3.ケンカ
お休みを挟んで月曜日。僕は寝不足だった。
「眠そう。大丈夫?渡瀬くん」
ぼんやりしているうちに授業は終わっていつの間にか休み時間になっていた。声をかけた人物に半開きの目を向けかけて、はっと気づく。持田さんだ。持田メイ。編入してきたばかりの頃、僕のことを「それなりにイケメン」だと言ってくれた女の子だ。高橋さんと仲がよく、活発な高橋さんは僕とつるんでいる須田くんともよく話し、結果僕と持田さんも、それなりによく会話を交わす間柄となった。彼女は髪を二つに結んでいることが多くて、ふんわりと柔らかな雰囲気で、少し抜けているようなところもあって、ひどくかわいい。僕のことを気にかけてくれている、気がする。なので余計に特別かわいく思えるのかもしれない。
「言ってやっていいんだぞ持田さん。その寝癖やばいよって。いい意味じゃなくやばいって。むしろ言うべきだ。持田さんが言うのが一番いい。寝癖かわいいなんて言ってもらえると思うなと、ハッキリ言ってやった方がいい」
前の席の須田くんが、通路に脚を出して横向きに座りながら言った。彼の身体は横幅があるので、僕は身体を起こし、自分の机を少し下げる。
隣の席の高橋さんが片手で頬杖をついたまま僕に手鏡を渡してくれた。覗いてみると、確かに頭の右上に、ぴろんと跳ね上がった寝癖がある。
「うう……」
僕は立ち上がる。確かにやばいかもしれなかった。困ったように笑っている持田さんに対して、何だか申し訳なかった。「直して参ります……」僕は高橋さんに手鏡を返し、三人に頭を下げるとトイレに向かった。廊下は人でごった返している。ボールを投げ合っている男子グループがいて、彼らに文句を言っている女子たちがいた。その横を僕はふらふら通り過ぎる。「でさあ」別の女子集団の会話が耳に入る。「私の席、ベストポジションなわけよ。朝日橋くんの寝顔見放題!」数名の甲高い声が口々に、羨ましい、ずるい、替われ、と訴える。耳というのはとても性能がいいのだ、という話を僕は思い出した。気になっていることに関連する情報を、自動的に選んでキャッチする。何て名前だったっけ。何とか効果。この前テレビで説明していたのを見たのだけれど。
「直ってないぞ」
戻った僕を見て、須田くんは言った。濡らして撫でつけたのだけれど、あまりうまくいかなかった。急がないと休み時間が終わってしまうと思ったので、もういいや、と諦めた。
「あのさ須田くん。二年六組の朝日橋くんって知ってる?」
「朝日橋。奴は有名人だな。特に女子人気は凄まじいな。確かイタリア人のクォーター。まあでも奴はちょっと変わってるから、保守派の女子は鑑賞専用扱いをしているな」
「保守派の女子ってなに」
「保守的な女子のことだ。サッカー部と野球部以外は基本男子ではないと思っている女子だ。渡瀬くんとは縁のない女子だ」
「あのさ、朝日橋くんて、ええと、その」
「なんだ」
「朝日橋くんって、彼女いるのかな」
「おい、どうした。渡瀬くんはそっちの趣味だったのか」
「そっちの趣味ってどっちの趣味」
「そっちの趣味はそっちの趣味だ。そっちだとしても暖かく見守ってやるけどな。まあそれは冗談として、なんで朝日橋の彼女の有無が気になるんだ」
「……ちょっと」
「なんだ、例の探偵部絡みか」
「いや、ええと」
僕が口ごもっていると、隣から高橋さんが話に入ってきた。
「朝日橋くんは彼女いないよ」
シールをたくさん貼った手帳をパタパタと振りながら言う。
「あれは彼女作っちゃダメだよ。なんて言うのかな、みんなの朝日橋くんってやつ?あそこまでのイケメンはそうはいないよ、学園の誇りだよあれは」
猫みたいなくりっとした目で高橋さんは言い切る。するとその高橋さんと向かい合って座っていた持田さんが、おっとりと言った。
「でも、五組の水戸さんとつきあってるって噂あったよ」
持田さんは僕と目が合うとにっこりと微笑んだ。つられて僕も頬を緩ませつつ、
「いや、水戸さんは……単に同じ部活ってだけじゃないのかな」
そう言うと、なぜか三人は、いきなり真剣な顔で僕を見た。
「……なに?」
「少人数の部活っていうのは、怪しいもんだ。放課後の長い時間を一緒に過ごす。そうだろ?」
須田くんの眼鏡のきらめきに、僕はたじろぐ。
「でも、ほら、朝日橋くんの部はもう一人いるでしょ。斎川くんって、ほら、彼も背が高くて、かっこいい感じの……」
「朝日橋くんと水戸さんのことなんてどうでもいいのよ」
妙に低音で、僕のことばを遮るように突然高橋さんが言った。おもむろに立ち上がり、僕の机に手を着くと、冷ややかな目で僕を見下ろして続ける。
「普通部活の最低人数は三人よ。何か特別の事情で存続させないといけないとか、裏で手を回して無理矢理学校に認めさせたとか、そういうのじゃない限り、三人いないと学校公認の部とはならないのよ」
初耳だった。それはともかく、何でそれを今、こんな怖い顔をして言うのだろうか。
「はっきり訊くけど渡瀬くん」
けれどもこういう時の女子に、余計なことを言ってはいけない。僕は唾を呑みこみながら彼女を見上げ続きを待つ。見下ろす高橋さんの視線と別に、須田くんと、持田さんの視線までもがなぜか今は痛く感じられる。
「渡瀬くんと法月さんって、どういう関係なの?」
じじじじじ……と機械音がした。続いてチャイムが鳴り響く。チャイムの音の中、教室内の生徒たちはがたがたと自分の席に戻り出す。高橋さんは刺すような視線を僕に向け、舌打ちしそうな顔をして、席に着いた。持田さんの優しい目が、やけに悲しげに何か言いたそうに僕に向けられて、でも彼女も何も言わずに少し離れた自分の席へと戻っていく。次の授業の教科書を慌てて取り出す僕に、須田くんは振り向いて、「次の時間までに答え考えとけ」と小声で言った。けれども次の休み時間、高橋さんと持田さんは係の仕事で先生について出て行ったので教室にいなかった。昼休み、彼女たちは五、六人の女子集団の輪の中にいて、僕らの方には来なかった。
そもそもそれは、そんなに重要なことなのか?
答えなければいけないことなのか?
部外者には、関係ないことじゃないか。
僕の中にあったのは……決して口には出せそうになかったけれど……そんな言葉ばかりだった。
放課後探偵部室に行くと、法月さんは先に来ていた。ソファの上で脚を伸ばして本を読んでいる。僕が入っていくと顔を上げ、言った。
「ココアを買ってきた。入れてくれる?」
「ココア?なんで」
「事件の検証。いいから入れて」
僕はリュックを下ろして床に置くと、電気ポットを置いているコーナーに行った。
「カップはその辺のを適当に使って」
法月さんが言う。棚の中には紅茶の缶がいくつかと、コーヒーの缶と緑茶の缶。その横に、昨日朝日橋くんが見せてくれたのと同じ銘柄の、ココアの缶が置いてある。ポットのお湯はすでに沸かされて保温状態になっていた。
「一人分だけ入れたらいいのかな」
「どっちでもいいよ。飲みたいなら自分の分も入れたら?」
どちらかというと、飲みたくなかった。変なものが入ったココア、というイメージが今は頭の中で強すぎる。だからたとえ自分で入れて絶対安心だと分かっていても、何となく、飲みたいと思わない。別に甘いものがほしい気分なわけでもないし。
ココアの粉を入れたカップにお湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜる。甘い香りが立ち上る。
「はい」
座ったままの法月さんにカップを手渡した。
「ありがとう。それにしても芸術的な寝癖だね」
「うん」
「……ねえ、事件について、あれから考えてみた?」
「考えるも考えないも」
休みの間もずっと頭から離れなかった。眠れないほどに考えていた。
厳密には、事件について、ではないかもしれない。
僕がずっと考えていたのは、探偵・法月紗羅についてだ。
恋する乙女になってしまって、何が真実か、見えなくなってしまった探偵。
「あのさ、法月さん」
僕が何から切り出そうかと迷っていると、
「ねえ渡瀬くん、気づいた?」
やけに嬉しそうに笑いながら、法月さんが僕を見上げて言った。
「なにに?」
「このココア。飲んでみて」
「いや、僕はいらないから入れなかったわけで」
「いいから飲んで」
「いらないよ」
「飲んで」
「……」
有無を言わさない勢いに圧されて、僕は仕方なくカップを受け取った。まあ、自分が入れたわけだから、変なものは入っていないのだし。飲みたいわけではないけれど、飲んで困るものでもない。
僕はカップを傾けた。
そうして次の瞬間、うえ、と顔を歪ませた。
「なにこれ、しょ、醤油?」
「すごい、味覚するどいね渡瀬くん。ご名答」
「ご名答、じゃないよ。なんでそんなの、人に飲ませる」
はっきり言ってもの凄くいやな味だった。法月さんはやたらと愉しげな顔をしながら立ち上がり、ごめんごめんと言って、口直し、と缶入りのオレンジジュースを差しだしてくれた。僕はすぐさまプルタブを開け、ごくごくとそれを飲んだ。
「でもさ、これで証明できたよね」
「なにを?」
「先週私が言ったこと。犯人は、水戸さんだってこと」
「……どういうこと?」
僕が訊ねると、法月さんはスカートのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、お弁当で醤油とかソースとかを持って行く時に使うプラスチックの容器だった。
「これを手の平の中に忍ばせておいて、ほら、こうやって蓋をはずして、中身を注ぐ。まわりからはほとんど見えないように、巧妙に。一昨日思いついて、昨日はずっと練習してたんだ。なかなか難しいけれど、でもできないことじゃない。道化師は、手品だってお手の物だし」
頬を上気させ、法月さんは得意顔だ。……必死だ。
「さっき、私がカップを受け取ってから君に渡すまでの間、私たちは会話を交わしていた。君はずっと私の挙動を注視していたわけではないけれど、でも何となく、私の方は見てたよね。水戸さんの場合も同じような状況だ。そうだよね?」
「まあ」
「でも君は、私がココアに醤油を入れたのに気がつかなかった。だから私がそのままココアを飲んで、苦しみ始めたら、君は、犯人は自分だとしか思えなくなる。そういうことだ」
「……それよりも、朝日橋くんがココアに変なものを入れる方が、はるかに簡単だよね。流しのところで、一人だったわけだし」
「より犯行が容易だからその人が犯人だ、なんて理屈はないよ。可能性の高さと真実は無縁だ」
「じゃあ、何が決め手?動機?水戸さんは、被害者だよ。何で自分が苦しむようなこと、自分でするのか、意味がわからないよ」
「……動機についてはまだわからない。でもともかく、犯人は水戸さんなんだ」
「だから、なんで?」
「なんでと言われても困る。前から言ってるよね。そういう感じがする。そうだとわかる。だけど理由はうまく説明できない、って」
「それで犯人にされる方はたまったものじゃない」
「もちろん。だからがんばって根拠をさがす」
……一か月前、はじめて一緒に遭遇した事件の時も、法月さんは同じことを言っていた。明確にそうだとわかる、総合的な判断で確信できる、でも根拠は説明できない、と。
そうして僕が探偵部に入ると決めたのは、彼女が弱っていたからだ。
真実を見抜けるけれど、そんなのは単なる自分の思い込みかもしれない、すべてについてそうだ、と弱音を吐いていた彼女を、助けたいと思ったからだ。
だって、彼女は正しかったのだから。根拠はなくて、うまい説明もできなくて、それでもあの美術部で起きた事件について、何が誰によるものなのか、彼女は正確に見抜いていた。僕はそれを凄いと思って、そうしてもしも僕が彼女の力になれるというのなら、力になりたいと、そう思ったのだ。
僕が探偵部に入って一か月。その間、彼女は大抵、真実を見つけだしてきた。見つけだすだけでなく、何が最善かを考えて、みんなにとって良い結果になるように、いつも一生懸命だった。
……けれども。
今の法月紗羅は、正しさを失ってしまっている。
好きな男子を悪く思いたくないあまり、こともあろうに被害者の女の子を犯人だと決めつけている。そうしてその子を犯人に仕立て上げるために、無理矢理根拠を作り出そうとしている。
「法月さん。僕は、ちょっと言いにくいことも言おうと思う」
僕は言った。
「うん」
法月さんはソファの上に、すらりと細い靴下の脚を投げ出したまま、それでも神妙な顔で頷いた。
「あのさ。僕は朝日橋くんに、彼女がいたらいいと思ったんだけど。そしたら君もきっぱり諦めて、気持を切り替えられるんじゃないかなと思ったんだけど。でも嘘をつくわけにもいかないから。その、どうも彼女はいないらしい」
「はあ」
「でも、彼女になったら大変だと思う。たくさんの女子が朝日橋くんのファンだから。みんなの朝日橋くんらしいから」
「ふうん」
「ええと、それはどうでもいいんだけど。そうなったらそうなったで、僕に何か言う権利はないんだけど。ともかく僕は、君に目を覚ましてほしいんだ」
「へ?」
「君は探偵なんだろ?いつも言うよね、自分は探偵だ、って」
「うん」
「探偵は、しっかりと真実を見るべきだと、そう思わない?」
「もちろん」
「僕は君に、元のしっかりした君に戻ってほしい。つらい真実も、ちゃんと受け止めてほしい。その上で、つきあうんだったらつきあったらいいと思うし」
「はあ」
「朝日橋くんは、君に興味を持っていて、君がいろいろ見抜く力を持っているのを、試したかったんだと思う。単純に、君と関わりたかったのかもしれない。ともかく、君に調査してもらいたくて、自分に興味をもってほしくて、それで事件を起こしたんだと思う」
法月さんは、考え込む表情をした。眉間にしわを寄せ、しばらくの間、もの凄く真剣な顔をしていた。
「……君はやっぱり、すばらしい助手だな」
やがて法月さんは口を開いて、そう言った。
わかってもらえた。そう思って、僕は嬉しくなった。
けれどもそうではなかった。
「全部つながった。うん、そういうことだ。それなら辻褄が合う。たぶんそうなんだろう。――朝日橋くんは、かねてから探偵である私に興味があった。依頼をして、探偵がどんな風に調査したりするのかを、見てみたかった。水戸さんは、それを知っていた。それで朝日橋くんのために、事件を計画して、実行した。……事前に知っていたならば、おそらく朝日橋くんも斎川くんも彼女を止めていただろう。けれどももう、彼女は犠牲を払った後だ。むしろせっかく苦しい目に遭ったのに、それを無駄にするのはしのびない。今の時点では朝日橋くんも斎川くんも彼女が自分でやったのだということを知っているけれど、せっかくなので、二人も彼女のお膳立てどおり、それで楽しむことにした。探偵法月紗羅は何でも当てるとか、普通の人が見えないものを見る力があるとか、いろんな噂があるけれど、本当なのか。犯人が水戸ゆりなだと、彼女は見抜くことができるのか。探偵への挑戦状だ。そうだ、それなら動機として申し分ないし、彼らの言動とも矛盾しない」
法月さんは、興奮したようにまくしたてた。
僕は言った。
「どうしても水戸さんを犯人にしないと、気が済まないの?」
法月さんは僕を見上げ、少しだけ顔を曇らせた。
「ごめん。うまく説明できない。でもそこだけは間違いないよ」
「なんで?」
「だから説明できない。前から言ってるけど……」
「何度も聞いたよ。さっきも聞いたばっかりだよ。だけどたまには、それが自分の思い込みだって、疑うことはないの?」
言ってすぐに、しまった、と思った。けれども後の祭りだった。
彼女の顔色が変わった。
僕に言われるまでもなく、彼女の頭の隅っこには、常にその不安があるのだ。「すべては自分の思い込みかもしれない」。その不安に対して、ちがうよ、と言える、そういう存在を助手に求めていたということを、僕は充分知っていたのに。
「そうだね。私は狂っているのかもしれないね」
押し殺したような声で、彼女は言った。
「そこまでは言ってない」
「言ってなくても同じだよ。だって私は確信しているのだもの。ほら、たとえばここにテーブルがあるよね。それを私は確信している。けど、もしも君がここにテーブルなんかないと言い、他のみんなもテーブルなんかないと言い、そして実際テーブルなんてないのなら、私は狂っているということになる。そういうことだよ」
「……ちがうよ。ただ、君は朝日橋くんが好きで、だから彼を悪く思いたくなくて、水戸さんの自作自演ってことにしてしまいたいという……そういう、恋した女の子なら仕方のない、そういう話だと思う」
僕は必死で言った。法月さんは眉をひそめる。
「ちょっと待って。私は朝日橋くんが好きなの?」
「そうでしょう?」
「私は正直、彼のこと、すごく苦手だ、と思ってるけど」
「……そうは見えないけど」
「じゃあ、『恋は盲目』ってやつで、私は馬鹿な女の子で、実際は純粋に被害者である子を自作自演のイタい子に仕立て上げようとしている、君にはそう見えているっていうことなの?」
「……うん」
「じゃあ言うけど、私には、君こそ朝日橋くんを犯人にすることに固執しているように見えるよ。背が高くて、女子に騒がれていて、誰が見てもかっこいい、その上器用で運動神経もよくて頭もよくて家も金持ちで、なおかつ性格もいい、そんな朝日橋くんに嫉妬して、悪者にしたくて、何としてでも彼を犯人にしようと躍起になってる、そんな風に見えるよ」
「……僕は彼が運動神経がいいことも頭がいいことも家が金持ちなことも知らなかったけど。でも法月さんには、そんな風に見えてたんだ。へえ。何でもわかる探偵様が、そう言うならそうなのかもしれないね」
「何でもわかるなんて、私はそんなこと、一度も言ったことない」
「そう?僕は他人だから、君が何を確信していて何は自分の主観にすぎないと思っているかなんて知りようがないよ」
「そうだね。他人だものね。わかりあえるなんて思う方がどうかしてるよね」
「うん。今さらだけどね」
「うん。ほんとうに、今さら」
法月さんは、ソファの上で自分の膝を引き寄せると、そっぽを向いた。
僕はもう、一秒もこんな場所にはいたくなかった。手に持ったままだったオレンジジュースを飲み干して、空き缶を、叩きつけるようにテーブルの上に置いた。そうして足元に置いていたリュックを手に取ると、そのまま探偵部室を出て、振り向きもせずに戸を閉めた。