、宇宙の大きな暗闇へと足を踏み出していた。
大ジャンプだ。
長い時間、宙に浮いていて、ものすごくゆっくりと着地した。僕は、まだリードを離さずにいて、弟の方へダッと駆け寄った。ロキを真ん中にして弟を抱きしめた。
「ごめんな、ごめんな、ごめんな」
弟はきっと、僕のことを心底嫌いに違いない。でも、弟はやっぱり笑顔で僕に言った。
「お兄ちゃん、謝らないでよ。僕は、優しいお兄ちゃんと一緒に遊べたこと、本当に楽しかったんだよ。
お兄ちゃんは、遊びに行った先の友達のお母さんに僕が小麦アレルギーでクッキーを食べられないことを話してくれたんだよね。僕がなんでも食べちゃうのを、本気で怒ったのは、僕がアレルギーを起こさないようにするためだったんだよね。
僕はよくエピペンを忘れるから、お兄ちゃんがいつも携帯して、何度も助けてくれたよね。
ありがとう。
お父さんとお母さんが喧嘩して、僕が夜泣いて寝られなかった時、お話ししてくれたね。僕、あの時、お兄ちゃんが一緒にいてくれたから、気持ちが落ち着いたんだよ。
ありがとう。
ロキが死んだのは、お兄ちゃんのせいだって言ってごめんね。あまりにも、悲しくって、どうしようもなかったんだ。
それと、……、僕が死んだのは、お兄ちゃんのせいじゃないよ。僕は、ただ、今までお兄ちゃんが僕のためにいろいろ我慢してくれていたから、喜んでもらいたくってさ。あの時は、本当にそれだけだったんだ。
だから、もう謝らないで。
自分を責めないで。
僕もロキも、大丈夫だから、安心していいんだよ」
目から溢れ出した涙は、シャボン玉のように宙にプカプカ浮かんで、真っ暗な宇宙空間に漂って消えていく。ロキが嬉しそうに僕の涙をなめたり、涙の球を追いかけたりした。
僕たちは昔みたいに、駆け回ったんだ。しばらくすると、弟は言った。
「お兄ちゃんは、そろそろ元の世界に戻らないといけないよ」
弟は、急に真面目な顔になって僕の腕をつかんだ。
「元の世界って?」
「さあ、帰ろう!」
「嫌だ! ここで一緒にいるんだ! また、別れ離れなんて嫌だよ!」
「元の世界でも、きっと会えるよ! 信じて! お兄ちゃん」
「ワン!」
***
僕が再び、目を開くとあの病室だった。窓の外がやけに騒がしい。僕は、締め切ったカーテンを開けると、一匹の犬と走る子どもの姿が見えた。もちろん、ロキでも弟でもなかった。
僕はあと、もう少しで死ぬ。悲しいけれど、もう後悔はなかった。苦しい治療はもうやめにした。今は、痛み止めがよく効いていて、体の痛みはさっぱりなかった。苦しまずに死ねるんだ。そう思うと嬉しかった。
***
彼女はそこでペンを置いた。もうすぐ夜更けだ。空がほんのり赤みを帯びてきた。
「この物語の終わりを、あなたは知っているの?」
ずっと、彼女の指先を見つめていた青年は言った。
「僕が死ぬの。そう、書いてあるでしょ?
『僕はあと、もう少しで死ぬ。……苦しまずに死ねるんだ』って。
だから、きっといい死に方なんだ。ロキよりずっとね」
「あなた、弟がどうなったのか知ってる?」
「君も知っているじゃないか。弟は交通事故で死んだんだ」
「いいえ、この物語は、あたしが作ったの。だから、あなたは本当の最後を知らない」
「……」
青年は驚いた顔して、すぐ笑った。
「ハハハハ」
「あなたは死なない。死なせない。いい死に方なんてないはず。そんな結末なんて悲しすぎるわよ。最後はね……、こうよ」
彼女は再びペンを手にした。一呼吸すると、またスラスラと筆を走らせ始めた。
***
僕は、ふとベッド脇のテーブルに視線を向けた。そこにあったのは、鳥の形をした粘土だった。近くに白い紙が置いてあった。僕は仰向けでそれを読んだ。
「お兄ちゃん、鳥の粘土、壊してゴメン」
僕は跳ね起きて病室を飛び出して外に出た。弟は、病院の庭で一人の子どもと犬を見守っていた。
「お兄ちゃん! 目覚めたの!?」
僕らは抱き合った。小さい子どもが赤いリードを手にして近寄ってきた。弟は僕に言った。
「僕の子どもさ」
今度は子どもが丸い目をして自慢げに僕に言った。
「僕の犬、ペロっていうんだ」
僕は改めて、弟の子どもとペロを抱きしめた。
不思議なことは起こるものだ。
それと、もう一つ不思議なのは、僕の余命があとわずかだったはずなのに、僕の中にあった悪いものは嘘みたいに跡形もなく無くなっていたのだ。
きっと、僕はずっと悪い夢でも見ていたに違いない。
生きる意味なんて考えるよりも、とにかく、今この時を大切に生きよう。
「これでおしまい」
「……」
青年は嬉しそうに泣いていた。朝日が涙をキラキラ光らせていた。
「ありがとう」
「やっぱり、ラストはこうロマンチックじゃないとね」
彼女は、恥ずかしげに笑った。
「本当にありがとう。素敵な最期だったよ。これからも、いい話をたくさん作ってね」
青年はそう言うと、光に包まれて流れ星のように消えていった。彼女は、涙が止まらなかった。物を作る感動が今、彼女の胸の中でグッと熱く燃えていた。
美しい一日が始まった。
窓をいっぱいに開けて、両手をグッと前に伸ばして、大きく息を吸い込んだ。透き通った冷たい空気が肺の中へ取り込まれていく。
こんなに空気がおいしかったなんて、知らなかった。
こんなに太陽は美しんだ。
彼女はいつまでも眺めていた。
広大な宇宙に浮かぶ、燃える惑星から注がれる温かな光がもう、この地球を包み込もうとしていた。
私は、今日もこの星の片隅で生きていきます。
最後まで、読んで下さりありがとうございました。