盗まれた試薬.4
本日二話目です
瞬間、私達の間に流れる空気が張り詰めた。
もともと少しだけ開けていた扉の隙間から覗けば、黒いフードを被った人が静かに研究室の中に入ってくる。
暗い部屋の中、月明かりにぼんやりと浮かぶ闇と同化しそうなシルエットに、私は息を飲んだ。
膝を突き覗く私の上で、腰を屈め同じように隙間を覗いているレイモンド様を見上げれば、ハッと目を見開き次いで顔をこわばらせている。ぎゅっと結ばれた唇が微かに震えているのが、微かな灯の中でも分かった。
ダボリとした外套を着ていても分かる小柄なシルエット、フードを頭まで被ってはいるけれど、はらりと落ちる長く赤い髪。
――パトリシアさんだ。
でもまさか彼女が試薬を盗むなんて、そんなはずが……。
信じられないでいると、パトリシアさんは迷うことなくまっすぐ進み共通の執務机の前に立った。手にしていたカンテラに灯を付け執務机の隅に置くと、慣れた手つきで置かれたままの書類をぱらぱらと見ていく。
あれは……今日、ハリストン様に頼まれ整理した書類。項目順にリストアップして一覧表にし、簡単な要約も書いてある。それ以外にも数枚、複雑な計算式を書き留めたものや、文献の内容をまとめた書類もある。
どれも初めてする仕事で、普段任されるものより難しかった。だから、とても時間がかかったけれど、それなりに上手く仕上げたつもりの書類だ。
まさか、と思う気持ち半分。残りは「やっぱり」だ。
「オフィーリア、あの書類はもしかして……」
「はい、ハリストン様に頼まれ今日作ったものです」
小声で聞かれ答えれば、頭上からごくんと喉を鳴らす音が聞こえた。
パトリシアさんは躊躇うことなく、その書類を破り捨てた。まるで恨みがあるかのように、何度も、何度も小さくちぎっていく。静かな部屋の中、紙を破る音だけが響く。
机の上のカンテラが下から照らすパトリシアさんの形相は醜く歪み、普段のカラリとした雰囲気は消し飛んでいた。その憎悪に背筋が冷たくなる。今までも気づいてはいたけれど、こうやって明確な悪意を向けられると胸が凍り付くように痛い。
視界の隅に、ぎゅっと拳を握るレイモンド様の手が見えた。今にも飛び出していきたいところをかろうじて堪えているのは、今回の見張りの目的が試薬を盗んだ犯人を捕まえることだから。
私が作った書類が細かくちぎられ机の上に小さな山を作る。パトリシアさんはそれを見て、唇の端を上げるとジェイムス様の執務室へと入っていった。
そこには試薬がある。時が止まったかのように固唾を呑んで見ていると、直径十センチほどのブリキ缶を持って出てきた。
その中に、先程細かく千切った書類を入れ床に置き火をつければ、ぼっと赤い炎が立ち上る。赤く照らされた顔が薄らと笑っている。
紙数枚を燃やすのに時間はかからず、すぐに部屋は元の闇へと戻った。
火が消えたのを確認すると、ポケットから布袋を取り出しブリキ缶に入れ軽く揺する。黒く見えたので、おそらく土だと思う。
まだ熱いブリキ缶をハンカチを添えながら持つと、部屋の隅へと向かった。そこに明日捨てる予定の薬草の根が箱に入って置いてある。新鮮な状態で仕入れる必要があったから土のついた根っこごと届いたものだ。
ブリキ缶の中の灰と土を、箱の中に入れるとざっくりと手で混ぜる。もともと土が入っていたから、この光景を見ていなかったら何の違和感もないまま、箱は明日捨てられていたでしょう。
作業を終えると、「はぁ」と大きく息を吐きハンカチで手を拭く。ここからは後ろ姿しか見えないけれど、弧を描く唇が脳裏に浮かんだ。
振り返り執務机に向かうと、置いてあったカンテラを手に取り灯をフッと消し、扉へと向かう。それをレイモンド様が引き留めようと扉を開けるも、一拍早く向かいの物置の扉が開いた。
「パトリシア、今何をした?」
はっきりと響くハリストン様の声。
信じられないと言う顔で振り返ったパトリシアさんの肩を、飛び出したレイモンド様がぐっと掴む。
「どうしてオフィーリアの作った書類を破って燃やしたんだ!?」
「レ、レイモンド、どうしてあなたまでここに? それにジェイムス様……オフィーリアまで!」
月明かりだけの部屋でも、パトリシアさんの狼狽える表情が良く見えた。
ハシバミ色の瞳を大きく見開き、顔を青くさせている。
ジェイムス様がカンテラに灯をつけ私に手渡すと、もう一つ灯をつけご自分の実験室へと向かう。
「今までも書類が紛失したことがあったがそれは全てパトリシア、お前がやったことなのか!?」
普段の優しい声音からは想像もできない低い声で、レイモンド様がパトリシアさんに詰め寄る。瞳が揺れているのは、怒りと信じらないと言う気持ちが入り混じっているからで、鋭い視線に反して眉は悲しそうに下がっている。
「し、知らないわ、なんのこと。さっき燃やしたのは私が作った書類よ。書類の紛失は、素人の彼女がどこかに置いて……。レイモンド! 私を信じて。私達はもう何年も一緒に学び切磋琢磨した仲じゃない」
縋りつく瞳に、レイモンド様は眉を顰め首を振った。はっきりと表された拒絶と冷たい視線にパトリシアさんの顔が蒼白になる。
ハリストン様が二人に近づく。
「燃えた書類は、俺がオフィーリアに整理するよう頼んだものだ。帰る前に目を通しあの場所に置いたから間違いない。とても上手くできていた。専門的な知識を学ばずにあそこまでできるのは大したものだと思うよ。そういう意味でもオフィーリアは素人ではない」
冷徹な声。感情的ではないのが、却って威厳を増し反論の余地を与えない。
その声を聞いて幾分か冷静さを取り戻したレイモンド様が、パトリシアさんの肩から手を離す。
「幻滅したよ、パトリシア。君がそんなことをするなんて思っていなかった」
「レイモンド! 私は貴方のためを思ってやったのよ」
「オフィーリアの仕事を邪魔することがどうして俺のためになるんだ。今までもそうやって彼女を傷つけて来たのか? もしかしてオフィーリアの手がかぶれたのも、薬草店に行くとき迷子になったのもわざとだったのか……」
「違う! 違う違うわ! ねぇ、聞いて。貴方はあの女に付け入れられ騙されているのよ。一度私と話をしましょう。そうすればきっと分かってくれるわ」
腕に縋りついてきたパトリシアさんを、レイモンド様は視線で射る。
軽蔑と侮蔑が交じった視線。
纏わりつく令嬢に対して見せるそれよりも、もっと冷たい視線は、レイモンド様の傍に唯一いた女性であるパトリシアさんの矜持を充分に傷つけるものだと思う。
身体を小さく震わせながら、パトリシアさんが半歩退く。
でも、まだ諦めてはないようで唇が開きかけたその時。
「レイモンド、パトリシア、その話はあとでゆっくりしよう。それより今は試薬を盗んだ犯人を追い詰めなくては」
実験室から出て来たジェイムス様が二人を制する。その手には小さな瓶に入った試薬を持っていた。
「試薬はあったのですね。ではパトリシアさんが盗んだわけではなかった」
「そのようだな。いったいどういうことだ」
訳が分からないと、ジェイムス様はガシガシと頭を掻く。
やっぱり。だってパトリシアさんがレイモンド様の研究の邪魔をするはずがないもの。そこだけは絶対にぶれないはず。
私達がどうしてここにいるのか知らないパトリシアさんは、試薬と私達を交互に見て動揺を露わにする。
「試薬、犯人? えっ、もしかして私、試薬を盗んだと思われているの? それは違うわ。レイモンドが作ったものを私が盗むはずないじゃない! 信じて!! 私は試薬を盗んでいないわ」
こういうところは頭が良いな、と思う。状況を把握し、すぐに弁解を始めた。
「私もあなたが盗んだとは思わないわ。貴女がしたのはレイモンド様の婚約者である私への嫌がらせ、それだけですよね。貴女がレイモンド様の邪魔をするはずないですもの」
にこりと微笑めば、パトリシアさんの顔が怒りと羞恥で真っ赤になる。意地悪している自覚はあるけれど、私、されてばかりで泣き寝入りする性格ではないの。目の前で書類を破られて黙ってなんていられない。
「俺の婚約者であるオフィーリア……?」
レイモンド様は戸惑うように復唱する。あからさまな好意しか知らなかったレイモンド様は、やっと秘めた思いに気が付いたようで、目を大きくしてパトリシアさんを見た。
パトリシアさんにしてみれば、屈辱でしょうね。ずっと隠していた熱い思いを、婚約者である私に暴露されたのだから。でも、これぐらいはして許されるはず。
「貴女のしたことは許せません。言いたいことは沢山ありますが、今は試薬を盗んだ犯人を探すのが先です。ところで、まだ見張りを続けますか? でも犯人がどこかでこの光景を見ていて、部屋に隠れていた私達の存在に気が付いた可能性もありますけど」
この回を書いてから胃が痛く。多分パトリシア犯人→断罪の方が無難なんです。賛否両論とかにならないんです。でも、罪としては窃盗で数年の禁固刑、へたすれば執行猶予(その概念が異世界にあるか微妙ですが)。彼女だと、私悪くない!と主張を変えない可能性も。
だから物理的断罪と精神的なもの両方が必要と考えました。そこに繋げるためにも先に窃盗犯、片付けます! ちょっと不完全燃焼だと思いますが、あと数話お待ちください。
残り四話。ラスト二話はまとめて明後日朝投稿にしようと思います(予定)
お読み頂きありがとうございます。興味を持って下さった方、是非ブックマークお願いします!
☆、いいねが増える度に励まされています。ありがとうございます。