1.にぎやかな依頼人
僕が探偵部に入部してから、一か月が過ぎた。その間に、九人の依頼人がやって来た。長袖体操服の袖が毎日縛られる事件とか、真夜中トランペット事件とか、赤い傘が大量に盗まれた事件とか、モモンガ事件とか、いろいろあった。法月さんは何日もかけて調査をすることもあれば、その場で話をしただけで解決してしまうようなこともあった。法月さんは、依頼人がやって来るのが大好きだった。泣いている子や、怒っている子、ひどく思い悩んでいる様子の子もいて、法月さんはそういった子たちから効果的に話を聞きだすためにいつも上手に親身になってみせたけれど、彼らが帰っていくと、平気で本音を漏らしたりした。その時の問題は解決したけれど、その子の抱えている悩み自体が解決したわけじゃない……そんな時でも法月さんは、「ああ、面白かった」なんて心から満足したような笑みで言うようなことがあって、僕は少し複雑な気持になったりした。
「依頼人が来るのって、そんなに嬉しい?」
僕は訊いたことがあった。
「嬉しいよ」法月紗羅は即答した。「嬉しいに決まってる。嬉しくないなら、探偵なんてやってない」
「でもさ、依頼人が来ないってことは、困っている人がいないってことで……いや、困ってても来ないだけかもしれないけれどさ……それはそれでいいと思わない?」
「思わない。つまらない」
依頼人が来ない時、法月紗羅は本を読んだり、パソコンをいじったり、紅茶を淹れてくれたりした。僕は絵を描いたり、文章を書いたり、宿題をやったりしていた。部室で過ごすこと自体が、僕は嫌いじゃなかった。けれど法月紗羅には、そういった時間は耐え難いようだった。しょっちゅう顔をしかめたり、細い腕をぐるぐる回して「んあーっ!」と突然大声を上げたりした。「この紅茶、すごく美味しいね」僕がそう言っても、「だから何」と吐き捨ててため息をついたりした。
そんなだから、どんな依頼人が来ても、法月紗羅は大歓迎だった。ぜんぜん大したことない問題、それこそ依頼人の勘違いでしかなかったり、喋ったらそれだけで満足して帰っていくような、そんな時でさえ、法月さんは嬉しそうだった。
でも今回は、様子がちがった。
「今日は依頼人が来る」
先週まるまる誰も来なかったわけだから、待望の、と言ってよかった。なのにそう言った法月さんの声は、やけに固かった。
「保健室の先生の紹介?」
来ることが事前にわかっているのは、大抵そのパターンだった。訊ねると、法月さんはこくこくと頷いた。……通常ならどこからどう見ても美少女、というその顔なのだけど、今は眉間にしわが寄っていて、目許もひどく歪んでいる。
「なにかいやな要素でもあるの?」
そう訊くと、ぱっと顔を上げ、
「そんなことあるもんか」
と言った。そうして落ち着かなげに立ち上がり、じゅぼぼぼぼ、とポットのお湯を急須に注いだ。その時廊下から、大きな話し声が聞こえてきた。笑い声までした。どちらも同じ男子生徒の声。僕は耳を疑った。だって今僕たちがいる探偵部室――第九応接室は、生徒ばかりか先生までもが姿勢を正しよそいきの顔で通り過ぎる、通称「そとづらの道」にあるのに。そう思っていると、案の定、大声を注意している先生らしき声がした。
「すみません!」
妙に潔い、そして逆にまったく注意を聞く気がないとしか思われない大声が響く。当然先生のお説教が始まる。その相づちは、やはり大声だ。それに対して先生が、何と言ってるのかまではわからない。
「ハイ!ハイ!わかりました!」
威勢のいい声が聞こえた。そうして程なく、探偵部室の扉がノックされた。
「依頼に来たよ~開けていい?」
先ほどまで聞こえていたのと同じ声が響くと同時に、返事を待たずにがらりと扉が開けられた。立っていたのは、茶髪に長身、妙に彫りの深い顔立ちの男の子と、まっすぐな黒髪おかっぱの、日本人形みたいな小柄で色白の女の子。
「わあ、本格的に応接室だ!」
男の子が、相変わらずの大声で嬉しそうに言った。こんな明るい表情でやって来た依頼人は初めてだった。立ち上がって出迎えた僕は、横から彼らの背後の扉を閉めた。
「……どうぞお座りください」
すでにお茶を並べ終え、正面にどかっと腰を下ろした法月紗羅が言った。
「わあい、法月さん、やっほー」
男の子はおどけた様子で大げさに手を振ってみせ、法月紗羅は、それに対して苦虫を噛み潰したような顔をした。男の子は身体を折るようにしてソファのにおいをくんくん嗅いだり、妙に指の長い手でその表面をぱんぱん叩いたりしてから、ようやく法月さんの前に腰を下ろした。その隣に、おかっぱの女の子は静かに座った。僕はノートとペンを手にして、その女の子の前に着席する。
「お名前を教えてください」
「え?知ってるよね?僕の名前」
「……失礼しました。こちらが先に名乗るのが礼儀ですよね。私は二年六組法月紗羅です。こちらは助手の、二年三組渡瀬敦。あなたのお名前を教えてください。助手が記録を取りますので、漢字もお願いします」
「ちえっ他人行儀だなあ」
男の子は口をとがらせながら、僕に向かって身を乗り出し、クラスと名前を教えてくれた。二年六組、朝日橋洪。
「あ、……同じクラス?」
僕は朝日橋くんと法月さんを交互に見て言った。
「イエス」
朝日橋くんはにかっと笑って答える。法月さんはそっぽを向いた。その耳が、ほんのり赤いことに僕は気づく。
「ええと、あなたは?」
僕はお人形のように姿勢よく座っている、女の子の方に訊ねた。女の子は小さく口を開くと、ほとんど息と言っていいようなささやき声で、僕に向かって名前を言った。……ようだったけど、よく聞こえなかった。僕が訊き返す前に、朝日橋くんが代わりに言う。
「こいつは二年五組、水戸ゆりな」
水戸さんは、小さな赤い唇をきゅっと閉じたまま、冷やかともいえる顔つきで朝日橋くんを見上げていた。そこにどんな感情があるのかは、まるでわからない。
「で、依頼はどのような内容ですか?」
虚勢を張るように両腕を組み、法月さんは朝日橋くんに訊ねた。
「なんだと思う?」にやりと笑って朝日橋くんは訊き返す。
「水戸さんの喉に関することですね。水戸さん、無理しないでください。あなたはあまり表情に出さないけれど、筋肉の緊張でわかります。声を出すと喉が痛いのでしょう?彼はあなたの代わりに話す役でここに来たのだから、あなたは遠慮なく黙っていていいんです。もし言いたいことがあったら、よかったらここに書いてください」
法月さんは朝日橋くんのことをほとんど見ないようにして言いながら、脇に置いてあった自分の鞄からノートとペンを取り出し、水戸さんに渡した。水戸ゆりなはそれを受け取り、けれども自分の前に置いたきり、後は触れようともしない。
朝日橋くんはにやにやしながら法月さんを眺めていた。法月さんは顔をしかめている。
「こいつの喉に関すること。……うん、そこまでは正解。何があったと思う?」
「何か勘違いされているのかもしれませんが、探偵は当てものをするのが仕事ではありません。話を聞き、調査して、解決するのが仕事です」
法月さんはそう言うと、突如立ち上がった。
「あなたと水戸さんは同じ部活で、それはその部室で起こった。だから今から部室に来て、現場を見て、犯人を割り出してほしい。そういう依頼でしょう?時間がもったいないから、さっさと行きませんか」
「……五条先生から訊いたの?」
朝日橋くんは座ったまま不服そうに言った。
「ここに来るのは強制ではなく自由意思だったはずです。養護教諭には守秘義務がありますから、生徒の身に起こったことについて、他の生徒にぺらぺら喋ったりしませんよ」
法月さんは立ち上がったまま身体をねじってソファに身をかがめるようにしていて……何をしているのかと思ったら、背もたれのカバーにほつれを見つけてそれを指でつまんでいじっているのだった。法月さんは朝日橋くんの顔をほとんど見ようとしない。突き放すような敬語を崩さない。
けれども耳の赤みが、今は頬まで広がっている。
むっとしたその顔が、いつもとちがう妙なかわいらしさを湛えているように見える。
「なんだ。じゃあ、やっぱり当てものしてるんじゃん」
朝日橋くんがにっと笑った。
法月さんは、朝日橋くんに顔を向けないようにしたまま、唇をとがらせるようにしていた。
水戸さんが冷やかな表情のまますっと立ち上がる。
「んじゃ、そういうことで行きましょうか」
言いながら朝日橋くんも立ち上がり、けれどそこで湯呑を持ち上げて、中身をぐいっと飲み干した。
行く道すがら、説明された経緯はこういうことだった。
部活動を終えて、帰る前にちょっと休憩……といった感じのその時に、水戸さんはいつものようにココアを飲んだ。ココアを入れたのは朝日橋くんで、飲んだのは水戸さん一人。しかしそれを飲んだ直後、水戸さんは激しく咳き込んだ。喉に焼けるような痛みを感じたという。朝日橋くんと、もう一人の部員である斎川くんは、異変に気がついて慌てて彼女を保健室に連れて行った。喉の粘膜が刺激によって傷んでいるのでしばらくあまり声を出さない方がいい、と保健の五条先生は言った。斎川くんは部室に飛んで帰って、ココアの飲み残しの入ったカップを持って保健室に戻った。五条先生は慎重にそのにおいを嗅いでから、少量口に含んでみたという。先生が言うには、ココアの中に、唐辛子を漬けこんだウォッカが入れられている、ということだった。水戸さんはもちろんお酒なんて飲んだことがないし、元々唐辛子系の辛い物は大の苦手だった。
「ココアを入れたのは朝日橋くんなんですね」と法月さん。
「そうすよ。いやもう、びっくりしたのなんのって」
朝日橋くんは屈託なく言う。
普通、たとえ何もやっていなかったとしても、自分の入れた飲み物に何か混入されて被害者が出たりしたら、もっと動揺するものではないだろうか。それに、まっさきに疑われる立場にいるのに、不安に思ったりしないのだろうか。
僕は朝日橋くんの様子を覗った。何の悩みもないような、曇りのない上機嫌、といった風に見える。ハーフかクォーターなのだろうか、色素は薄いし顔は小さいし肩幅はあるし手足はやけに長いし、背の高さを差し引いたとしても、どうにも自分と同じ年齢の同じ男子という気がしない。別の生き物のようにかっこいい。僕の視線に気がついて、彼は「ん?」と問い返す表情をした。
「ところで部活って、何部なんですか?」
僕は訊ねた。訊ねてから、助手のくせに勝手に質問したりしてでしゃばったかなあ、法月さんにはもう既知のことなら、法月さんに訊ねた方がよかったかなあ、などと思って隣を歩く彼女の顔を見た。法月さんは顔をしかめて、ただ前を見据えている。
「ビバ☆道化師部」
朝日橋くんが言った。
「え?」
「ビバ、星マーク、道化師部、だよ。助手くん」
「それってどういう……」
「え、我が部について説明していいの?説明を始めたら、たぶん今日はおうちに帰れないけど、大丈夫かな?」
笑顔のままで言う朝日橋くんに僕が戸惑っていると、
「ビバ☆道化師部は朝日橋くんが去年の秋に設立した部で、現在の部員は朝日橋くん、水戸さん、斎川くんの三人。非公式だけど学校公認なので部室はある。ピエロの扮装をして演技やパントマイム、手品や楽器演奏といったショーをするという活動をしていて、幼等部や初等部、学園と繋がりのある養護施設等を定期的に訪問している。評判は悪くない。公式の部活に――つまり学校案内の部活動一覧に記載し広く部員を募集し、学校予算に組み込む形態に――してはどうか、という話も出ているが、朝日橋くんはそれには反対していて、公式の部活にするというのなら新たに同様の部を設立すればいい、自分はその団体には関与しない、と表明している」
法月さんが前を向いたまま早口でそう説明した。
「ほぼ合ってるけどひとつだけ。『ピエロの扮装』だけじゃないよ。ピエロをやることもあるけど、クラウン全般……あ、君たち、クラウンとピエロの違いって知ってる?わかりやすい特徴は、涙があるかどうかなんだけどね。より馬鹿にされる、より悲しい存在なんだよピエロは」
朝日橋くんがにこにこしたまま言う。
僕は「ビバ、星マーク」の意味について気になってしょうがなかったけれど、そんな余計なことを訊いたら何となく法月さんが怒り出しそうな気がして、我慢していた。案の定、法月さんは
「飲み残しのカップは残してあるんですよね?実際の現場で、昨日の状況をできる限り細かく説明してもらえる、ということでよろしいですか?」
切るような口調で話を元に戻した。
「もちろん。説明どころか、実演してお見せしますよ。ビバ☆道化師部の名にかけて、リアルに再現致しますんで!」
朝日橋くんはえらく楽しそうに言う。
水戸さんは、にこりともしないけれど特に反感を覚えているといった様子もなく、時おり静かに朝日橋くんを見上げながら話を聞いていた。彼女の気持はまるで見えない。
「喉……黙っていても痛いですか?」
僕は法月さんと朝日橋くんを挟んで一番端の彼女に訊ねた。
彼女は少しだけ目を見開くようにしながら、小さくこくん、と頷いた。