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アカネ月の娘 2  作者: 遠部右喬
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巫女の魂

 昔々、まだこの世に月が三つ並んでいた程大昔、人間は今とは全く違う生活を送っていた。

 馬よりも早く遠くまで走る乗り物や、離れた者同士で会話する術を手に入れたりと、沢山の便利な道具を生み出して使っていた。もっとも、それらの道具は、あくまで二次的な産物、応用に過ぎなかった。彼らは、この世の仕組みを解き明かそうと、様々な学問を発展させていた。それらを生活に応用し、豊かさを享受していた。

 人間は自己を認識する際、周囲の状態の確認を必要とした。それは、世界がどのように成り立っているかを知りたがる気持ちに自然と繋がり、その「知の欲求」は、学問を発展させる原動力になっていた。沢山の専門の学問が発展した。彼ら学問の徒は、科学者と呼ばれていた。彼らは、世界の仕組みを知り利用する事で、この世の多数を幸せに出来ると考えていた。

 中でも、特に彼らが関心を持った分野があった。最大と最小の単位を、彼らは知りたがったのだ。自分達が暮らしている世界は、どこまで大きさがあるのか、そして、我々は何から出来ているのか、という事だ。多くの科学者が天を観測し、同時に、極小の世界を探っていた。


 一方、呪術師と呼ばれる人々が居た。彼らは世界の仕組みに興味はなく、既にある全ての存在に寄り添って生きることを是としていた。寄り添って生きる為には、必ずしも仕組みを知っている必要はない。受け入れ、心を通わせる事を選んだ人々だった。

 その生き方は、もしかしたら彼らが「魂を視る眼」を持って生まれてきたからかもしれない。その眼を使って、彼らは生計を立てていた。痛みを伴う病に侵された人の苦痛を不思議な術で和らげたり、暴れる獣を大人しくしたりと、専ら世の営みにその力を使っていた。彼らにとって、必要ならば人も獣も心を操るのは、そう難しいことではなかった。魂に語り掛け、呪い殺すことすら可能だった。ただ、彼らがその力を無暗に揮う事はなかった。既に飽和状態になっていた文明の為に犠牲になっていた大地を生きながらえさせる為にある力だと、多くの呪術師は考えていた。


「アタシら神官と魔術使いは、かつて科学者と呪術師と呼ばれていた」


 科学者も呪術師も、一見正反対のようだったが、それぞれの方法で世界を愛していた。

 だが、彼らは決して手を取り合う事はなかった。科学者達は呪術師を「心を惑わすのが精一杯の愚鈍な詐欺師」と呼び、呪術師は科学者を「心を繋ぐことも出来ない哀れな頭でっかち」と蔑んだ。

 そして、事件が起きた。最初に、天空を観測していた科学者達がそれに気が付いた。

 大地に、遥か彼方から隕石が近づいて来ていた。かなりの大きさではあったが、その軌道は大地に落下するようなものではなかった。ただ、三つの月の内最も小さなワタ月のすぐ傍を掠める様に飛んで来ていた。それがどういう事態を招くかは、科学者たちの中でも意見が分かれていた。

 論議を重ねている間にも、どんどんと隕石は近付いて来る。だが、どんなに話し合ったところで、当時の技術力でも観測を続けるのが精一杯だった。豊かな暮らしを享受する技術はあったが、それは、はるか遠くから飛来する天体の軌道を変えることが出来る程ではなかったのだ。

 結局、話し合いは平行線のまま、ワタ月のすぐ傍を隕石は通り過ぎていった。

 それから数か月、一見何事も無かった様に日々は過ぎていき、何人かの楽観的な科学者たちは胸を撫で下ろした。

 しかし、事態は少しづつ変化していた。一部の科学者たちが危惧していた事が、現実になり始めていた。考え得る最悪の事態だった。

 ワタ月は、まるで恋人を追いかけていくように、隕石の後を追って大地から遠ざかり始めていた。三つの月に見守られ育まれていた大地にとって、あってはならないことだった。

 これまで行われてきた研究で、月と呼ばれている衛星達は、大地と呼ばれるこの惑星に対して不自然な程大きいということが言われ続けていた。

 多くの衛星を持つ惑星は数多あるが、どの衛星も惑星に対してもっと小さいのが普通だった。大きければ大きい程、たがいの重力や自転に影響しあってしまう。軌道は常に不安定になり、いずれは惑星からはじき出されてしまうのだ。

 この大きさの衛星同士が、互いにぶつかりも弾き飛ばされたりもせず、一つの惑星を安定して廻り続けるのは奇跡的なことだった。三つの月は、惑星までの距離を危うい均衡で永らく保っていた。だが、その奇跡にも終わりはあったのだ。

 夜空の風景が変わるというだけではすまない。この世界は全て、月が三つあることが前提で成立していた。全ての生き物も、大地も、それぞれの月自体も、そして時間の尺度すら、月が三つ揃うことに因って歴史を刻んで来たのだ。その内の一つが欠けるということは、大地を根底から変えることに他ならない。

 程なくして、あちらこちらで呪術師達が異変に気付き始めた。僅かづつではあるが、異様な行動をとる生き物が見られるようになった。渡り鳥が大量に消えてしまい、大人しかった動物は落ち着きを無くし人を襲い、芽吹くはずの植物が未だその兆候もない。浜辺では、魚が大量に打ちあがっているのが見つかった。そして、世界各地で体調を崩す者が激増した。

 やがて、地震や天候不順などの被害が目立ち始めた。

 元々一番小さかったワタ月だが、以前より更に小さく見えることに気付く者が出始めるのは時間の問題だった。

 その頃には、一日の長さもほんの少しづつだが、確実に長くなっていた。体内時計の狂った生き物達は弱ったものから消えていった。大規模な地震で、島や大陸が海に消えてしまった場所もあった。

 更に事態は悪化した。ハタ月とアカネ月が今までと違う動きを見せるようになった。

 残った二つの月は、お互いと大地へ作用する力の均衡が破れたせいで、軌道が安定しなくなっていた。そしてそう遠くない将来、どちらもワタ月の様にこの天を去っていくと予測された。それがどういう事態を招くのかは考えるまでもなかった。このままでは、様々な命を育んだ大地の歴史は、あと何百年も持たないだろう。

 科学も呪術も無力だった。観測設備も技術設備も、まともに残っているのは僅かだった。そもそも、それらの設備を扱える者自体、災害に巻き込まれて数を減らしていた。

 生き残った科学者の一人がある提案をしたのは、そんな時だった。

 その科学者はまだ若い男で、才能はあるが、変わり者として有名だった。

 彼の専門分野は極小の世界を解き明かす事だったが、他の様々な分野の事も、それぞれの専門家が舌を巻く程精通していた。その知識の殆どが、独学で得たものだった。

 彼は、彼の師以外の科学者と交流することは殆どなかった。いつも一人で、黙々と研究を続けていた。親しい友人もなく、誰も、彼の師ですら、普段の彼の生活を詳しく知る者は居なかった。人付き合いを避けているというより、自分の知的欲求を満たすこと以外に、まったく興味がないようだった。一度だけ彼の師が本人から聞いた話では、既に天涯孤独の身らしかったが、そのことに感傷もない様で淡々と話していたらしい。

 そんな彼が、生き残った研究者達に、自ら研究内容とその実現に向けた計画を発表した。それは、この世界を存続させ得る、当時最も有力なものだった。問題は、それには何年か時間がかかるという事、そして、今の処、世界で彼一人にしか成し得ないだろうという事だった。

 科学者達は、その計画に対して議論を重ねた。たった一人にしか出来ない事を許容出来る筈もなかった。だが、時間は有限だ。彼の計画以外にも様々な案が出されたが、どれも実現の為には膨大な資源と時間が必要だということが判っただけだった。今の世界にそれだけの余裕は無く、彼の計画が採用されることになった。

 勿論、彼の計画が実行されてからも様々な手立ては考えられたが、結局、それ以上の案が出されることはなかった。


「それが、巫女の祈りを生むことになったんだ」

 ウネリには、訳が分からなかった。あの昔話が現実に起きた事だというのは分かったが、それが、何故ファイに結びつくのか理解が出来なかった。

「これから先の話は、本来神官か魔術使いしか知らない話だ」


 その若い科学者は、いつも不思議に思っていた。何が、彼を彼たらしめているのかと。

 彼が物心ついた時には、すでに天涯孤独で、同じような身の上の子供達が暮らす施設にいた。その施設で、彼は浮いた存在だった。自分の境遇を嘆くには彼は賢過ぎ、他の子等と寂しさを分かち合うには感傷が足りなかった。何より、彼には他の子が視えないものが視えていた。

 彼は、呪術師の眼を持っていたのだ。

 しかし、そのことに気付くものは誰も居なかった。本人ですら、そのことに気付いてはいなかった。ただ、施設の職員や子供達、時には植物や鉱物にも不思議な糸が絡まったり千切れてしまっていたりするのが視え、それが色を変えたりするのが面白いなという位の感覚で、それを誰かと分かち合おうと思うこともなかった。だから、視えたものを誰かに話すことも無かった。ただ、黙って自分より幼い子の世話をしたりしながら日々を過ごしていた。

 ある日、彼の暮らす施設に一人の呪術師がやってきた。

 呪術師達は、定期的に色々な施設や病院を回っており、必要ならば呪術の力を使って、子供達の心の傷を癒したりしていた。その呪術師も、その為にこの施設を訪れたのだ。

 その呪術師は、子供達と一人ひとりと面談し、最後に彼の番になった。

 面談中、呪術師は、彼の視線が遠くを見るようにして自分を見ていることに気が付いた。

「何を見ているんだい?」

「? おじさんの色を視ているんだよ」

 呪術師ははっとした。

「ふうん。どんな色が視えるんだい? 他には何が視える?」

「何だか色んな色が交じっているから、何色って説明しづらいよ。他には、糸……みたいなものかな、が視えるよ。でも、人によって随分数が違うみたい。僕にはちょっとしかないもの。おじさんには、随分沢山の糸が絡んでるんだね。動きづらくないの?」

 呪術師は確信した。この子は、呪術師の眼を持っている。

 程なくして、彼は施設を出る事になった。面談にやって来た呪術師に引き取られることになったのだ。

 彼は、呪術師から様々な事を教わった。彼の視ているものは、呪術師以外に視えないものだと知った。普段の生活ではそれらを視ないようにする方法を学び、初めて呪術師以外の者の視ている視界を知った。

 彼を引き取った呪術師やその仲間達は、口を揃えて言った。

「我々のこの力は、天からの授かりものなのだ。だから天に代わり、この世界をより良いものにする為に使うのが我々の使命であり喜びなのだ」

 呪術師達の教えてくれる知識は面白かったが、その主張は納得のいくものではなかった。

 彼には、特別な力を持って生まれたのは単なる偶然であり、それ以上でも以下でもないように思われた。使命など感じる筈もなく、まして喜びなど感じたことは一度もない。

 そもそも、何故呪術師達は、天などというあやふやなものを盲目的に信じているのか。特別な力を持っていても、自分にはそんなもの視えたことがない。

 世界を良くする為だと言うのなら、何故一部の人間にしか持ち得ないのか。「良い世界」とはなんだ?

 彼は、親代わりになった呪術師にそう聞いてみた。返ってきたのは、まるで可哀想な者でも見る様な目だった。

「お前は、この力を素晴らしいものだとは思わないのか?」

 そう問い返され、彼は二度とその疑問を口に出すことはしなかった。

 月日は流れ、彼が少年から青年になる頃、彼は呪術師達の教えに限界を感じていた。

 その頃には、これまで学んだ術だけではなく、彼独自の術を編み出すまでになっており、ほかの呪術師に頼られることもしばしばだった。

 だが、彼の中では、幼い頃の疑問が未だに燻り続けていた。何故、呪術師達は、誰も特殊な能力に疑問を持たないのか。己の事なのに、無関心過ぎる。もっと、この力について学ぶべきではないのか。

 ある日、彼の親代わりとなった呪術師は彼に言った。

「お前が、我らの力についてお前なりに考えていることは解っていた。だが、お前の知りたいことは、我らには関心が無いのも事実だ。誰もお前の問いに答えられる者は居ないだろう……お前がどうしてもその疑問を解き明かしたいというなら、我ら以外の者から学ぶしかないだろう」

 彼は、師の伝手で、科学者達の卵たちが多く学ぶ学校に入学することになった。それは、呪術師達と袂を分かつということだった。

「我らは科学者という者を許せない事情があるのだ。大昔の事ではあるが、科学者達が我らを研究対象にし、実験とやらの為に何人も犠牲になった過去があるのだ。その事が世間から非難を受け、彼らは非人道的な扱いをしたことを詫びて、それ以来我らと手を取ることはなかった。

 勿論、そのような心無い者など、ごく一部だろう。だが、彼らの中には、真実とやらの為に他の全てを捧げようとする者がいることを忘れるな。お前は、その眼を隠して生きてゆけ」

 彼は、師の言う事を聞きながらも、これからの人生に心が躍るのを感じた。自分以外にも真実を求める者が居たことに、感動すらしていた。今度こそ、自分の知りたいことが解るかもしれないのだ。

 彼は、今までと名を変え、呪術師の力を隠し、一人で生活をしながら寝る間を惜しんで学問に打ち込んだ。優秀な成績で学問を修め、学校を卒業する頃には、若手の研究者の中でも抜きんでた存在になりつつあった。様々な研究施設が、彼の頭脳を欲した。その中から、彼の疑問に答えを見出せそうな研究所に入った。極小の世界からこの世の成り立ちを探る研究で名の知れた所だ。

 極小の世界は、とても興味深かった。どうやら、生き物もそれ以外も、形あるものも無いものも全て、同じ極小のものから成り立っているらしい。

 同じものから出来ているのに様々な事象があるのは、その状態が変化するだけのことなのだ。その存在は、常に揺らいでいる。揺らぎにたまたま方向性が与えられたものが、事象として確認出来る。

 この揺らぎをを決定づけているのが天なら、確かに天とやらはあるのかもしれないと、初めてそう思えた。

 彼の長年の疑問は、もう少しで解消される処まで来ていた。

 形を成さない程の小さな世界は常に揺らぎに満ちていて、時間の概念すらあやふやな様だった。その揺らぎは、何かの弾みで形を変える。ただし、余りにも小さい世界な上、本来ならそこに直接働きかけるのに大変な技術と力場が必要なのだ。科学者の持つ技術力でも、おいそれと操れるものではなかった。それはつまり、この世は全て弾み……呪術師達が天と呼ぶ偶然が作り上げてきたものだということだ。そして、呪術師の力とは、その極小の世界に直接触れられる力を有しているのではないかと彼は考えた。後は、この仮説を実証するだけだ。

 彼は己の力を使い、ひっそりと実験を始めた。最初は、全く感覚がつかめず、失敗ばかりだった。例えば、何の変哲もない水を石に変えるのは、一度も成功しなかった。

 揺らぎを利用すれば過去や未来に干渉出来るかもしれないと考え試してみたが、干渉はおろか、見る事すらかなわなかった。

 呪術師の眼を使っても視る事が出来ない世界にどうやって働きかけたらいいのか、それは雲に触れるような問題だった。

 彼は、方法を変えた。既に形が決定されてしまっているものを変えたり、時間に干渉することは、今の処難しいらしい。ならば、形のない状態の物を他の状態に置き変える事は出来ないだろうか。本来ならば目に見えない人の心に働きかける事が可能なのだから、それを応用すればいいのではないかと考えたのだ。自分が視ているものを大気に映し出し、実際に存在として確定させる。そして、明確に存在を創造出来るよう、様々な数式を術に併用した。これは、案外上手くいった。

 ただし、これには大変な労力が必要だった。無限を有限に見せる事と無限を有限にする事は、似て非なるものだった。例えば、何も無いように見える空中に小さな火の玉を創るのは比較的楽だったが、小指の先程の大きさの石を生成するのでは、まるで大きな岩を何時間も持ち上げ続けている様な疲労に襲われる。労力に対して得られるものが少な過ぎた。訓練すればもっと大きな物体も生成可能になると思われたが、自分より大きな質量を作り出すことは、今後も出来そうもないと解った。

 それでも、彼は満足だった。今の処この結果が精一杯とはいえ、少なくとも、彼の仮説の一部は間違ってはいなかったことが立証された。呪術師の能力とは、偶然を必然にする力なのだ。

 こうして彼は、呪術と数式を融合させた最初の者になった。

 尤も、その能力で何かを成せる程万能ではない。能力に個人差もある。何より、この世界の仕組みを理解していなければ、状態を変化させる事は難しい。それが何から出来ているのかを知り、定まらない状態のものを感知できる能力が必要だった。

 それはつまり、科学者であり呪術師でもある彼だけが、それを行えるという事に他ならない。だが、彼は何を成せるかには全く興味がなかった。彼はただ、能力の正体と、なぜこの能力があるのかを知りたいだけなのだ。能力の使い道など、心底どうでもよかった。増々、研究にのめり込んでいった。

 そんなある日、ワタ月が遠ざかり始めていることが、彼の耳に入った。このままなら、いずれ世界が崩壊を迎える事は明白だった。既に、隣国は地震に因って甚大な被害を被っていた。他の国々も、大小の差ははあるが、様々な災害に見舞われ出していた。彼の暮らす土地は、まださほど被害を受けてはいなかったが、それも時間の問題だった。

 彼は焦った。未だ路半ばだというのに、世界の崩壊という形で自分の探求は終わろうとしている。それが許せなかった。もっともっと、時間さえあれば、と。

 彼は他の科学者達と共に、今残された物で、何とか世界の崩壊を食い止める手立てはないかと考えた。

 ワタ月を元に戻すことはもう出来ない。残った二つの月も、遠からずこの大地を去って行くだろう。今の災害を乗り切ったところで、大地は月との関係が前提で全てを育んで来たのだ。月が一つも無い世界で生きていけるものは、恐らく皆無だ。

 仮に、ハタ月とアカネ月の両方を残せたとして、月が二つある限り、今回のようなことを再び起こさない保証はない。だが、月が一つなら? 大地と最も安定する角度で、生物に最適に作用する距離で、一つだけの月を留めておくことが可能なら?

 それが可能な技術は、今の処存在しない。理論では可能であっても、実行することが出来なければ意味がない。

 しかし、彼にはその理論を実行出来る方法があったのだ。誰もが持ち得る技術の力ではなく、一部の者、正確には呪術師でもある彼だけの力だ。

 彼は初めて、科学者達に自分の持つ能力を告げた。その力を使えば、月を操る事は不可能ではないかもしれないと。

 科学者達は、彼がとうとうおかしくなってしまったと思った。

「一つの天体に作用を及ぼすのに、どれだけの労力が必要だと思っているんだ。仮に、その力があったとしても、この星との距離や角度を計算し、かつ、状態を維持させるのにも力が必要になる。無理だ」

 皆に馬鹿にされても、彼は淡々と語った。

「計算も維持も殆ど必要はありません。それは、月自身がやってくれます。必要なのは、不安定になっている力そのものに安定のきっかけを与えてやることだけなのです」

 彼の提案した計画とは、月の力に人としての仮の形を与える方法だった。最初の形成には、術者の体力と世界に満ちている極小世界の一部を変換して行う。育成中は、普通の生物同様、食事でその成分を賄わせる。

 月の力にある程度大地を慕う心が育ったら、形を作っていた成分は大地へ還す。形を失った月の力は、本来の世界へと還って行く。そして、子が親を慕うように、自ら大地に寄り添うように力を変換するようになる。

 この計画の利点は、月の力に意思を持たせる労力だけで済み、機械的な補助や広い敷地などを必要としないということだ。

 形の定まらないものにこそより作用する、呪術師の能力があればの計画だった。

 科学者達は、その計画の実用性を真剣に考え始めた。だが、彼の様な能力を持たない者達からすれば、当然それが可能なのかが疑われた。ならばと、他の呪術師達に意見を聞いてみる事となった。長年の諍いを水に流して欲しいと彼らに詫び、現在世界で起きている状況を説明し、その上で、彼の計画が可能なのか尋ねた。その呪術師達の中には、かつての彼の養父もいた。

 だが、計画を聞かされた呪術師達には、計画の成否以前のことを問題にしている者も少なからず居た。この世界が崩壊するなら、それも自然の掟なのだ。それを受け入れる事も已む無しというのだ。

 呪術師達は、今まで世界の秩序と寄り添って生きてきた。頭で考えるより、実際の生き方で示してきた。彼らにとって、例え破滅が待っていようと、その秩序を変える事は容認出来ることではなかった。まして、今まで命そのものを作り出してきた偉大な力に干渉するなどという驕った考え方は、なによりも恥ずべき行為だった。

 結局、もしも彼らの意見を無視し計画を強行するなら、全ての呪術師が立ち塞がることになるだろうという回答だった。

 だが、その結論こそが、計画の可能性を示していることに気付かなかった。

 科学者達は、俄然彼の計画を支持し出し、速やかに実行するよう言った。

 しかし彼は、呪術師達を説得する道を選んだ。それは、決して彼らの心を慮ったからではなく、彼の計画を途中で邪魔されない為に、そして、後々の為に必要だと考えたからだ。

 彼は、今では呪術師の中でも重鎮の一人である養父の元を訪れ、計画に反対を唱える呪術師達を説得して欲しいとたのんだ。

 彼の話を黙って聞き、暫く考え込んだ養父は、温かいお茶がすっかり冷たくなってしばらくたった頃、漸く口を開いた。

「その話なら、私も反対だ。だが、お前が本気で実行するなら、私にそれを止める術はない。ただ、聞かせて欲しい。お前にとって、この世界とは何なんだ? いったいお前には、どう見えているんだ?」

「僕にとって、世界は在っても無くても同じものです。それは、僕が居ようが居まいが世界が変わらないのと同じでです。そこに意味があるのかは重要じゃない。ただ、在るか無いかの違いがあるだけです。

 だが、僕は知りたい。ならば、何故、僕達が、様々な事象が存在するという偶然がおきたのかを」

 彼の答えを聞いた養父は、ただ「……そうか」と言った。

 引き取った頃から、この子は何一つ変わることが無かったのか。様々な知識と共に、慈しみ、心を繋ぐことを教えて来た。少年だった彼の心は、空っぽだった。その空洞を埋めてやりたかった。この世界の素晴らしさを感じさせてやりたかった。

 だが、彼の心は、あのころと変わらず空っぽだった。彼にとって重要なのは、心の在り様ではなく、心の存在理由だけなのだ。それを知る手立てを邪魔するなら、効率よく排除するだけだ。わざわざ自分を訪ねて来たのも、なるべく労力を割かずに結果を得る為だ。たとえ養父の自分に対しても、そこに特別な想いなどないだろう。

 彼にとっては、あの計画とは、己の知識欲を満たす為の実験なのだ。

 もしあの計画が、彼の心の叫びから出たものならば、賛成も反対も議論の余地があっただろう。だが、感情論では、彼を翻意させることは出来ない。

 憐れだった。このまま心を知ることなく終わってしまう彼が、全てが一斉に滅んでしまったとしても、その中ですら一人きりな彼が、かわいそうでならなかった。

「いいだろう。皆を説得してみよう。そもそも、幼い子供達にも、世界と共に滅びろというのも無体な話だ。生き延びる機会は、あって然るべきかもしらん。ただし、いくつか条件がある。

 今後は、科学者と呪術師が手を取り合えるように、お前が科学者達を説得しなさい。互いが協力しあい、恐慌が起こるのを防ぐ為だ。

 許す限り時間を使いなさい。心が容易く育つと思ってはいけない。

 大地を愛する子を育てるなら、お前がその子の手本となりなさい。例えお前の本心は違ったとしても、愛を理解する努力を怠ってはいけない。

 そして、出来る限り、計画の遂行はお前の手で行いなさい」

 養父の答えを聞いた彼は、約束することを誓って帰って行った。

 彼は養父の約束を守り、科学者達が呪術師達に友人として話しかける様になった。そして、呪術師達もまた科学者達に己の術を披露するようになった。目的を一つにした彼らがそうなるまでに、思ったより時間はかからなかった。

 計画は実行に移された。

 二つの月のうち、アカネ月を残すことになった。アカネ月より小さく作用も小さいハタ月では、大地を支え続ける事は計算上出来なかった為だ。

 毎年あかね月になると、三つの月はいつもより大地に近づく。更に、百年に一度の数日間は、より距離を縮める。今年は、丁度その百年目にあたっていた。果たしてこの状態でもアカネ月が大地に近づくかは疑問視されたが、遠ざかる速度を一時的に落とすことは十分考えられた。大がかりな術は、術者に負担をかける。少しでも負担を減らす為、なるべく月との距離は近い方がいい。

 彼は、あかね月の夜、今残されている内でアカネ月と角度の合う一番高い山に登り、数人の科学者と呪術師が見守る中、その力を発動させた。

 彼が術をかけ始め暫くたつと、月の光の中に次第に靄のようなものが見え出した。靄はやがて、力を使い続けて蒼白になっている彼を包む様に纏わりつき、次第に密度を増していった。

 そのうち、彼の足元に、靄色をした小さな固まりが見えて来た。それは次第に形を成し、色を付け、暫くすると完全に赤ん坊の形になった。

 その赤ん坊の手がピクリと動いたように見えた頃、疲れ果て、肩で荒い息をつきながら、彼は大地に膝をついた。

 彼の許に、養父が駆け寄り肩を抱いた。

「お前の術は、無事に発動したようだ。見なさい、可愛い赤ん坊だ。まっさらな、己の使命も知らない、憐れで愛しい赤ん坊だ」

 疲労で目が回っている彼は、それでも赤ん坊を見乍らにこりとした。

「ああ、よかった。後は、これに意思を持たせるだけだ」

 まだうまく力が入らない腕を伸ばし、赤ん坊の形をしたアカネ月の力そのものに触れた。それは、思いの外温かく柔らかかった。


「これが、初代の巫女だ」

 ミズナの話を、ウネリはただ黙って聞いていた。

「ここまでの話は、神殿である程度学んだ者なら知っている事だ。どの神殿の書庫にも資料がある。一般に開放されている書物と違って、それなりに厳重に管理されてるけどな。

 ただ、どうしても見つからない資料がある。彼が残した巫女の記録が、何処にも見当たらない。科学者ならば、自らの実験の経過を残さずにはいられない筈だ。散々探したが、どうやっても見つからないんだ」

 残されているのは、彼の師であった科学者や呪術師が残した記録と、彼らに提出された計画書だけだった。術を行うだけなら、充分な資料だ。だが、その資料だけでは解明できない大きな問題が、現在まで残されていた。

「その資料通りなら、もう巫女が生まれる筈はないんだよ」

 ウネリは、頭がくらくらしてきた。初代の巫女は、人ではない……そして、もう生まれる筈がない?

「人じゃないんだ。生物ですらない。精々十年程しか形を保てない、幻のような存在なんだ。

 大地を育む為だけに心を持たされ、やがて力そのものに還っていく、本来巫女とは、其の為だけに形作られた存在なんだよ……」

 淡々と語っているように見えるミズナに、嘘を言うなと怒鳴りそうになったが、爪が食い込む程握られている彼女の手が、真実であると語っていた。

「お前にとって、不愉快な上に信じがたい話だとわかっている。でも、もう少し聞いてくれ」


 ひたすら眠り続けた彼は、己の寝台で目を覚ました。夜遅い時間なのか、辺りはとても静かだった。

 ボンヤリとした頭で、小さな明かりが灯された、見慣れたそう広くも無い己の部屋を見渡すと、机の前の椅子に何かを抱えた人影がいた。人影は、彼が目覚めたのに気付き、声を掛けて来た。

「目を覚ましたか」

 養父の声で意識がはっきりした彼は、素早く身を起こした。急な動きに体がついていけず、目の前がぐらぐらとしたが、そんなことは気にならなかった。

「あれは、どうなりましたか」

「ここで眠っている。お前が倒れてから、丸五日がたった。その間、この子もずっと眠り続けている」

 養父は寝台に近づき、抱いていた赤ん坊を彼に見せた。

 赤ん坊としての形を得たアカネ月の力は、可愛らしい女の子だった。

 他の赤ん坊と変わったところなど何一つ見当たらない、ごく普通の赤ん坊に見えた。

「よかった、ちゃんと形を保ってますね。これが、僕たちの救世主か。早く意思を持たせなくては」

 養父は、彼に眠り続けるアカネ月の力をそっと渡し、厳しい声で言った。

「心は、育てるものだ。持たせるものではない。それに、『これ』などと呼ぶのはやめなさい」

「確かに、今後は名前がないと不便かな。では、『アカネ』と呼びましょう」

 腕の中で眠るアカネに、彼は興味深そうな目を向けた。

「へぇ。自分で言うのもなんだけど、なかなか可愛らしい姿だ。ああ、そうだ、食事をさせなきゃ。消化器官がきちんと働いているか確認しないと」

 彼の声に反応したように、アカネが目を覚ました。その様子を見た養父が

「ずっと眠っていたし、何を与えてよいかわからなかったが、赤ん坊用の食事ならすぐ用意できるようにしてある」

 と言って、部屋に備え付けられている小さな台所で手早く緩い乳粥を作り、彼に手渡した。

「普通の赤ん坊に与える食事で大丈夫なのか?」

「勿論です。正しく術が発動してるなら、殆ど人間の赤ん坊と変わらない生態の筈です……あれ、何で食べないんだろう?おかしいな」

「……もっと、冷ましてあげなさい。赤ん坊が、そんなに熱いものを食べられるわけがないだろう」

「成程。ああ、食べた。うん、栄養摂取には今の処問題はないようだ。どれ位したら、排泄が起きるのかな」

 彼は、実に興味深そうにアカネを見ていた。だが養父からすれば、彼のアカネに接する態度は目に余るものだった。

「お前はこれから、この子の心を育てるのだろう?ならば、そんな目でこの子を見るんじゃない。この子は物ではない。人になるんだ」

 彼は、養父に笑いかけた。

「わかっています。どれくらいで意思の萌芽が見られるのか、育成過程は非常に興味があります」

 その言葉に、養父ははっとした。

 アカネは、心が育てば、また形のない存在に返らなくてはならない。大地を愛し、守る為だけに、無理に形を与えられた存在だ。最初から、数年で形が解けるように出来ていると彼は言っていた。あまり大きくなると月に還すのが難しくなってしまうらしい。

 こんなに罪深いことがあるだろうか。

 思わずアカネの小さなこぶしに、手を触れた。そして、初めてその手に握られている物に気づいた。

 それは、小さな薄赤い卵の様なものだった。

「一体、この子の握っているこれは何だ? 最初から持っていたのか?」

「最初から持たせてあります。月に還す時に必要なんです。月までの道標みたいなものですかね。いずれ、その時が来たらわかりますよ」


 科学者達の観測結果から、力の一部をアカネとして取り出した為なのか、アカネ月の不安定さがやや薄れていることがわかった。

 微々たるものではあったが、それだけでもこの実験は意味があったと科学者達は喜んだ。

 呪術師達も、これで沢山の命が救われるかもしれないと、大半の者はこの結果を受け入れるようになった。

 その頃には、生き物や大陸の一部が消え、今までは海の底だった筈の場所に島が出来、かつてとはまったく違う地図が必要になっていた。

 運良く生き延びたもの達は、何が起きたのかの真相を知らぬまま、新たな世界に適応する為に必死だった。

 各地で暴動が起きるたび、科学者と呪術師は手を取り合って対応した。

 そんな嵐のような世界で、アカネは育てられることになった。

 アカネの父代わりとなった彼は、アカネをとても大事に扱った。赤ん坊の育て方を学び、必要だと思われることは全てやった。

 彼の大切な、数年後には月に還る実験体。今後の為にも、出来る限り記録を取らなければ。彼は、常にアカネの傍に居た。

 だが、半年程たってもアカネにほとんど変化はなかった。呪術師の眼で見ても、科学者としての観察結果からしても、何故だかわからなかった。

 彼は、アカネと共に養父を訪ねて聞いた。

「赤ん坊の成長は、こんなものなんでしょうか? 僕の調べた限りでは、生後半年もすればもっと周囲に興味を持ったりするものだと思うんですが。生命活動を行ってはいるけど、それだけだ。今の処、意思の萌芽が見られない」

 養父は、彼を諭すように言った。

「成長には個人差があって当たり前だ。

 生き物は皆、元々魂を持って生まれて来る。それは、長い歴史の中を旅して、その記憶が刻まれているものだ。その魂の経験や今の経験が合わさって、いずれ心として表れるのだ。お前も呪術師ならば、見ればわかるだろう?

 だが、この子は元になる魂すら、作り出されたばかりなのだ。経験をするということすら理解出来ていないのだろう。心とは、そんなに単純なものではない」

 養父の話を聞いて、彼は困惑した。

「困ったな。これじゃ、実験にならない。やり直しても、結果が得られるとは思えない」

「……お前は、この子に何をしてやったんだ? 世話を作業としてこなしているだけなんじゃないか? それでは駄目だ。心を育てたいなら、お前の心を捧げなさい。話しかけ、微笑みかけ、抱き上げ、誰よりも大事にしていると、全身で伝えろ。沢山の心を与えるんだ」

「大事にはしていますよ。でも、難しいな。心を捧げるって、具体的には? 理由がなければ笑えないし。何を話しかけたらいいんだかも、さっぱりわからない」

「ならば、最初は振りだけでもいい。まず、微笑みかけて、愛していると言ってみなさい。後は、外はいい天気だでも何でもいい。兎に角、話し掛けてやりなさい」

「そんなことでいいんですか。わかりました、やってみます」

 彼は礼を述べ、アカネと共に養父の家を後にした。

 その後ろ姿を見送りながら、養父は彼らのこれからを思った。この先どんな結果が待っているかは分からないが、そう遠くない未来、必ず彼らに別れはやって来る。彼はその時、どんな顔をしているのだろうか。

 出来るなら、アカネの為に悲しんで欲しいと思った。


 養父の教え通り、彼はなるべくアカネを抱き上げ、微笑みながら様々な事を語り掛ける様にしてみた。もっとも、彼の語り掛ける事なので、専ら世界の成り立ちの仮説や仕組みなどであり、本来赤ん坊に話しかける様な内容ではなかった。

 それでも半年もすると、アカネに少しづつ変化が見られるようになって来た。

 一点を見つめるだけだった目が彼を捉える様になり、自ら手を伸ばして来るようになった。手に握っていた小さな卵のような塊は、落とさない様に袋に入れて首から下げてやった。

 更に一年も過ぎる頃には、よろよろとだが立ち上がる様になった。

 アカネが生まれてから三年がたった頃、養父は彼らの元を訪れた。二人が気がかりだったという理由もあったが、呪術師仲間と科学者に、様子を見てきて欲しいと頼まれたのだ。

 その頃彼は、科学者とも呪術師ともアカネに会わせようとしなかった。後に待っている運命をアカネに悟らせない為だと言って、彼らとの接触を極力避けていた。毎日のようにアカネを連れて外出はしている様だったが、報告時に連れて来たことは一度も無かった。何度も連れて来るように言ったが、彼は「今が大事な時期なんです」と言って、断り続けていた。家に訪ねて行っても、彼らの前にアカネを出すことは殆どなかった。

 養父が訪ねて行くと、彼は思いの外快く迎え入れた。

「久しぶりだな。お前もアカネも、息災だったか?」

「勿論ですよ。わざわざいらしてくださって、ありがとうございます。まあ、いらした用件は、だいたい察しがついてますが。皆には、順調なのでもうしばらく待つように言っておいて下さい」

 彼が養父を部屋へ招き入れると、小さな影がちょこんと椅子に座っていた。

「大きくなったな。アカネ、私を憶えているか?」

 アカネに代わって、笑いながら彼が答えた。

「憶えてる訳ないでしょう。あの時、アカネはまだ生まれて半年位でしたよ」

 それもそうかと、養父も思わず笑った。

 アカネが、彼を見上げた。彼は、アカネの頭を撫でながら話しかけた。

「この方か? この方は、僕の父代りの方だ。君から見ると、祖父ということになるのかな」

 その様子を見て、養父はおやと思った。

「アカネが何を言いたいのかわかるのか?」

「見ればわかるでしょう? 色々理解出来るようになってきたけど、まだ言葉がうまく出ないみたいで。子育て経験豊富な方に聞いて、色々試してるんですけどね」

 肩をすくめて、彼は言った。

「アカネ、僕はこの方と大事な話があるんだ。少し、外で遊んでいてくれ。家から離れてはいけないよ」

 微かに頷くと、アカネはとことこと外に出て行った。

「一人にして大丈夫なのか?」

「大丈夫です。外に危険な物はありませんし、僕も呪術師ですよ? 不審者が近づけば、そうと判る」

 今の彼は、以前の住まいがあった街から少し離れた、使われなくなって久しい炭焼き小屋で暮らしていた。不便という程ではないが、食料の買い出しの為には少し歩かなければならない。アカネに世界の在り様を教える為に、まだ自然が残る場所を選んでの事だった。

「アカネのことなら、僕に一任されている筈ですが。そもそも、まだ時間に余裕はある。アカネのお蔭で、更に余裕が出来た」

「私には難しい理屈は解らんが、確かに大地は、やや安定しているらしい。だが、皆不安なのだ。以前程ではなくなったなったが、未だ色々な生き物が早死にしていく。勿論、人間もだ。暴動も、思い出したように各地で起きている」

「人間同士のことなど興味ありません。そもそも、アカネにそんなものを見せない為に越してきたんです。生物が早死にする? 当たり前じゃないですか。以前とは環境が変わってるんです。適応できなければ消えていく。それこそ、自然の摂理ってもんですよ」

 だからこそ、皆アカネに希望を託しているのだ。彼も、そのことは解っているはずだ。だが、まだアカネを手放そうとはしなかった。

「お前が、計画をたてに権力を欲していると言い出す者が出てきている」

 彼がそんなものを欲する質ではない事を、彼を知る者ならわかる。養父も苦々し気だった。

「権力ねぇ。そんなに欲しければ、あんたが自力で手に入れたらいいだろうと言ってやりたいが、そうもいかないですね。愚か者に付き合うのは、もっと愚かなことだ。

 そんな愚か者に、アカネを会わせたくないんですよ。美しい世界だけを、見せてやりたい。この世界は愛で溢れていると思って欲しい……それでこそ、計画が成功する筈なのだから」

 彼の言葉を聞き、養父は頷いた。

「確かに、アカネに会わせるに値しない者に接見させる必要はないだろう。だが、あの子の成長の為だというなら、もっと色々な物に触れさせた方がいいんじゃないか? 勿論、人間にもだ」

 そうですね、と彼は言って、なにか考え込んでる様だった。そんな彼の様子を見て、養父も考え込んだ。

 アカネが育つという事は、別れが近づくという事だ。計画を知る人間が、普通の子供に対してと同じようにアカネに接するのは、難しいだろう。確かに、あまり会わせない方がお互いの為かもしれない。

「では、私は帰るとしよう。皆には上手く言っておく」

「ありがとうございます……次いらっしゃるときは、果物でも持って来て下さい。アカネが好きなんです」

 彼は笑いながら言った。

「客人に碌に茶も出さんような家に、土産など持ってこんわ。だが、留意しておこう」

 養父も笑顔で答え、扉に手をかけた。

 扉の脇で座っていたアカネは、二人を見上げた。その右手に、小さな花を握っていた。

「花が好きなのかね?」

 話し掛けられ、コクリと頷いた。

「そうか。その花は、いい香りがするだろう?」

 またコクリと頷き、その右手を老呪術師に差し出した。

「私にくれるのかい? ありがとう」

 その花を受け取り頭を撫でてやると、アカネは少し嬉しそうに手をひらひらとさせた。

 その様子は人間の子供と何一つ変わらない様に見え、それが切なかった。

「お前は良い子だな」

 また頭を撫で、心の中で何度も彼女に詫び乍ら、帰路についた。


 それからの数年は、科学者も呪術師も様々な事に忙殺されていた。

 生態系の変化や地質を調査し、人口調査を行った。

 その結果、大都市を作るのは難しく、人口も以前の十分の一程になっている事が判明した。

 比較的安全と思われる土地を選び、小規模な村にわかれて生活することでそれぞれの食糧事情を安定させ、科学者と呪術師を中心に据える事で横の連絡と情報の統制を行った。

 その暮らしは、数年前までの栄華には程遠い原始的ともいえるものだったが、人々は思いの外柔軟に慣れていった。

 去る命があれば生まれて来る命もある。新たな世界に生まれて来た子供達を守る為に、誰もが必死で戦っていた。

 村の中心になっている科学者や呪術師が、数年もすれば状況が好転すると説明したことも大きかった。

 実際、彼らが落ち着いて行動することで、皆の心に希望が芽生えていた。数年もすれば今より暮らし向きが良くなるならと、皆小さな不満は呑み込み耐えた。

 勿論、問題が起きる事は多々あった。

 食料や土地をめぐっての小競り合いはあちこちで起きていたし、病に倒れる者も多かった。その度に科学者も呪術師も、大規模な問題に発展しないよう出来る限りの力をそそいだ。

 しかし、それも限界が近づいて来ていた。

 

 彼の許に再び養父が訪れたのは、あの夜から十年が経とうとする、あかね月になったばかりの時だった。

「アカネを、迎えに来た」

 養父は、出来る限り感情を抑えた声で言った。

「これ以上は待てない。速やかに計画を実行しなさい」

 厳しい顔をした老呪術師が怖かったのか、アカネは怯えた様に父の後ろに隠れた。

 彼は宥めるようにアカネを抱き寄せ、

「アカネ、お守りを見せておくれ」

 アカネの首元に下げてあるお守り袋から、中身を掌に取り出した。

 かつて薄赤かったそれは、真っ赤になっていた。

 それを袋に戻し「ありがとう……確かにもう限界かな」と小さく呟いた彼は、やがてアカネに目線を合わせ語り掛けた。

「アカネ、僕の事が好きかい?」

 アカネは、コクリと頷いた。

「ありがとう。僕も、アカネの事が大好きだ。でも、君には帰らなくちゃいけないところがあるんだ」

 アカネは、不安そうな顔で彼を見つめた。

「君はね、あんまり可愛いかったから、僕が君の母さんに無理を言って預かった子なんだ。でも今、君の母さんが、君を返してくれって言っている。君が帰らないと、皆が困るんだ。僕だけじゃない、よく君と遊んでくれたお姉さんも、いつもパンを分けてくれるおばさんも、ブランコを作ってくれたおじさんも、君の好きな花も、鳥も、皆が困ることになる。怒った君の母さんに、大変な目にあわされる」

 アカネは、大きな目に涙を浮かべ、激しく首を振った。

「君だけが、皆を守れるんだ。大変な事だけど、やってくれないかい?……大丈夫、怖い事なんてないからね。ただ、皆を守りたいと思うだけでいい。僕も、君が無事帰れるまで必ず側にいるから」

 暫くアカネの嗚咽だけが流れた。やがてゆっくりと頷き、はずみで涙が床に零れ落ちた。

 彼はアカネを抱きしめながら、その様子を見守っていた老呪術師に言った。

「明日、あの山に向かいます。子連れでも、一日もあれば到着するでしょう。山頂まで約二日。術を解くのには丁度いい日だ。

 どうせ、皆で見にいらっしゃるんでしょう? 先に向かってて下さい……大丈夫ですよ、僕とアカネも必ず行きますから」

「わかった。皆に伝えよう。必要な物はあるか?」

 何も要りませんと言って、彼はアカネを抱く手に力を込めた。

 その様子を見届け、養父は帰って行った。去り際、何か言いたそうに彼らを見ていたが、結局言葉をかけることはなかった。


 約束の日、山頂に彼らがやって来たのは、もうすぐ日が暮れる時間になった頃だった。

 山の冷えた空気の中、二人は手を繋いでゆっくりと歩いていた。

 山頂では、科学者と呪術師が十名ほどで待っていた。その中には、彼の養父と師である科学者の姿もあった。

「お待たせしました。もうすぐ月が上る。そうしたら始めましょう」

 程なく夜がやってきて、大きなあかね月が上った。その日は、丁度満月だった。

 皆が言葉もなく見守る中、彼はアカネの前に片膝をつき、その小さな両手を自分の手で包み込んだ。

「君はまだ、帰るのが怖いだろう。この中には、君の一部を閉じ込めてある。君と言う現象そのものだ。開放すれば、本来の君を思い出すだろう。

 でも、忘れないで。君が僕を慕ってくれるように、僕も君が大好きだ。全てのものが、君を必要としてるんだ」

 彼が手をそっと放すと、アカネの手にあの真っ赤な卵のようなものが乗っていた。

「これが割れれば、君は本来の姿を取り戻す……大丈夫、僕がずっと君を見守っているから」

 彼は精神を集中させ、何かを唱えるように口を動かした。

 変化は急激に表れた。

 まるで空気が弾けたように、アカネを中心に息が止まるほどの衝撃が周囲に広がった。体が引きちぎられるような感覚に、思わず皆は顔を伏せた。それも一瞬のことで、皆が恐る恐る顔を上げると、月光の中でアカネが淡く光っているのが見えた。

 次第に、アカネの姿が月の光に溶けていった。

「とうさん……」

 完全に消えてしまう寸前、アカネは何かを呟いたようだったが、最後まで見る事は出来なかった。

 後には、静寂と、月を見上げる彼の姿だけが残っていた。

 彼は一度大きく息を吸い、まるで何事もなかったように皆を振り返り

「終わりました。さあ、帰りましょうか」

 と告げ、歩き出した。

 皆、無言だった。余りにもあっけない終わりだった。

 そして、アカネが月に還った数日後、彼はあの日山頂に居た者達を家に呼んだ。

「どうも、出掛けるのが億劫で……わざわざお越しいただいてすいません。

 皆さんもご覧になったように、あかね月は力の一部を取り戻しました。計画通り、大地から去っていく速度をゆるめていくでしょう。

 ただ、これは応急処置みたいなもので、完全に繋ぎ止める力はまだない。つまり、時間稼ぎですね」

 皆がざわついた。

「話が違うんじゃないか? 何年も時間をかけて、それが単なる時間稼ぎだったと言うのか。お前が言う通りに、この計画のことは科学者と呪術師にしか伝えていない。何も知らない者達には、数年もすれば環境は安定すると言って宥めて来たんだ。今更間違いだったでは済まない。今度こそ、大恐慌が起きるぞ」

 皆は口々に彼を責めたが、当の本人はあっさりと言った。

「別に、全員に詳しい説明をする必要はないじゃないですか。そもそも時間稼ぎといったって、すぐにどうということじゃない。百年、二百年位はそこそこ安定した生活が手に入る筈です……まあその間に、自滅しなければですが。

 それに、こうするのが最良だった。力の流れが一気に変わってしまったら、それこそ月も僕達の体もその変化についていけない。緩やかに変えていく為の時間が必要だったんです。それに、ハタ月だって、アカネ月の引力に引きずられて不安定なまま留まり続けることも考えられる。そうなったら、この術の意味がないでしょう?」

 次第に、皆黙って彼の話に耳を傾けだした。

 彼が月の力から取り出せたのは、本当に極小さいものだった。それでも、自分が制御しきれる限界まで取り出したのだ。それほど強い力で、月は大地から離れていこうとしていた。

 ただ、それは彼の想定の内だった。もとより、自分の質量を超えるものは扱えないのはわかっていたし、仮に全ての力を手に収めることが出来たとして、もしも結果が得られなかった場合に、もう一度やり直せる時間が残されるかわからなかった。

 後の事を考えると、何度かに分けて行えるようにしておく必要があった。もし失敗してもやり直しがきき、成功したなら次までの時間を稼げる。

 計画当初には、彼以外にこの計画を行える者が居なかった。呪術師としての能力と科学者としての知識、どちらが欠けていても行えない術だったからだ。状況が変わり、科学者と呪術師が手を取り合う今なら、後進を育てることも可能だった。その為の時間でもあった。

 これからも、環境の変化はまだまだ起きるだろう。だが、ゆるやかな変化なら、生物は変化に対応してゆける。今までもそうやって歴史を重ねて来たのだ。月の力だけではなく自らの持っている柔軟性で世界を受け止めることで、月への負担も減らしたかった。大地と月がこれから先を共に生きていくのなら、月への負担は出来る限り少ない方がいい。

 後は、科学者はその知識を呪術師に伝え、それをもとに呪術師が術を行う。その結果をまた科学者が観測する。必要が無くなるまで、それを何度か繰り返せばいい。

 彼はその方法を伝える為に、あの日あの場にいた者達を集めたのだ。

「僕は他にやることがあります。後は皆さんでお願いします。それなりに高度な術ではありますが、僕にも出来たわけだし、方法さえ知っていれば行える者は出てくるでしょう。それに、たった一人に世界を任せるのは皆さんも不安でしょう?」

 彼はそう言うと、部屋の隅にあった小さな箪笥の引き出しから分厚い紙の束を幾つも取り出し、師である科学者に差し出した。

「これは、術を行う為に必要な知識と、大地に必要な月との距離などを纏めたものです。術の根底にあるものですから、呪術師にも必ず理解して貰って下さい。先生の専門分野に、僕なりの解釈を加えたものです。僕に知識を授けて下さった先生なら、きっと他の呪術師にも上手く伝えて下さるでしょう」

 そして養父に向き合い言った。

「術を行うには、ある程度訓練が必要です。ただ、知識が無いと訓練すらままならない。知識をものにするまで、呪術師達は、この術に必要になる技に慣れておいて下さい。最初は、色々な結晶が一つに纏った石を、成分毎に見分けられるようになる訓練なんかがいいかな」

 それぞれに必要なことを話し終えた彼は、ため息をついた。

「次の術が必要なのはまだまだ先のことでしょう。先程も言いましたが、急激な環境の変化は好ましくない。その頃まで皆さんが存命とは思えません。だが、これを次の世代にも伝えていけば、いつか必要な時に誰かがそれを行える。

 こちらから呼び出したのに申し訳ありませんが、ちょっと疲れました。休ませて下さい」

 確かに、その顔は隈が浮き、頬は青白く、数日前と比べてかなりやつれていた。彼の体調に配慮し、今後の事を話し合いながら、それぞれ彼の家を出て行った。

 あの老呪術師だけが、最後まで残っていた。

「……何か、話すことがあるんじゃないか?」

 そう切り出され、彼は少し困惑した顔をみせた。

「先程の話で、用件は済みましたが。今後起こり得ることは、科学者の観測で明らかになると思います。それも、年単位での観測が必要かと思いますし、今お話し出来ることは特に無いですよ」

 淀みなく答える彼に、養父は厳しい顔を向けた。

「アカネに何時だったか花を貰った時、私には視えたんだ。

 お前達の間には、確かに魂の糸が繋がっていた。アカネが生まれた時には無かったものだ。

 魂の糸は、どちらか一方が想えば繋がるようなものではない。あれは、アカネに心が芽生え、お前も心からアカネを想っているなによりの証拠だ。お前たちは、本当の親子なんだと思った。そうなるべきだったとは言え、正直、見るのが辛かった。

 今、お前は何を考えている? 何故、まだお前に魂の糸が残っている? その糸はいったい何処に繋がっているんだ? そして、あの真っ赤になった卵は何なんだ?」

 次々と問いただされ、彼は苦笑いをした。

「あの卵は、元々形の無いアカネ月の現象そのものをしまうための入れ物であり、起爆剤でもあります。アカネを作り出す時分離させて閉じ込めた、あの子の一部です。

 アカネの心身が育っていくと、当然中の現象も変化していきます。身体の成長に因る質量の物理的な大きさだけではなく、力の変質が大きいと、術者が扱いきれなくなります。色の変化はその目安です。あれがあるから、アカネ月に近いあの場所だからこそ、一瞬で月に還ることが出来るんです。

 勿論あれが無くても、あの場所でなくても、姿を解くこと自体は可能です。だが、時間が掛かる。その間に何かあったら、対処できない。無駄に巫女を怯えさせるのは得策ではありません。ちゃんと、お渡しした術式にもそう書いてありますよ。

 それに魂の糸なら、残っていて当然です。アカネ月を繫ぎ止める為の計画なんですから、そうじゃなくちゃ困るでしょう?

 アカネは姿が見えなくなっただけで、消滅した訳じゃない。糸の先は、形を崩して拡散したアカネに繋がっています。当然、糸の先も形は崩れています。だが、確実に繋がっている。僕には感じられる。

 尤も、人としての形が拡散した段階で、アカネの意識はほぼ無いようです。ただ、大事なものを護らなければという使命感だけが強く残っている。概ね計画通りです」

 彼の答えを聞き、養父は更に険しい表情になった。

「……今でも、計画と言うのか。アカネと共に過ごした年月を、愛おしみはしないのか? あの子を、憐れとは思わないのか?」

「憐れんでどうなるというんです。アカネを想って嘆き悲しめば満足ですか?

 アカネが愛しくはないのかって? 愛してますよ、勿論。あれは、僕の研究の集大成だ。これまでの研究に一つの答えをくれた。過程も結果も、存在全てが僕だけのものだ。愛しい僕の娘だ」

 やつれた顔の中で、その目は何を映しているのか、らんらんと輝いていた。

 養父はその輝きに危うさを感じた。

「これからお前はどうするつもりなんだ?」

「新しい研究を始めようと思ってます。個人的な研究ですし、説明の必要はないですよね。

 アカネを哀れだと思うなら、あれの愛したこの世界を護ってください。皆さん、今更この計画をやめる気はないでしょう? ならばせめて、世界を護る価値のあるものにしてやって、次のアカネに繋いで下さい。彼女もそれを望んでいるでしょう。どうかお願いします」

 そう言って、彼は深々と頭を下げた。養父は黙って彼を見つめた。彼の心をはかることは出来なかったが、それでもアカネを想って頭を下げる姿は、確かに本心からに見えた。

 アカネと共に、彼の心にも育ったものがあるのだ。そう養父は感じた。

「これを繰り返すのが良いことだとは、やはり私には思えない。だが、おまえの言う通り、あの子の為に努力しよう。お前が護っているのは、かけがえのないものだと言ってやれるよう、尽力することを誓う」

 養父は彼の家を後にした。

 それから数日後、科学者達は再び彼の家を訪れたが、彼に会うことは出来なかった。

 彼は研究の記録と共に姿を消した。どこへ行ったのか、誰も知るものはいなかった。きちんと片付けられた部屋は、ひんやりとした空気だけが残され、時の流れが止まったようだった。


 それから数十年程たち、科学者達によるアカネ月の観測結果は、かつて彼が予測した通りのものになっていた。

 確かにアカネ月は離れていく速度を緩めていたし、未だあちこちで天候不順や、やや大きめな地震などの報告はあるものの、長ければ二百年位は生物が死に絶えてしまうような大きな災害を引き起こさない筈だった。

 だが同時に、ハタ月の離れていく速度も緩やかになっているのが観測された。アカネ月の変化による影響が考えられた。

 その頃、あちこちに散って状況を調べていた者達から、未だにあらゆる生物が少しづつ減り続けていると報告が上がった。病や災害で数を減らしているのではなく、寿命自体が短くなりつつあるらしい。

 他の生物に比べ寿命の長い人間は、今はまだ影響の程度は解らなかったが、当然、新たに生まれて来た子供達には同じ様な現象が起きているだろうと予測された。とてもではないが、次の術までに、百年も待ってはいられなかった。

 百年後に実行される予定だった計画を早め、ある年のあかね月の夜、あの山の上で再びアカネを生み出す術は行われた。

 だが、二人目のアカネは形を成さなかった。

 術に対する理解力が足りなかったのか、能力が足りなかったのか、その他の要因なのか判らないが、兎に角アカネはあらわれなかった。

 それからも毎年計画は実行されたが、アカネが姿を現すことはなかった。

 科学者も呪術師も、姿を消した彼の痕跡を探し続けた。彼になら原因が解る筈ではと考えたからだ。だが、どんなに探しても、彼も彼の研究記録もどこにも見つかることはなかった。

 彼を探すだけではなく、やることは山のようにあった。

 人々の生活に秩序を取り戻し、緩やかな変化を日常に組み込む必要もあった。

 種としての人間の寿命は、以前の三分の一程になっていると思われた。寿命が短くなったことで、知識や横の連携が途絶えてしまう危険が常に付きまとったが、幸い危惧されていた呪術師の眼を持つ子供も科学者に向いた子供も、今迄と変わらぬ割合で生まれ続けた。

 幾つか残されたかつての研究施設に科学者と呪術師を割り振り、そこを拠点とし後進を育て続けた。

 科学者は大地に寄り添う呪術師の生き方を生活に取り入れ、呪術師は科学者の知識を秩序の根底として受け入れた。

 いつしか、科学者は神官と、呪術師は魔術使いと名が変わり、研究施設は神殿と呼ばれるようになった。

 その間も、アカネを呼ぶ術は毎年行われ続けていたが、成功したことはなかった。

 その年も、あかね月の夜、術は行われた。初めてアカネを生み出してから、結局百年経ってしまっていた。

 この年の術者は、これまでの中でも五本の指に入ると言われる程の魔術使いだった。

 術式が始まると、あきらかに今までと違う気配があった。数刻経ち、固唾を飲んで術を見守る皆の前で術者は疲れ切って倒れ込んだ。

 だが、今までと同じくアカネが山頂に現れることはなかった。

 翌朝になり、魔術使い一行が落胆し帰路に着く中、一番近い神殿から思わぬ知らせが届いた。

 ある村の呪術師から、昨夜村の若者の家の前にアカネと思しい赤ん坊が現れたと連絡が入った、ということだった。

 その知らせを受けた神殿の面々も山頂に居た面々も、訳がわからなかった。

 祈りを執り行った魔術使いは、確かに手応えを感じたのに、あの山頂にアカネは現れなかった。何故か、全く違う場所に出現していたというのだ。

 帰路に着く筈の足で、彼らはその村へと向かった。幸いその村は、現在地から一日も歩けばたどり着く距離にあった。

 その村に着いたのは、連絡を受けた翌日の夜だった。早速、村の魔術使いに会いに行った。

 村に到着したのが夜だったこともあり、村は静かで、特別な気配など微塵も感じられなかった。

 彼らを家に迎え入れた魔術使いの目の前には、可愛らしい赤ん坊が寝かされていた。じっと、真黒な瞳で天井を見つめている。よく見ると、その手には小さい卵のようなものが握られていた。

「すでにお聞き及びかと思いますが、この赤ん坊は村人の家の前に寝かされていました。住人が気付くまで、この子を見た者は誰もいません。急に姿を現したとしか思えない。それに、魂の糸が見当たらないんです」

 そう言われて、術を行った魔術使いが赤ん坊をよく観てみると、確かに魂の糸が見当たらない。

「間違いなく、アカネだろう。だが、何故この場所に……」

 誰もが持つ疑問だったが、その答えを持っている人間はいなかった。誰かに問おうにも、そもそも最初の術からかなりの年月が経っており、あの時を生きた人間で残っている者は一人もいなくなっていた。

 すぐに答えが出ない問題は後回しにするとして、祈りが無事アカネ月に届いたのは喜ばしいことだった。あとは、無事この子を育て、再び月に還すだけだ。

 もしアカネが現れたら、術者が仮親になる予定だった。当初の予定通り、今回の術者はアカネを神殿に連れ帰った。

 数日経って、神殿で暮らす者達は思いもよらぬ事態に遭遇した。

 アカネは食べ物を全くを受け付けなかった。眠ることすらしないのだ。泣きもせず、ただぼんやりと天井に視線を送っているだけだった。

 普通の赤ん坊とは違い、すぐどうこうということはなかったが、このままでは心を育てる以前に成長すらしないのではと思われた。考えられるすべてを行ってみたが、どれも効果が無かった。

 困り果て、もう一度術をやり直す為に一度アカネを還そうと話が出た時、一人の若者が神殿を訪れた。彼はアカネが現れた村の住人で、あの晩アカネを見つけた張本人だった。

 神官長や魔術導師を含めた数名で面会室に入ると、人の良さそうな若者が椅子に腰かけていた。彼は急いで立ち上がり、皆に頭を下げた。

 彼に座るよう促し、来訪の訳を訊ねると、あの時の赤ん坊が気になって会いに来たのだと言う。

 アカネの正体を村人に話すわけにいかない魔術使いは、近くの村の誰かが、育てあぐねた赤ん坊をこの村に置いて行ったのかもしれないと彼に説明していた。苦しい言い訳だったが、若者はそれを信じたようだ。

「村の魔術使い様には、あの子はこの神殿で大事に育てられるから安心しろって言われました。でもオイラ、どうにも気になっちまって……一目会いたくて来たんです。どんな事情があるか知らんけど、あんな可愛い赤ん坊を置き去りにするなんて、まったくひでぇ親がいたもんだ。あんなに必死に泣いていたのに」

 彼の話を聞いた神殿の住人達は、驚いて彼に詰め寄った。

「あの子は泣いていたのか?」

 問われた彼はきょとんとして答えた。

「そりゃ、泣き声であの子に気付いたんですから。それに、赤ん坊だもの、泣くのはおかしくないでしょ」

 皆、顔を見合わせた。

 今まで全く無反応だと思われていたアカネが泣いていたと聞いた一同は、彼を面会室に待たせ別室に移動し急いで相談した。試しに彼とアカネを会わせてみることになった。

 室内を物珍し気に眺めていた彼の許に、魔術使いの腕に大事に抱かれたアカネがやって来た。

「良かったら、抱っこしてやって下さい」

 そう言いながら、魔術使いは若者にアカネをそっと差し出した。

 アカネを受け取った彼は、慣れた手つきでアカネをあやしながら話しかけた。

「可愛いなあ。いい子にしとるか? 皆に大事にされとるんだろ? 良かったなあ。早く大きくなるんだぞ」

 彼の声に反応したのか、アカネの目が彼を捉えた。その様子を見た魔術使いは、心底驚いた。神殿に来てから、初めての反応だった。

 驚きを上手く隠しながら、魔術使いは彼に

「実は、丁度この子に食事を与える時間だったんです。良かったら、君が食べさせてやってくれないか?」

 そう言って、部屋を出て行った。

 魔術使いは急いで面会室に戻り、手に持った重湯を若者に渡し、アカネに食べさせるよう促した。

 若者が匙で掬った重湯を冷ましながら口元へ運ぶと、アカネはそれをするりと飲み込んだ。息をのんで見ている魔術使いも様子に全く気付かず、若者はにこにこしながらアカネに重湯を与え続けた。

「お腹空いてたのか。全部食べたな、偉いぞ」

 器が空になる頃、彼がアカネから目を上げると、魔術使いしか居ない筈の部屋に、いつの間にか神官長と魔術導師が入って来ていたらしく、彼の傍に立っていた。

 彼から器を受け取りながら、神官長は訊ねた。

「随分と赤ん坊の世話に慣れてるみたいだね。既にお子さんがいるのかな?」

 アカネを立て抱きにして背中を軽く叩いてやりながら、若者は笑って答えた。

「子供どころか、嫁さんもまだ居ないですよ。慣れてるのは、歳の離れた弟が居たから、そのせいかなあ」

 どこか昔を懐かしむ様な、遠い目だった。その目で悟った神官長は更に訊ねた。

「失礼だが、ご兄弟は亡くなったのかね?」

「まだ小さいうちに、病気で死んじまいました。その時、同じ病気で母ちゃんも逝っちまって……まあ、よくある話ですよ」

 気を悪くした風もなく、彼は淡々と答えた。

「配慮が足りない発言で、済まなかったね」

 神官長が頭を下げると、慌てて彼は言葉を継いだ。

「本当に気にしないで下さい。同じような境遇の奴は他にもいるんだし。それに、村の魔術導師様や皆が良くしてくれたし、父ちゃんも居ましたから。まあ、去年父ちゃんも死んじまったんですけどね。それより、この子、眠っちまう前におむつ換えなくていいんですか?」

 魔術使いが彼の腕からアカネを引き取り、部屋を出て行った。

 それを見送る彼に、神官長は言った。

「すっかり任せてしまったね。ところで、この後、何か予定はあるのかね? もしないなら、もう少々お時間を頂いてもいいかな?」

「予定というか、仕事は残してきてますけど。オイラ、大工やってるんです。雨が降る前に片付けちまわないと」

「君の村を含め、この辺はあと四、五日は降らんよ」

 横から魔術導師が答えた。それを聞いて、神官長が提案した。

「さすがに四、五日も待たせないよ。ただ、数刻……いや、今日はこちらに泊まっていただけるとありがたい。退屈なら、誰かに神殿の中を案内させよう。お腹は空いてないかい? 食堂で好きに食べてくれてかまわないよ」

 何故そんなに自分を引き留めるのかわからず、怪訝な表情はしたものの、若者は提案に従うことにした。仕事柄、神殿の造りに興味があったのかもしれない。案内係として生徒の一人が呼び出され、若者を部屋の外に連れ出した。

 その間に、神官長と魔術導師は急いで他の者を集め、アカネとあの若者について話し合った。

 何故、アカネはあの若者の許にあらわれたのか。そして、何故彼の前では普通の赤ん坊として振舞うのか。

 当然術を行った魔術使いも呼ばれ、何故そうなったのか問われたが、困惑を隠せない表情だった。

 文献に残された通りに術を行った。術の性質上、成功か失敗かしかとりえない筈で、それで言えば間違いなく成功だった。術を行った者なら感覚でわかる。事実、アカネは形を成した。しかし、その後の状況は理解出来ないと答えるしかなかった。分析する為には、前例が足りない。

 別室にいるアカネは、またぼんやりと天井を見ているとのことだ。理由はわからないが、アカネにはあの青年が必要だと考えられた。ならば、どうするかは考えるまでもない。

「問題は、どうやってあの若者にアカネを育てて貰うかだな」

 アカネの素性に触れず、どう納得させるかが話し合われた。

 夜になり、夕食を済ませた若者があてがわれた寝室で横になっていると、魔術導師が訪れた。

「なかなかゆっくりして貰えず、済まんね。お話ししたいことがあるんだが、今いいかね?」

「勿論ですが、なんでしょう?」

「あの赤子の事なんだが……」

 魔術導師は切り出した。

 皆で話し合った結果、肝心なところ以外、なるべく真実に近い話をすることになった。

 あの子は単なる捨て子ではなく、長いこと神殿を挙げて探していた特別な子だ。いずれ天下泰平の為に、神に祈りを捧げ続けることになる。それまで育ててくれる人物を探している。勿論、誰でもいいという訳にはいかない。祈りを捧げる為には、この世を護りたいと思う気持ちが必要だ。その気持ちを育てられるような人物でなくてはいけない。

「はあ。本当に神様なんているんですねぇ」

 話を聞いた若者は、感心したように言った。

「で、なんでオイラにそんな話を?」

「実は、君にあの子をお願いしたいのだよ。どうか、暫く育ててやってくれまいか」

 若者は、心底驚いた。

「そんな大事な子を育てるなんて、無理です! オイラは学も無いし、食うのがやっとの生活なんです。子育て上手なおっかさん探すか、神殿の皆さんで育ててあげるほうがいいんじゃないですか?」

「学の有る無しなんて、問題にならない。あの子の心を育ててくれれば、それでいい。生活の豊かさも関係ない。寧ろ、特別扱いはしないで欲しい。ただ、あの子の為にも、神官と魔術使い以外には特別な子であることを誰にも言わないで欲しい。本人にもだ」

 困り果てている若者に、魔術導師は言葉を重ねた。

「祈りの儀式が終わったら、あの子は神殿で引き取り、以降は人前に出ることは無くなってしまう。誰にも会うことなく、役目を果たすのだ。そうなったら、君にも会わせてやることは出来ない。せめてそれまでに、幸せを教えてやりたいのだ。勿論、礼はする。それまであの子の家族になってやってくれないか。君の前にあらわれたのは、君ならあの子を育ててくれると、神様が望んだからだ」

「……わかりました。礼なんて要りませんが、オイラで良ければあの子の父ちゃん代わりになります。しかし、そのお役目は、やらなきゃいかんのですか? 神様は、随分酷な事をするんですね……」

 アカネの将来を案じているのだろう、若者は、哀しそうな顔をして最後は小さく呟いた。

「残念ながら、役目を放棄することは出来ないのだ。そして、その時が来たら、あの子は自分の役目を理解するだろう。だが、約束しよう。全ての神官と魔術使いが、必ずあの子を見守ると」


 十年経ち、二人目のアカネは月へ還っていき、アカネ月は去り行く速度をまた少し緩めた。

 神殿からの迎えが来た時、既に若者とは呼べない年齢になっていた彼は、決して謝礼を受け取ろうとはしなかった。ただ、大事に育てた娘を強く抱きしめ、なかなか離そうとはしなかった。

「お前は、オイラの大事な娘だ。どこに居ても、ずっとずっと愛しているからな」

 言いながら娘の頭を撫でた。そして、神殿からの迎えと共に去って行く後ろ姿が見えなくなっても、何時までも見守っていた。あの子はこれから神殿で巫女として暮らすのだという話を聞かされた村人達は、名誉なことだからと、口々に彼を慰めた。

 アカネが月に還ってからも、娘は大事にされて暮らしていると信じている彼からアカネに宛てた手紙が、定期的に神殿に届いた。それは、彼が亡くなるまで途切れることはなかった。

 二人目のアカネが現れてから百年後、あの山で再びアカネを呼ぶ儀式が行われたが、今度も山頂ではなく、かなり離れた村に姿を現した。その為、山頂近くの神殿まで知らせが届くまで十日以上かかってしまい、当初儀式は失敗したのだと思われた。

 知らせによると、三人目のアカネは、二人目のアカネの父親よりも十歳ほど年上の男の家の前に姿を現したらしい。その男は、妻を子供の出産時に亡くし、その子供も数年前に病で亡くしてしまっていた。その子供を重ねているのだろうか、やはり夜中に家の前で泣いていたアカネを見つけて以来、進んで世話を焼いているとのことだった。

 二人目の時を思わせる状況に、神官と魔術使い達は話し合い、今度のアカネは初めからその男に託してみようという事になった。

 神殿の遣いから二人目のアカネの時と同じ説明を聞いた男は、アカネを育てることを了承した。たとえ期限付きであったとしても、親子になることを自ら望んだ。

 十年後、アカネは再び月に還って行った。父だった男は、二人目の時同様亡くなるまでアカネを案じ、手紙やアカネの好きだった菓子などを神殿に送り続けた。

 三人目のアカネが月に還っても、まだアカネ月の力は必要だった。

 百年毎にアカネは呼ばれ続け、その度に新たな親の許へ現れた。

 アカネが生まれるのは、百年に一度の、アカネ月が最も大地に引かれる時だけだった。何度か他の年に試したが、姿を現したことはなかった。

 出現する場所の共通点は、術を行った時間夜を迎えている村という以外無いようで、結果的に術を行う山のある大陸のみと推測できた。そして、決まって身寄りの無い者、それも神官や魔術使いではなく、ごく普通の村人が選ばれるようだった。彼らの殆どが子育ての経験がある比較的若い男で、皆、説得されて、あるいは進んで、育て親となってくれた。

 神殿の住人達は、アカネが現れるのは、最初の父となったあの科学者の面影を持つ者の許なのではないかと考えるようになった。アカネの心が、それを望んでいるからではないかと。

 アカネが選んだ者が育て親となることが、通例となっていった。

 最初のアカネから何代も経たある年、とうとうアカネはその役目を終えることとなった。アカネ月は大地と計算通りの理想的な均衡を保つようになった。以前より大地の近くに留まるアカネ月は、夜空に赤々と輝いていた。

 大地と完全に袂を分かったハタ月は、以前より更に小さく見えるようになっていた。いずれは姿を完全に消し、この夜空に輝いていたことは、ワタ月同様、伝説の様に語られていくのだろう。

 最後のアカネを月に還した後、盛大な祭りが行われた。

 神官も魔術使いも、正直皆ほっとしていた。大地が平穏を取り戻したのが喜ばしいのは勿論、別れるべき運命の親子を自分達の手で生み出す罪悪感から、やっと逃れられるのだ。

 あの伝承は、そうやって生まれたのだ。全てを知る者から何も知らない者達へ、昔話というかたちで、一人の少女とその父の話を伝えたのだ。そこには、彼らを忘れない様に、そして、彼らへの後ろめたさを軽減する為の想いがあったのかもしれない。

 神官も魔術使いも、今まで以上に己の為すべきことに力を注いだ。

 だが、最後のアカネが現れてから百年後、ありえないことが起きた。

 あかね月の夜、あの山に程近いある村の神官から、神殿へ知らせが届いた。その知らせには「アカネと思われる赤ん坊が現れた」と書かれていた。

 あの術は既に必要としていない。今年術を行った者は居ない筈だった。 

 村に一番近い神殿から、魔術使い達が確認の為に派遣された。魔術使い達の見立ては、アカネに間違いないという事だった。

 知らせを受けた神殿は、信じられない思いで他の神殿にも問い合わせたが、誰もあの術を行った者は居ないという事が確認出来ただけだった。神官と魔術使いの中には、流れ者のような生活をしている者も少数ながら居た。だが、それは彼らの仕事の一環であり、決して他の魔術使いや神官達と袂を分かっている訳ではない。皆、どこかしらの神殿を拠点としていることに変わりはなかった。その流れ者の彼らの中にも、勿論術を行った者は居なかった。

 天には変わらずアカネ月が赤く輝いている。最も大地に近づいているこの時期のアカネ月は、まるで大地に落ちて来そうなほど大きく見えた。

 各地の神官長と魔術導師で、この理解不能な現象は話し合われた。

 誰も術を執り行っていない以上、彼らにはアカネが自分の意思で現れたとしか考えられなかった。問題は、この後アカネをどうするべきかだった。

 すぐに月に還すか、再び育てていくのか、意見が分かれた。事態は既に彼らの手を離れて進んでいる以上、何が起きるのか誰にも判らなかった。

 結局、アカネが自ら現れたのだから、再び育てるべきなのではないかと意見がまとまった。心を持ったアカネが親を慕って現れているのなら、寧ろ自然な事の様に思われ、大半の者は困惑と共に哀れみを感じていたのだ。

 同時に、一部の者から、彼女の機嫌を損ねたらそれこそ取り返しのつかない事態になりかねないと言いだす者も出始めた。彼らにとって、大地の守護者は、今や大地の破壊者と同義語だった。何も知らない者には話すことのできない秘密として、今まで以上に慎重に事は進められた。当然、新たなアカネの仮親となった者に、そうとは知られぬよう厳重な監視もつけられた。

 十年経ち、アカネは再び月へと還された。

 そして再び、アカネは帰って来る。百年毎に、何度でも。


「そうやって、アカネは……ファイは、お前のもとにたどり着いた」

 ウネリは、ただ黙りこくって話を聞いていた。

 しばらく沈黙が部屋を支配していたが、やがてウネリの口から掠れた声が漏れる様に零れおちた。

「ファイは……どうなるんです?」

「アカネ月に還る」

 ミズナに縋る様にして、ウネリは叫んだ。

「どうにかならないんですか! あの子は、ただの子供です! 俺の娘です! ただ、静かに暮らしているだけじゃないですか。止めて下さい、お願いします」

「無理だ。それに、もう少しで術が切れてしまう。元々そういう術なんだ。時が来たら、ファイは姿を保っていることは出来なくなる」

 ミズナの両腕を掴むウネリの手に、力がこもった。

「あの子が何をしたっていうんです! この世界を守る為に消えろだなんて、酷いじゃないですか! ねえ、ミズナさんなら、何とか出来るんでしょう?」

「済まない、アタシにもどうにも出来ないんだ」

「なんで何も教えてくれなかったんですか? 俺にあの子を育てるさせる為ですか? なんで今になってそんなことを言い出すんですか?」

 そう言いながら、ウネリは違和感を感じた。

「……何故、俺にそんなことを話したんですか。この部屋は、今までの親達から巫女に宛てたものを取っておくための部屋だって言ってたじゃないですか。皆、巫女は神殿で暮らしていると信じてたから出来た部屋なんですよね? じゃあ何故、俺には真実を話すんですか?」

 ミズナは、自分の腕を掴んでいるウネリの手を静かにのけると、両手で改めてその手を包んで言った。

「どうしても話せなかった。これが、もしかしたら最初で最後の機会かもしれないんだ」

 初めて見るミズナの必死の表情は、ウネリに口を挿ませなかった。

「神官も魔術使いも、永いこと巫女は自分の意思で現れると考えてきた。子供のままの巫女が、親を慕って現れても不思議じゃない。皆そう思っていた。でも、そうじゃなかったんだ。あの子を呼び寄せている者がいたんだよ。百年毎に、ずっとずっと」

 何の話か分からないまま、ウネリは黙って聞いていた。

「ウネリ、お前だよ。お前が呼んだんだ。正確には、お前の中にいる者が呼んでいるんだ」


 最初に気付いたのは、神殿で学び始めたばかりの、まだ幼かったヒナガだった。

 ある日、ミズナの家で料理を習い始めたばかりのヒナガは、目を離した隙に彼女の書庫に入り込んでいた。

 その頃は、神殿で学んでなければ読めない言語で書かれた資料ばかりだったこともあり、ミズナも今ほど厳重に鍵をかけていなかった。

 当然、ヒナガに読める本など一冊もなかったが、それらに書かれていた数式や図は全て、一つの重大な何かについて記していると思われた。何について書かれたものかがどうしても気になったヒナガは、勝手に書庫に入ったことを叱られるのを覚悟の上でミズナに尋ねた。

 ヒナガの予想に反し、ミズナが叱ることはなかった。だが、それから数日後には、ヒナガは神殿で学ぶことが決まった。

 神官になる人間は、魔術使いとは違い本来なら特殊な能力を必要としていなかった。だが、その気質に向き不向きが左右された。

 それぞれの村の子供達は、五、六歳になると、村の神官や魔術使いから生活に必要な読み書きや算術の他、様々な事を教わるようになる。更に高度な事を学びたい子供は、一定の成績を修めた上、村の顔役に推薦を貰えれば神殿で学ぶ道が開かれる。殆どが自薦で、顔役は最終判断という形だったが、稀に顔役から本人に打診することもあった。

 まだ大したことを教わっていない年齢の子供が本の内容に当たりをつけられたのは、驚くべきことだった。ヒナガは、算術に高い親和性を持っていた。そして顔役の打診に、ヒナガもヒナガの母も即答で「行きます」と答えた。

 ヒナガは神殿で、取りつかれたように学びだした。アカネ月の巫女の真相を教わり、ミズナの書庫で見たものを理解するのに、左程時間はかからなかった。ミズナの書庫は、殆どが巫女に関するものだった。何故その資料ばかり集められていたのかも、そのうち察しがついた。

 前回の巫女が現れてからもうすぐ百年、他の神官や魔術使いは諦め半分で状況を受け入れている中、ミズナは本気で巫女の儀式を終わらせたいと思っていたのだ。

 ヒナガは考えた。ヒナガは自分について、どちらかというと感情よりも状況処理を優先する傾向を見出していた。それは冷静という長所であり、冷徹という短所と紙一重の処がある。

 それでも、ヒナガにも大事に想う存在はあった。村で彼の帰りを待っている母や、忙しい中何かと自分を気にかけてくれたミズナや老神官、仲のいい友人など、心に描く相手は確かに居る。彼らの為にというのが、ヒナガの行動原理だった。

 何故、ミズナは巫女に拘るのか。他の神官も魔術使いも、巫女の真実を何故皆に公開しないのか。それは、心があるからだ。子が親を慕うのを当たり前と思うのも、誰かの悲しみの上に自分達の平穏な暮らしがあるという後ろめたさも、心があるからだ。当たり前の事だ。なのに、皆、忘れていることがあるのだ。巫女に心があるというなら、巫女を生み出した者にも心はあるのだ。初代の巫女の親は、何故研究成果の資料と共に姿を消したのか。何を想っていたのか、もっと突き詰めてみるべきではないか、そう考えたのだ。

 初代の巫女の親については、彼の育て親であった呪術師と、師であった科学者の残した資料に記述があるのみだった。それらも、殆どが巫女についての記述であり、その仮親について書かれていたのはほんの少しだった。仮親の人物像を見出せる程書かれた資料など、残す必要があるとは誰も思っていなかったのだろう。その数少ない記述から見えて来るのは、目的の為に手段を選ばない、冷徹な天才肌の男の姿だった。

 彼の研究は、この世界の根本を知る為のものだった。アカネ月の巫女は、その副産物の様なものだ。時間の制約さえなければ、研究対象としてずっと手元に置いておいただろう。自分ならそうする。ならば、ずっと巫女を研究出来る手段を探したのではないか。


 その日もアカネの観察記録をつけていた彼は、段々と子供らしくなってきたアカネを見て筆を止めた。

 自分の術とは言え、数年では短すぎる。だが、どうしてもそれ以上アカネを維持する術は行えなかったし、今後も出来るとは思えない。そもそも、大地に時間がない。百年もすれば、またアカネは大地へ帰って来る。だが、それでは遅い。とてもそこまで自分が生きていられるはずがない。アカネだけでなく、自分にも時間は限られている。全てに時間が足りない。だから彼は、時間から解放される方法を考えた。

 自分を、最小の単位までばらして待てばいい。再びアカネが現れるまで、月に還ったアカネと同じ様に、自分を大地に溶かしてしまえばいい。そして時が来たら、また仮親となればいいのだ。

 勿論、元の体に戻るのは、自分一人では不可能だろう。術を行える誰かの手助けが必要だ。だが、自分と相性のいい体を手に入れることは不可能じゃない。魂の、誰にも気付かれない程奥深くに、潜り込めばいいだけだ。言いかえれば、極小世界とは意思の世界だ。相手が気付かぬうちに自分の心の一部を忍び込ませる。自分には花を摘む様に容易い事だ。

 彼がいつもの様に机に向かいながら考え込んでいると、アカネが膝に登って来た。

「アカネ、僕の事が好きかい?」

 アカネは頷いた。

「僕も君が大好きだよ」

 アカネの頭を撫でながらそう言うと、彼は新しい術の為の計算を始めた。


 ミズナの話は、根拠のないものに思えた。ウネリには、ミズナとヒナガの妄想としか思えなかった。

 だが、ミズナの必死な様子は、ウネリに反論を許さなかった。

「根拠はある。以前、村にマヤ先生とキキ先生がいらしたろう。あれは、ファイに会いに来ただけじゃない。キキ先生にお前を視て貰う為に来てもらったんだ。今の魔術使いの中で、最も眼が確かな人だ。その先生が、お前の魂の普通なら気付かれない程深くに、誰かの魂の一部が混じっていると言っていた」

 ウネリは思い出した。あの時、確かに誰かの声が聞こえたような気がした。

 あれ以来聞こえることはなかったが、あの声はまるで魂の底から響いたかのようだった。

 そして、その声に含まれていた、妄執と言っていいほどの執着心。

「お前に今まで言えなかったのは、アタシ達の思惑を彼に知られたくなかったからだ。彼の研究が残されていない以上、今の彼に何が出来るのかは推測の域を出ない。それに、ファイに出来る限り普通の生活をさせてやりたかった。当たり前の明日を知って欲しかった……」

 苦しそうに言う表情は、ウネリが初めて見る魔術使いとしてではないミズナの顔だった。

「頼む、巫女を開放してやってくれ。ファイを、これまでの巫女の親達の想いを、繰り返したくない」

 それは、巫女との永遠の別れを意味していた。ウネリはミズナの手を振り払い、声を荒げた。

「ファイの気持ちはどうなるんです? 何も知らないただの子供に、お前はここから消えてしまうんだ、これからはたった一人で大地を護ることだけを考えて永遠を過ごせと、そう言えるんですか!」

「ミズナを、あまり責めてやってくれるな」

 キキの声で、ウネリは我に返った。 

 キキとマヤが、そっと部屋に入って来た。

 いつの間にか少し日が傾いて来ていた。薄暗くなった部屋に、ひんやりとした空気が流れて来るのが感じられた。

「こう見えて、貴方に黙っているのをずっと心苦しく思っていたのだよ。それこそ、貴方がファイと出会う前から、ずっと」


 ヒナガの仮説を聞いてから、ミズナにとっての巫女の見方に変化があった。それまで、親を求めて大地に現れる、寂しい子供なのだと思っていた。普通の子供になら許される、当たり前の我儘だ。だが、その当たり前が、子供を失う親を作る。哀しみの連鎖は続く。なにより、百年毎の月の大接近は以前よりずっと大地に近くなっていて、このまま大地へと落ちて来るんじゃないかと、巫女の存在を知る者に不安を与えていた。可哀想だが、大地に必要なのは巫女ではなく月だった。

 だが、巫女の意に反した大地への来訪なら、話は違ってくる。

 常に誰かの都合で月から呼び起こされ続け、本来の役目が済んだ今では、一部の神官や魔術使いからは厄介者と目されている。数年後には、大地を護るという使命と共に、親や友人と引き離され、たった一人で月に還される。どんなに望んでも、形を保っていることすら出来なくなる。何度も何度も繰り返すそれは、呪いとしか思えなかった。この大地に今ある全てのものは、巫女の心を踏み台に永らえてきたのに、彼女だけが救われない。

 数年後には、百年目のアカネ月になる。再び誰かのもとに巫女は現れるだろう。それまでに出来る限りのことをしなくては。今度こそ、巫女を休ませてやらねば。

 ミズナが真っ先に相談したのは、キキとマヤだった。ヒナガの仮説を聞いた二人は、長いこと話し合い、他の神殿との連絡役を担ってくれた。ミズナとヒナガも村の仕事の間を縫い、出来るだけあちこちの神殿や村の神官と魔術使いに会い、協力を仰いだ。年若いヒナガの仮説は中々受け入れられなかったが、キキがウネリの中に視えたものを伝えた今では、皆協力的だった。

 アカネ月に現れた巫女はファイと名付けられ、少し変わったところはあるものの、どこにでもいそうな可愛い子供だった。彼女が護ってくれているこの世界は、美しさも残酷さも、全てが奇跡的なことなのだと思って欲しかった。誰よりも愛されて然るべき子だった。


 ウネリが、重い口を開いた。

「……ファイは、月に還ったらどうなるんですか」

「大地との、お前との結びつきは残ったままだが、意識は殆ど残らないかもしれない。深く眠ったような状態になるんじゃないかと思われる」

 床に視線を落とし立ち尽くすウネリを、三人は黙って見守った。

 ひんやりとした空気は、震えるウネリの声で静寂を破られた。

「俺に何をしろと言うんですか?」

「祈りの時、お前に術をかける。巫女の標を利用して、お前の体をほどく術だ。一時的に初代やファイと同じ状態になる。これは、初代と繫がっているお前にしか頼めない。彼からファイを解放して欲しい」

 俯きながら、わかりましたと小さく呟くと、三人を見渡して聞いた。

「俺は、ファイと一緒に行くことは出来ないんですね」

 押し黙ったミズナの代わりに、マヤが答えた。

「貴方とファイちゃんの繋がりは、そのまま月と大地の関係です。どちらもあるべき場所にあることで成立しているんです。それに、全てのものには決まった熱量があります。貴方が月に行ってしまったら、その均衡が崩れてしまう。人一人の熱量は、案外馬鹿になりません。それこそ、月を動かす程なのだから」

 ウネリは、ただ黙って聞いていた。やがて

「ファイの所に戻ります」

 と言って、振り返ることなく部屋を出て行った。

 部屋に残された三人の内、最初に口を開いたのはキキだった。

「我々には、悲しんでいる時間も権利もない。己がやるべきことを行うのみだ」

 キキに促され、マヤがミズナに紙の束を手渡した。

「これが、術に必要な計算式だよ。神官達が掛かりきりで取り掛かっても、正直、間に合わないかと思った。一人で、それも数年でこれに近い計算をこなした初代は、確かに天才だったんだろうね」

 ミズナはそれを受け取り、礼を述べた。

「ありがとうございます、キキ先生、マヤ先生。何より、アタシとヒナガを信じてくれて」

「礼にはおよばん。成すべき事をしたまでだ。それより、巫女と……ファイとウネリさんには、償いきれない程のものを背負わせてしまった。胸の内は、我々に推し量ることなど出来はしないだろう」

「気持ちは分かるなんて、言えた義理じゃない。だが、ウネリもファイも、きっと初代を断ち切ってくれる。恨まれても殴られても本望だ」

 そう言い、ミズナは扉の向こうに消えたウネリの背に深々と頭を下げた。


 数日後の夜、遮る物の何もないあの山の頂を、真円のアカネ月が赤々と照らしていた。

 月光は、ヒナガ、キキ、マヤと、その他に数人の神官と魔術使いが、円を描く様に佇むのを浮かび上がらせた。その円の中心に、三つの人影があった。

 小さな影に寄り添う影、一歩離れて一つの影。やがて、一歩離れた影が、寄り添う二つの影に話しかけた。「準備は整った。ファイ、あの卵を貸しておくれ」

 ミズナに促され、ファイは首から下げていたお守り袋を手渡した。

「ファイ、父さんは、この世界は好きか?」

「うん」

「そうか。じゃあ、目をつぶって、大好きなものを心に描いておくれ。ウネリ、手筈通りに頼む」

 言われたとおりに目をつぶるファイの左手は、ウネリの右手としっかり繋がれていた。

 ミズナはお守り袋から取り出した標をウネリの左手に渡し、軽く息を吐き呪文を唱え始めた。

 ミズナの口から、不思議な旋律のような言葉が零れ出すと、ファイの全身に淡い光が舞い始めた。それを合図に、ウネリは手渡された標を呑み込んだ。

 次の瞬間、ウネリは全身に引きちぎられるような激しい衝撃を感じた。固く目をつぶり、思わず膝をつきそうになった。だが、気付けば膝どころか、固くつないでいた筈のファイの手も感じられなくなって、閉じていた筈の目は世界を捉えていた。

 奇妙な感覚だった。自分が何処までも広がり、何処にも属していない、それでいて全てに存在しているのが感じられた。全てが曖昧で、世界は色彩の海だった。互いにぶつかっては消え、また色を変えて現れる。その間を縫うように、無数の細い光の帯が絡む様に走っている。

 術を行う前、ミズナは言っていた。

 前例のない術だし、自分にはそこまでの眼がないので、どんな世界になっているのか解らない。恐らく、体の感覚も時間も感じないだろう。こちらの世界では一瞬だが、お前は永遠を感じるかもしれない。その時間を使い、彼からアカネを解放して欲しい、と。

 これが、魔術使いの視ている世界なのか。

『そうですよ。正確には、大抵の呪術師ですら視ることの出来ない、世界の最も根源に当たる景色です』

 誰かの声を感じた。

『貴方が普段目にしているものや感じているもの、貴方自身、全てここにあるもので構成されてます』

 いつの間にか見知らぬ男が立っていた。真っ白な膝上まである見慣れない型の上着を羽織り、その下はやはり見慣れない型の黒い服を着ているその男を、何処までも広がる意識は全方位から感じていた。

『本当なら、意思が全てのここで姿なんて必要無いんだけど、貴方はこの世界に不慣れでしょう? 一応、形を作ってみたんだけど、見えてるかな? ああ、貴方はそのまま僕に意識を向けてくれるだけでいいです。充分、伝わるから』

 特徴のない、一見何処にでも居そうな痩せた若い男だった。だが、その真っ黒な瞳は彼の印象を強く残す。強い意思と捉え処の無さを同時に感じさせる男だった。

『初めまして、ではないよね。こんばんは、ウネリさん。いい月夜ですね』

「あんたが初代か」

『確かに、僕は貴方達がそう呼んでいる者ですね』

 男は落ち着いた声で答え、問いを返してきた。

『で、貴方は何を成す為にここまで来たのかな?』

「ファイをあんたから取り戻す」

 ウネリがそう意識すると、彼は無表情のまま言った。

『それは、貴方の周りの人間がそう言っているだけでしょう? 彼らが何か画策しているのは気付いてましたけど、僕からアカネを取り上げる為だったとは。

 でもね、僕が聞いてるのは、貴方の意思だ。貴方は何の為に僕に会いに来たんだい?』

 問われて、初めてウネリは気が付いた。

 ファイを取り戻すとは、永遠にファイと離れ離れになるという事だ。それは、娘を独り月に残すという事なのだ。その事実を納得した訳でもなく、何がしたいのかも考えられず、ただ嵐に巻き込まれた木の葉の様にこの世界にやって来ていた。

『貴方達の遣り取りは僕も聞いてましたよ。でも、僕はそんなに悪いことをしてますか? ただ、自分の娘に会っていただけだ。それも、百年に一度の十年間だけ。それの何が問題なんだか解らないな』

 その通りだ。元はと言えば、彼の術があったからこそ、この世界が存続出来たのだ。何も知らなかったとはいえ、それを享受してきただけの自分に答えなどある筈もない。

 動揺するウネリに、彼は更に言いつのった。

『僕の後に、何人もの術者が儀式を行った。世界の為だからという名目で。僕は、彼らから自分の娘を手繰り寄せたに過ぎない。寧ろ邪魔どころか、アカネを育てる役目を担って協力したとも言えるんじゃないかな。僕が手を加えたのは、仮親の人選だけだ。それが罪なら、儀式を行った彼らには罪は無いのかい? 役目が済んだら、もう来るなと言うのは勝手とは言わないのかい?』

 その口調は、ウネリを責めるでもなく、まるで独り言の様にどこまでも揺らぎの無いものだった。

「それは、あんたがそう仕向けたからじゃないか」

 ウネリは、ようやっとそう返した。

『本当にそうかな?』

 彼は、首を傾げた。

『貴方が聞いた通り、僕の術は、完結するまでに長い時間が必要なものだった。その間、ほかの方法を考え実行する時間は充分あった筈だ』

 専門の知識が無いウネリには真偽は解らなかったが、確かに彼の術は、途中でほかの方法に切り替えることも不可能ではないものだった。

『他の科学者や呪術師が代案を出せなかったからと言って、僕を責めるのはお門違いというものだ。まあ、あの術以上に労力を必要としない方法は、中々見つからないだろうけどね』

 彼のいう事は、何処までも正論の様に感じられた。ウネリには、抱いていた疑問を投げかけることが精一杯だった。

「役目が終わった筈の巫女は、何故現れ続けたんだ? 誰も術は行っていなかったと聞いた」

『貴方達が察していた通り、僕が呼んでいたんです。

 あの術は、本来酷く体力を使う。言葉通り、身を削らなければ発動しない。少しでも術の成功確率をあげるには、百年に一度のアカネ月が最も近くなる時に、出来れば月への距離が近い高地で行うのが望ましいんだ。

 この世界は、幸い距離は殆ど考慮が必要ないけど、僕にはもう、肝心の削るべき肉体がない。今のままの状態では、意識と肉体だった部分を分けることがひどく難しいんだ。だから、代わりのものを利用したんです』 

 なんでもない事の様に彼は話した。

『今視ている光の帯、魂の糸だけど、糸の両端はそれぞれ違うものに結びついている。貴方には区別がつかないだろうけど、貴方の大事だった人達の残滓も、この欠片に交じってまだ貴方に結びついているんですよ。それを想いや縁と言い換えてもいいけど、肝心なのは、一方通行の想いでは結びつくことが無いということです』

 ウネリには、彼の言わんとしていることが判らなかった。彼は話し続ける。

『幸い、何時のアカネも仮親達と魂の糸を結んだ。だから、それまでの仮親達の肉体だったものを、僕の肉体の代わりにしてみたんだ。大地に解けた彼らから、少しづつ分けて貰ってね。彼らは、肉体ごと世界に溶けた僕と違って、亡くなってしまえば意識は殆ど残らない。アカネと魂の糸が繋がっているお蔭か、思いの外上手くいったよ』

 淡々と語り続ける彼の姿に、寒々しいものを感じた。

 一体、どこまでが彼の手の内だったのだろうか。ウネリに理解出来たのは、彼にとってはアカネを取り戻す事が全てなのだということだ。

「そんなに実験とやらが大事なのか。誰かの心を利用して、巫女の、ファイの心を利用してまでも。一体、何がしたいんだ! あんたに、心はないのか!」

 恐怖なのか怒りなのか判らない感情に支配され、激しい想いをぶつけるウネリに、彼は苦笑した。

『養父にもよく言われたなあ。ならば聞くけど、貴方は巫女と出会わない人生が良かったのかい?』

 ファイに出会わなければ、この世界に来ることもなく、巫女の真実を知ることもなく、ただカヤや息子を悼んで余生を過ごしていただろうか。それとも、いずれ他の誰かと人生を共にしていただろうか。ファイと暮らしたこの十年は、それらと引き換えに出来るようなものだっただろうか。

「何故、俺だったんだ……」

『貴方が、強く望んでいたから。大事なものを失って、「もう、一人になりたくない」と、心から望んだからですよ。そういう人物なら、アカネを必死で守ってくれるでしょう。僕がしたことなんて、この術の資料を破棄した事と、アカネを取り上げようとする者が現れた時に、僕に返さざるを得ないようにしたくらいです』

「何?」

『アカネの感覚を全て閉じたんですよ。何故巫女が発見者以外に無反応なのか、彼らには訳が分からなかったでしょうね』

「なんてことを……」

『大丈夫ですよ。現れたての巫女は、そう簡単に弱ったりしないですから』

 無数の光の帯と様々な色が飛び交う世界の中で、彼は何処までも揺るがなかった。

「赤ん坊に、そんな酷い事がよく出来るな! あんたは狂ってる」

『狂ってると言われるのは心外ですけど、まあいい。

 でも僕はね、貴方達の中にずっと居たけど、それ以上の事はしていないですよ。アカネが手元に居ればそれでいい。誰にも邪魔されないよう、折角のアカネの記録も抹消したんだから』

「記録を抹消したのは何故だ」

『……最早、記録とは呼べないものになっていたからです。僕とアカネの事を、誰にも邪魔されたくなかった』

 いつからか、アカネの観察記録だった筈のものは、彼の心の変化をも表すようになっていた。

 冷たい数字の羅列から、温かな親子の日記へと変貌を遂げたそれは、彼のアカネへの想いそのものだった。

 ウネリは唐突に思い出した。ミズナの家で初めて聞いた彼の声は、確かにこう言っていた。

『ずっとずっと、この子を見守るんだ』

 あの時、声に含まれていたものに嫌悪感を抱いた。同時に、親近感ともいえるものも感じていた。それは、確かに自分の中にもある感情だった。だからこそ、その執着心が恐ろしかった。

「まさかあんたは、研究の為じゃなく、本当にファイを見届け続けるのが目的だったのか」

 あれは、彼の素の心だった。失いたくない大事なものに縋りつく、必死の、誰もが持ち得る心だった。何を犠牲にすることも厭わない、強い意志だった。

「そうだ、俺はあの時、確かに感じたんだ。この子をなくしたくない、少しでも傍に居て欲しいと。あれは、俺だけじゃなくあんたの望みでもあったんだ」

 だからこそ、彼はウネリを選んだ。カヤ達を失った喪失感と、アカネを取り戻したい彼は、確かに同じものを含んでいた。だからこそ、一層許せなかった。

「心が、痛みが判るなら、何故俺達やファイを巻き込む! 何度も何度も、大事なものとの別れを経験させる必要がどこにある! ファイは、まだ子供だぞ!」

『そうですよ、僕の可愛い娘だ。まだまだ親元で甘えたい年頃の、永遠の子供だ。だから常に僕の許に還って来られる様にしたんじゃないか』

「そうじゃない! それは、あんたの願いだ! ファイの気持ちを考えろと言ってるんだ!」

『貴方の言っていることが判らない。アカネは僕に会いたくはないと思ってるとでも言うのかな?』

 どこまでも平行線だった。自分の心を持て余していることすら気付かないこの男に、巫女や仮親達の心を理解する日は永遠に訪れない。

『ウネリさん、この世界に散っている色とりどりの光、これはね、全ての根源の欠片なんですよ。でも、それら一つ一つでは意味を成さない。そう在るという意思があって、初めて事象となるとしか思えない。僕は、その意思を知りたかった』

 意味のない物が集まり意思を創るのか、意思が在るから欠片が意味を持つのか、どうしても知りたかった答えは未だに出ていない。アカネとの時間は、彼に答えをくれなかった代わりに、別のものを彼に与えた。

 だが、根源の世界にたどり着いた今だから、解ることもあった。

 何故特別な眼を持つ子供は、一定の割合で生まれ続けるのか。何故科学が、途切れる事がないのか。

 この世界そのものが、大地の存続を望んでいるからだ。

 呪術師の眼を持ち科学者でもある彼を望んだのは、他ならぬこの世界なのだ。

 その意思は根源を超えた先にある。それは、世界に縛られ続ける者に、答えが得られる日は訪れないということだ。

『アカネは確かに意思がある。僕が造り出そうが、偶然が造り出そうが、結果は同じなんです。違いが見出せない以上、アカネの存在から理由の有無を論じることは出来ない』

 だから、彼は己の心のみに従う事にした。いつの間にか芽生えた想いを、ひたすら追及することにした。その為に、彼は最大限の努力をした。

『僕はこれからもアカネと過ごす。貴方達の意思は関係ない』

 彼は断固とした口調で言った。

 彼に伝えたい想いは、伝わらない。

 想いを抱え続けることは、楽しい事ばかりとは限らない。痛みを伴うものばかりかもしれない。だが、それも承知で抱え続けるのが、自分という意思を確たるものにする。最後に残るものが何であろうが、それは自分だけのものだ。それが自分という魂になるのだ。

「……あんたは、勘違いをしてる」

 彼は、続けてと言わんばかりに片手をひょいと持ち上げた。

「それは、あんたの、あんただけの大事な想いだ。伝えあう事が出来たとしても、それはそれぞれの想いの中にしかないんだ。ましてや、大事な相手に肩代わりしてもらうものじゃない。あんたがあんたな様に、ファイはファイなんだ」

『だから?』

「聞きたいんだが、もしあんたが呼ばなくても、巫女は現れるのか?」

『……現れないだろう。その方法も無いしね』

 初めて、彼になんともいえない表情が浮かんだ。

「方法なんて関係ない。それが答えだ。きっと、アカネもファイも、今迄の巫女達も、あんたとの再会を望んでいない」

『何故貴方に言いきれる』

「ファイは、俺の娘だからだ」

『意味が解らない。それに、アカネは僕の娘だ』

「それは、あんたの娘の名前だ。俺の娘はファイだ」

『違う。アカネだ』

「いいや、違わない。あんたと過ごしたアカネとそれぞれの巫女は、例え同じ魂の持ち主であったとしても、皆違う娘だ。あんたが言ったんだ。それぞれの巫女と仮親達は、魂の糸で繋がってると。日々を重ねて、一所懸命生きた親子の絆だ。ただの傍観者だったあんたのものじゃない」

 ウネリは、ファイのことを想った。

 彼と同じ印象的な黒い大きな瞳だが、もっと透き通った、その心根を映した様な優しい色。少しぼんやりとしていて、口数も少なく、決して表情豊かではないが、植物や動物をいたわることの出来る子だ。

「あんたは知っていた筈だ。きっとあの子達は、誰が悲しむことを望まない。だから、あんたは常に誰かの陰に隠れていたんだ。自分の心を、あの子達に知られたくなかったんだ。そうだろう?」

 彼がウネリに反論しようとした時だった。

――けんか、してるの?――

 怯えたような、子供の小さな声がした。

『アカネ!』

「ファイ!」

 幾つもの声が重なり合うような響きに、彼らは紛れもない己の娘の存在を感じた。

――けんか、してるの?――

 またその声は言った。

『喧嘩なんかしてないよ』

 優しくそう言った彼の顔は、ウネリに向けたものとはまるで別人の様だった。

『驚いたよ。君から話し掛けてくるなんて、初めてだね。怖がらせてしまったかい?』

 月に還ってしまうまでのほんの僅かな時間、この世界だからこその邂逅なのだろう。彼は、本当に驚いたようだった。

 どこからともなく響く声に、彼は話しかけ続けた。

『アカネ、僕の事が好きかい?』

――うん――

『僕もだよ。だから、ずっと一緒に居ておくれ。また一緒に暮らそう』

――……だめだよ――

 声は少し迷いながら、しかし、はっきりと言った。

『何でだい? 僕と一緒は嫌なのかい?』

――みんながかなしいの、やだ――

 彼は息をのんだ。

――アカネもファイもほかの子も、そう思ったの。だから、ちゃんと言わなきゃって――

 その言葉でウネリは気付いた。

「ファイ、まさかお前、知っていたのか」

――うん――

 ウネリの問いに、声はばつが悪そうに答えた。

――あのね、父さんと神殿に行った時、ヒナガお兄ちゃんと神官のおじちゃんが話してるの、聞いちゃった――


 ミズナがウネリをあの部屋に誘った頃、ヒナガは、マヤと話があるからと言って、ファイと神官長の部屋を訪れた。そこにファイを待たせ、マヤとヒナガは、すぐ隣のキキの部屋に行ってしまった。

 普段なら大人しく待っているファイだったが、見たことのないものが沢山ある部屋に好奇心が刺激され、他の部屋も見てみたくなった。部屋を抜け出し、隣の部屋の扉をそっと開けると、ヒナガ達の話声が聞こえて来た。

 日頃から、盗み聞きはいけない事だ言われていたので、慌てて扉を閉めようとした時だった。自分の名前が会話の端に聞こえてきた。いつもなら優しいヒナガの声の響きが、この時はまるで何か重たい物でも呑み込んだ様に感じられ、ついそのまま聞いてしまったのだ。

 話の内容はファイには難しく、詳しい事は解らなかったが、自分はもう皆と一緒に暮らせないらしい。ふらふらとマヤの部屋に戻ると、程なくしてヒナガだけが帰ってきた。

 ファイの様子に異変を感じ、慌てるヒナガにファイは小さく尋ねた。

「ファイが居たら、皆困るの?」

 その質問で悟ったヒナガは、ファイと目線を合わせ、震える小さな手をそっと握って答えた。

「そうじゃないから困ってるんだよ」

 そして、ファイがどこから来たのかを話し出した。

 最後まで話を聞いたファイは、少し考えてヒナガに切り出した。

「あのね、ファイが知ってるって、父さんにも、誰にも言わないで」

 自分が知ってしまった事で、ウネリやミズナが達が更に辛くなるのではないかと思ったのだろう。

 小さな体を震わせながら運命を受け入れ、それでも他人を気遣うファイに、ヒナガは言葉が出なかった。

「父さんもミズナお姉ちゃんも、ヒナガお兄ちゃんも、ファイのこと好き?」

「勿論。勿論、大好きだよ」

「ファイも、大好き。村の皆も、お芋も、雨も、鳥も皆好き。だから、言わないで」

 ヒナガは、ファイの手を握った自分の手に力を籠めて答えた。

「ファイちゃんがそう望むなら」

「約束ね」

 ファイとヒナガは、最後の約束を交わした。


――ごめんなさい――

 しょんぼりした声に、ウネリは張り裂けそうになった。

「父さんこそ、気付いてやれなくてごめんな。怖かっただろう」

 己のことに手いっぱいで、娘の心に気付きもしなかった。彼を責める資格が、自分にあるのだろうか。

 何時もそうだ。

 肝心な時に、何も出来ない。カヤ達の時も、そして今も。

――本当は、ちょっと怖かったけど、平気。ここに来たら、色々思い出したよ。アカネだった時の事も、他の子だった時の事も。父さん達も皆も、優しくしてくれたよ。皆の事、大好きだよ――

『君は僕のものだ、僕が生み出したんだ、そうだろう? アカネ、また僕と一緒に暮らしておくれ』

 必死に語り掛ける彼の姿は、どこか滑稽で、哀しく、まるで己を映した鏡のようにウネリの目に映った。

――わたしもファイもほかの子も、みんなでひとりだけど、みんなちがう子なの。でも、おんなじこと思ってるよ。みんなをまもるの――

『アカネは、僕や皆に会えなくて辛くないのかい?』

――会えなくても、つながってるよ。だからだいじょうぶ――

 寂しさを滲ませ、それでも大丈夫だと言うアカネの嘘は、彼を沈黙させた。

――だから、とうさんも、きっとだいじょうぶだよ――

 次第にアカネとファイの声は、交じり合いながら小さくなっていった。

――……なんか、眠くなってきた……――

――とうさん……だいすき……――

――父さん、神殿のおじちゃんたちに伝えて……――

――あのね…………――

 ファイの言葉はウネリに微かに届いた。

 奇跡の時間は終わろうとしていた。

「このままでいいわけがない。なあ、あんた、娘が嘘をついてまで皆を護ろうとしているんだ。自分を押し殺して、大事なものを護ろうとしてるんだ。娘に、そんなことさせられるもんか。

 俺が身代わりになる! そうすりゃ、あんたの望みだって叶う! だから、なんとか出来ないのか!」

『貴方とアカネは質量が違い過ぎる。無理だ』

「あんたは、このままでいいのか? 娘を、永遠に一人きりで放り出すのか?」

『ずっと気になっていたんだ。アカネが初めて月に還る時、僕に何かを言おうとした。でも、最後まで聞き取ることが出来なかった』

 彼は、呟いた。

『あの時も、今と同じことを言っていたのかな。「とうさん、だいすき」か……。

 やっぱり、君は僕のものだ。誰が何と言おうと、僕の娘だ。君を取り戻す。例え君が望んでいなかったとしても、ほんの一部であったとしても』

 そして、ウネリに言った。

『やっぱり貴方の身体を使わせてもらうとしよう。アカネと……あの子達と、貴方の一部を入れ替えるだけなら、貴方とあの子が交じり合う今なら、それも可能だ』

 それでも良かった。例え身体を全て失ったとしても、少しでも娘の傍に居てやれるなら、ウネリに否がある筈がなかった。

 すかさず答えた。

「やってくれ」

『丁度いい頃合いだ。あの女呪術師さんが、貴方の身体を元に戻そうとしている。ああ、今は、魔術使いと呼ぶんだっけ?』

 彼の言葉を聞きながら、ウネリは世界中に散っていた自分が、段々と元の形に収束し始めるのを感じた。

「あんたはどうするんだ?」

『アカネは、もう僕が呼んでも帰ってこないでしょう。そんな世界に用はない。貴方にも用はない。眠ることにしますよ。この世界中で、この世の終わりまでね。

 貴方の居心地は、中々悪くなかったですよ』

 そう言うと、彼は呪文を唱え始めた。

 その途端、ウネリは、纏りかけていた自分の一部が引き裂かれるような苦痛を感じた。その衝撃に耐えながら、まだ形を成し切っていない右手を彼に向って伸ばした。

「あんたも来い。どうせ今までだって、俺の中に居たじゃないか」

 彼の孤独は、ウネリの孤独だ。

 彼の執着は、ウネリの執着だ。

 許せない想いはあった。それでも自分と同じものを抱える彼の不器用さを、ウネリはそのままにしておきたくなかった。

 彼は、呪文を唱えながらウネリを見やった。その口元には苦笑が浮かんでいた。

 だが、それ以上、ウネリは彼を見ることが出来なかった。 

 

 光と色に満ちた世界は唐突に消え、気付くと冷たい山の空気に包まれていた。

 体中がだるく、なんとか右目だけをうっすら開けると、寒さの中、ぐっしょりと汗をかき荒い息で倒れているミズナが目の前に見え、ウネリは漸く自分も倒れている事に気付いた。

 ヒナガ達が駆け寄って来る気配に、閉じていたミズナの瞼が重そうに開いた。

「先生! ウネリさん!」

 ヒナガが膝をつきながら声を掛けると、ミズナは

「……声が大きい。聞こえてる」

 思いの外しっかりした声音で答えた。

「彼には会えたのか」

 ヒナガに支えられながら起きあがり、ミズナはウネリに聞いた。

 キキとマヤがウネリを両側から助け起こそうとしたが、それを身振りで断り、よろよろと立ち上がった。

「ああ。ファイは、巫女はもう帰ってこない」

 まだ違和感の残る左目を無理に開け、辺りを見渡して驚いた。

 夜に沈んだ筈の風景が、何時もと違って見えた。

 明かりとして焚かれたかがり火も、闇に浮かぶ疎らに生えた木も、目の前で心配そうにこちらを見ているミズナ達も、所々に浮かんでるように見える雪の塊や真っ黒にしか見えない地面すらも、全てがきらきらと美しかった。

『あの子達と貴方の一部を入れ替える』

 彼はそう言っていた。これは、ファイの瞳だ。あの子が見ていた景色なのだ。全てが輝いていて、とても優しい色で、ほんの少し哀し気で懐かしい世界が広がっていた。

(お前には、こんな風に世界が見えていたんだな)

 ウネリの右目から涙が零れた。


 山頂での出来事から暫く経っても、ウネリ達はサンガ神殿で過ごしていた。

 あの世界での出来事を方々の神殿に報告する必要もあったが、ウネリもミズナも思いの外身体が弱っていて中々村へ帰れなかったのだ。

 特にミズナは、ウネリを元に戻す術でかなり消耗したらしく、神殿にたどり着くと意識を失い、数日目を覚まさなかった。

 ウネリの容体が落ち着いて来ると、充てられた個室にキキとマヤが訪れ、外の様子を話してくれた。ウネリも、あの世界での出来事を言葉少なに語った。

「我々の事情に巻き込んでしまった事、誠に申し訳なく思っております。

 何より、巫女を慈しみ育て、我々を罪から救って下さり、本当にありがとうございます」

 アカネ月は今も、何事も無かったかのように静かに大地を見守っているとのことだった。

 そして、各地から不可思議な報告が神殿に届いていた。

「アカネ月の表面に、以前は誰も気づかなかった影が浮かんでいるんです」

 偶々あの夜、空を見上げた誰かが気付いたのだろう。しかし、いつの間にか浮かんでいた影に、何故か誰も不安を抱いては居ないという。

「不思議な程、月を見た者は穏やかな顔をするそうですよ。

 その影は、小さな子供に見えると言っている者も居るそうです。まるで、誰かと手を繋いでいる様だと」

 そうマヤは話してくれた。そして、ウネリも彼らに伝えるべきことがあった。

「ファイから皆にお願いがあります。自分も皆を護るから、おじちゃん達も皆を護ってあげてねだそうです。

 それと、俺からも頼みがあります。

 どうか、もう誰も利用しないよう、あの術は封印して下さい。あそこは、いずれ誰もが行き着く場所だ。誰かの一存で手を出して欲しくない」

 キキとマヤは、揃って頭を下げ約束した。

「必ず、手を尽くします」


 寝台脇の窓から見える、葉を落とした木々の枝が少しづつ緑を含み始めた頃、ウネリ達はようやく村へと還る算段が付いた。

 帰り支度を終え一息ついていると、ヒナガが部屋を訪れ、改まった口調で言った。

「ファイちゃんに全て話してしまったこと、黙っていて本当に申し訳ありませんでした。もっと早くにお伝えするべきでした」

「ファイから聞いた。わざとじゃなかったんだ、しかたないさ。それに、言わない約束だったんだろう?」

 左目をそっと抑えながら、ウネリは言った。

「俺は、何も出来なかった」

「その事なんですが、もしかして彼は、ある程度こうなることを予見していたんじゃないかと思うんです」

 ウネリの左目のことは、あの山頂で真っ先に気付いたキキが詳しく診ていた。その結果、完全にアカネ月の成分と入れ替わっている以外、全く問題なく機能しているとのことだった。

 いずれ、アカネ月に解けたウネリの一部と同様、ウネリが大地に還る時にファイの一部も大地と同化していくのだろう。

「成分の入れ替えに、術式は必要な筈です。特殊な世界であったとしても、事前に計算式を割り出していなければ成功確率が下がってしまう。巫女をを取り戻す為、ウネリさんを利用したんじゃないでしょうか」

 ヒナガの言っていることは、的を射ているのかもしれない。

 だが、ウネリに彼を責める気持ちは起きなかった。

 あの世界で出会った彼は歪で、油断ならない男だった。だが、方法を間違えていたとしても、全てを捧げあがき愛する者の傍を求める姿は、ミズナ達に聞いていたよりも遥かに人間臭かった。

「なにせ、彼は天才ですから」

「どうかな。案外普通の父親だったよ」

 そう言って、ウネリは窓の外に目を向けた。

 何の変哲も無い筈の景色は、とても美しかった。 


 ウネリが久しぶりに家へと帰ると、部屋はまめに掃除されていたらしく、出掛ける前より綺麗な位だった。上りぶちには作り立ての握り飯が二つ、何時も使っている皿に盛られて置かれていた。事前に神殿から帰宅の知らせを聞いたカイジュとヨナが、気を利かせてくれたのだと察しがついた。

 たいして広くはない筈の家だったが、がらんとして感じられ、すぐにその理由の一つに思い当たった。

 部屋の隅に置いていた、赤ん坊だったファイがくるまれていた高級そうな布団が、籠ごと無くなっていたのだ。ファイが月に還った時に、同時に大地に解けてしまったのだろう。

 思い出の品は消えてしまったが、ウネリは不思議と寂しくなかった。高級そうな柔らかな布団は、彼が娘を寝かせる為にあの無表情で精一杯考えたものだったのだろうと思うと、可笑しさが込みあげて来た。

 村の皆は、既にある程度の事情を聞いたのだろう。まだ夕方にも差し掛かってはいなかったが、家を訪ねて来る者は誰も居なかった。

 まだほんのり温かい握り飯に手を伸ばしながら、ウネリは考えていた。

 何も出来なかった自分を、きっと誰も責めないだろう。そういう運命だったのだと、心を痛めてくれる人も居るだろう。

 ファイの目は教えてくれる。世界はどうしようもない所で完結し、また継続し続ける。

 偶然に。必然に。喜びも、哀しみも、感じる者の数だけ存在するように。

 握り飯を平らげ、「ご馳走様」と呟き皿を片付けた。そして、まだ外は明るかったが、早々に床に就いた。


 翌日の早朝、ミズナの家をヒナガが訪れた。手に、何かが書かれた紙片を持っていた。

「ウネリさんの家に行ってきました」

 そう言って手にした紙片を、珍しく既に起きていたミズナに差し出した。

 ミズナが受け取ったそれには

<ミズナさん、ヒナガ、世話になった。カイジュとヨナにも、礼を言っておいてくれ>

 と、書かれていた。

 ヒナガがウネリの様子を伺いに家を訪ねると、誰も居ない部屋の真ん中にこの手紙が置いてあった。

「手周りのものが、無くなっていました。夜明け前には、出立してしまったようです」

「そうか」

「先生は、こうなるって知ってたんじゃないですか?」

 巫女達が護ってくれている大地を、ファイに見せてやりたいのか、己が確かめたいだけなのか、あるいは両方なのかは判らなかった。

 ただ、この世界を目に焼き付けたいという思いに背中を押され、ウネリは旅に出た。

「帰って来てくれますかね?」

「さあな。何なら、追いかけてもいいんだぞ。もう、お前も自由になっていいんだ。どっちに行ったか位、視てやる。馬ならまだ追いつくだろ」

「この村で、帰りを待ちますよ。それに先生、優秀な食事係がいなくなったら困るでしょう?」

「そういや、腹が減ったな」

「すぐ支度します」

 ヒナガが食事を作っている間、ミズナは家の外に出た。

 早朝という事もあり、まだひんやりとした空気だったが、既に冬は峠を越した気配を滲ませていた。

 まだ何も植わっていない畑を見ながら、さて今年は何が良く育つだろうか、などと考えた。そうだ、あの子の好きな、ほんのり甘い芋を多めに植えてやろう。きっと豊作だ。

 淡く青い空を見上げ、一度深く空気を吸い、家に入った。


 やがて、数え切れない程の季節を越えた夜、静かな砂浜に四つの影があった。月明かりに照らされ、大きな二つに挟まれた小さな二つの影達は、楽しそうにぴょこぴょこと飛び跳ねていた。

 百年に一度の豊月祭の夜、四人の親子は手を繋いで、ゆっくりと、大きな赤い月に向かうようにして歩いていた。

 小さな影の一つが、もう一回り小さい影に言った。

「ほら、見てごらん。月の中に影が見えるだろ? 小さい子が誰かと手を繋いでるみたいに見えない? 僕達みたいだね。あれって、豊月祭の時にしか見えないんだよ」

「ほんとうだ。だれが月にいるの? おにいちゃんは知ってるの?」

「大昔、僕達を見守るために、女の子とそのお父さんが月に行ったんだって。だから、月が一番近づく豊月祭の日は、僕達のことをよく見る為に、雨が降ることはないんだってさ。この間読んだ本に書いてあったよ」

「おにいちゃんは、なんでも知ってるね。すごいねぇ」

 妹に尊敬の眼差しを向けられた兄は、照れ笑いを浮かべた。そんな兄妹の様子を、優しい目で両親が見ている。

 父親が、小さな明かりを持った手で前方を指して言った。

「遠くに山影が見えるだろう? あれが、月の山だ。あそこから、その親子が月に行ったって言われてるんだぞ」

「父さんも、この話知ってるの?」

「ああ。大昔は不思議な眼を持つ人が今よりも沢山居て、何より、アカネ月以外にも幾つも月があったって。小さい頃、わくわくしながら本で読んだよ」

 母親も、にこにこしながら言った。

「私も、お婆ちゃんに絵本を読んで貰ったわ。懐かしいわ」

「わたしにも、よんで!」

「じゃあ、僕が読んであげるよ」

 やがて四人は、波打ち際に向かって足を止た。

 母親が、左手に下げていた花と芋が入った小さな籠を、兄妹に手渡した。仲良く受け取った二人は、丁度押し寄せた波に乗せる様に、それをそっと置いた。豊月祭の海は、何時もよりも少し大きな波を打ち寄せ、籠を攫っていった。

 月と星を映す様に、時折きらきらと光る海を、四人は暫く無言で見つめていた。やがて

「さあ、帰ろう」

 父親が言い、来た時と同じ様に四人並んで、自分たちの付けた足跡を辿りながら砂浜を歩きだした。

「次の豊月祭は、また百年後だ。もしかしたら、お前達はもう一回見られるかもしれないな」

 父親は小さく呟いた。

「寒くない?」

「だいじょうぶ」

 優しく尋ねる兄に、黒目がちの大きな瞳を向け、妹は元気に答えた。

 仲の良い兄妹は、手を取り合い楽しそうに歩く。

 月に浮かんだ影が、その姿をそっと見守っていた。

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