歩行者用信号
上から「信号が、青になりました」という声をかける。
人々はその声に反応してスマートフォンから顔を上げ、ぞろぞろと横断歩道を渡る。
数年前ここに取り付けられてから、こうアナウンスするのが、歩行者用信号である自分の仕事だった。体に障害を持つ人、高齢者の為に、毎日こうやって、青信号になったことを伝えている。
しかし、最近はどうか。ここを通る人の大半は光るだけの板に夢中になり、ひどい時は、紐付きの耳栓をしてまるで声を聞こうとしない。そんな様子を見ていると、段々、「自分はこんな恩知らずの為に仕事をしているのではない。」と、非常に危ない思考に陥るようになってきた。
そんなある日、いつもの様に、人々が横断歩道の前で止まり、光る板を時々弄りながら青信号を待っている時だった。
ふらふらと、後ろの方から女性が歩いてきた。彼女は光る板を持ち、それに伴って顔は伏せられ、背筋を曲げ、ブルーライトに血色のない顔が反射していた。そして彼女は、あろうことか、歩いたまま立ち止まらずに、そのまま横断歩道を渡ろうとしていたのだ。
光る板に夢中な人々は気づかない。対して彼女はどんどん進む。
目の前からトラックが来ていることも知らずに。
ふと、自分の頭上から、ピピッという音と共に、「信号は、赤です」という声が降ってきた。思わず立ち止まり、顔を上げる。その瞬間、目の前をすごいスピードでトラックが通り抜けた。
私は驚きで思わず後ろに引き下がり、最前列にいた学生にぶつかってしまった。慌てて会釈をして謝ると、元の列に紛れて、隣にいる歩行者信号を眺めた。
危ない所だった、もう少ししたら轢かれていた。というか、この信号機に、赤信号を伝える機能なんて付いてたんだ、今まで聞いたことない声してたな、もしかして助けてくれたのかな、なんて暫しの空想に耽る。
そんな数秒の空想に浸っている内に、また上から無機質な「信号は、青です」なんて声が聞こえ、人々が歩き出した。私も信号機の隣から離れ、仕事場へ向かう。
その際に小さく、「ありがとう。」という言葉を残して。
歩行者用信号はまた、赤になった。




