世界
エルの世界はここ一つだった。
エルの世界はここ一つであって、そこにいくつもの世界を想い描いていた。絵筆という杖は七色の光を描き、夢を本当にするように、そこに一つの現実をつくるように。
草原の中、小さな背の陰で風になびく真っ白のおさげ。青で満たされた小さな木のパレットを右手に、大切な絵筆はあえて左手に。すこし黄ばんだキャンバスの上で今日も新しい世界が生まれようとしている。
エルは、自分が何者かは知らない。いつもここで絵を描いていたような気もするし、違うような気もする。事実、エルは見たこともない世界を突拍子もなく描き上げ、その世界に想いを馳せては何かが違うとまた新しい世界をつくりだす。自分の知らないものを見るとわくわくして、一日中平気で見つめていられる。
家族だとか、友達だとか、そんなものをエルは知らなかった。当然のことだった。エル以外、ここに人はいないのだから。
「やあエル、今日もお絵かきかい」
ハトが一羽、エルのまわりにやってきた。エルは筆をとめずに口だけを動かす。
「こんにちはグレイ、また何か持ってきてくれたの?」
「いいや、今日は絵を見に来ただけさ」
グレイと呼ばれたハトはエルの肩にとまってほうと鳴いた。エルは水の世界を描いていたのだ。青い絵の具が明るさを変えながら流れるような曲線を描き、真ん中に近づいていくにつれ渦をまいて深淵へと見るものをいざなうようだ。
「今日の絵は一段とすごいね。吸い込まれてしまいそうだ」
グレイの言葉が終わるころに、エルも手をとめた。世界が完成したのだった。
「この世界はね、なんだかかわいそうなの」
エルは珍しく自分の描いた世界を哀れんだ。
「苦しくて、立っていられなくて、助けも呼べなくて、どんどん深く、奥までひきずられていってしまう、悲しい世界。私はなんとなく死に向かってるんだって、改めて教えてくれているよう」
「そうかい? ぼくには綺麗な水流がぼくを吸い込んでしまうような美しささえおぼえるけど」
「きっと、そんなに優しいものじゃないわ。なんとなく」
「まあ、エルがそういうのならそうなんだろうね」
エルは、絵をそのまま飾っておいて草むらに背を預けて目を閉じた。あの水流に、いつか自分がまきこまれることを恐れながら。グレイはさっと飛びのいて「おやすみ。次は何かいいものをもってくるよ」と言い残して飛び去った。
グレイに起こされて、エルは目を覚ました。強く握っていたのか痛む左手には絵筆があった。そのまま起き上がって、目の前にあったのは真ん中から引き裂かれた「水の世界」だった。地面は名前も知らない草じゃなくてかたくて冷たいものだった。でもそれよりすごいのは景色そのものが変わってしまっていること。あちらこちらに飛び散っている透明の破片、石の塊やなにかの建物だったもの、雲が覆ってて太陽のない空。
「壊れた……世界?」
エルはつぶやいた。この世界を一度描いたことがある。その時はガラスだとかコンクリートなんて知らなかったからたいそうグレイにお世話になったのだが、そのうちに怖くなってしまってその絵は絵をしまう倉庫の一番奥に封印するように置いた。
「気付いたかエル。けがはないかい?」
心配そうにグレイが尋ねた。
「うん、大丈夫。それよりグレイ、いったい何があったの?」
「ぼくにもわからない。気付いたらエルと二人でここにいたのさ」
エルは再び真っ二つになった「水の世界」を見た。よく見ると割れ目も青く染まっていてそこから水が少しずつあふれている。エルの背筋が凍りついた。あの水流に、きっとまきこまれてしまったからだ。
「赤い人形を探そう」
エルは言った。それは「壊れた世界」に出てくる赤くて長い髪をもった人形(グレイはエルに人という概念を説明できずに、苦し紛れにそう言った)はエルが感じた、この世界の唯一の「幸せ」だからだ。
エルはグレイの返事も待たずに記憶の中をあさってあの風景を探しに走った。息はきれるし足はだんだん棒になってくるが懸命に走った。だいたい自分がどこを走っているのかわからなくなったとき、唐突にその風景は姿を現した。赤い人形も、絵に描いたとおりの場所にいた。でも絵と違った。その空ろな目は、まっすぐにエルを見つめていたのだ。
「だれ?」
エルは驚いた。人形はしゃべれないとグレイから聞いていたから。
「私はエル。こっちはグレイ」
おずおずとエルが返すと「そう」と短く人形は吐いた。
「君はだれだい?」
今度はグレイが口を開いた。人形は驚いた様子もなく、やや躊躇ってからこういった。
「別に、教えても教えなくても私は不幸よ。なら教えるだけ面倒だわ」
「人に尋ねておいてそれはないだろう。ねえエル」
こういうことにグレイはうるさい。でも名乗ってもらう必要はなかった。
「知ってるからいいわ。プレフさん、あなたはどうして不幸なの?」
グレイは顔をしかめた。プレフというのはグレイの知ってる古い言葉で「生きてもいないし死しんでもいない者」を意味するからだ。
プレフは目を見開いた。見ず知らずの少女にまで知られていた。それは恐怖でもあった。よけいに惨めで不幸だ。
「そこまで知っているのに私に聞くなんて、どれだけ私を不幸にしたいの?」
「エル、きっとこいつは本物の人形なんだ」
グレイのいうことの意味はエルにはわからなかったけれど、プレフは納得したみたいだった。
「人形……そうね。人形でしょうね」
「どうして人形だから不幸なの?」
エルにはわからない。二人の会話の意味が。言葉を超えてひろがる冷たい悲しみが。
「私は生まれた時から不幸。あなたは最初から幸せなの。だからわからないのよ」
「ちがうさ。幸せっていうのは生まれつきなっているものじゃない」
グレイは言った。エルはますます二人の会話についていけなくなる。
「幸せはなるものだ。それも、掴み取ったりするようにじゃなく、一時一瞬に感じることなんだ。君が抱く幸せの考えは間違っている。だから君は自分は不幸だと勘違いしているんだ。君のこれまでに幸せと呼べる瞬間はなかったのかい?」
「何も知らないのにえらそうに言わないで」
プレフは声をあらげた。泣いてもいた。わかってもらえないのだ。だれもわからない。わかることなんかできない。本当は気付いてほしい。気付いて慰めてほしいのに。
エルは我慢できずにプレフに駆け寄った。無言でプレフの手を取ろうとする。
「私の手に触るの? たくさんの命を壊してきた手よ?」
「私にはあなたのいうことはよくわからない。でも一つだけなんとなくわかる。この絵筆であなたを描いたとき、確かに私は幸せだった。崩れた世界にさく花みたいにあなただけは美しくて、こんなにも綺麗な手をしている。私気になるの。あなたがその手で描く世界が。この手でいったいどんな綺麗な世界を描くんだろうって。きっとあなたみたいに美しくて綺麗な世界だわ、なんとなく」
プレフは泣きながら大笑いした。嘲笑だとグレイにはわかったが、やっぱりエルにはわからない。
「ほんとうに、馬鹿な人」
プレフは息も絶え絶えに笑って続ける。
「いいわ、描いてあげる。あなたのその精神に免じて」
プレフはだらりとぶら下がった右手をだした。エルが絵筆をそこに乗せると、紙もないのにプレフは絵筆を走らせ始めた。走った青い線が飛散して水の流れのごとくうねりをつくる。その絵の具たちは魔法のように空中でとどまり透明のキャンバスができあがる。エルはひたすら笑顔で右手をふるうプレフに見とれていた。
「楽しい?」
エルが聞いても聞こえてないかのようにプレフは右手を動かした。筆は、絵の具も足していないのに勝手に虹のように色を変えプレフの世界を描いていく。
幸せだ。きっとプレフはそう思った。
「できた」
プレフの描いた世界はたくさんの草がある中でエルが絵を描いているものだった。肩にはきちんとグレイが乗っている。エルはびっくりした。まさかこんなに正確に自分の絵を描かれるとは思っていなかった。
「不思議ね、あなたの描いた世界は私のもといた世界だわ」
プレフは何も答えずに筆を握ったまま動かなかった。
彼女の思っていた「幸せ」が、ようやく訪れた。