幸せ
守るべきものを的確に守れる力がほしい。そう夜空に思うのはいつもの事だった。
守りたいものがあって、それを失ったときこそ想いは強くなって私を押しつぶそうとする。非力で、泣くことしかできない私はいつも運命ばかりを呪って、自分のできることなんて考えもしなくて。あの夜鷹のように翼をもって、狼のように爪や牙をはやして、守るためにその力を使って。そんなことを、ずっと考えていた。
朝日が昇る。部屋に光が満ちていく。カーテンはそのままに寒気を我慢してベッドから出る。埃っぽい部屋は私の咳をいくらか吸って朝がやってきたというやりきれない絶望感を与えた。部屋をでると焦げ臭くて顔をしかめる。
ああ、今日は「焼肉」の日か。
長い廊下を重い足取りで歩くと、重厚な鉄の扉の前で足が止まった。臭いは一段とひどくなって頭痛もしてきた。私はドアの取っ手に手をかけて押した。
今日も夜空だけは綺麗だった。この世で最も美しい星の煌めきを、窓の外から見たいと何度願ったことか。それは叶わないことだけれど。部屋は相変わらず白い埃を浮かせて舞踏会を開く。きっと私を哀れんでいるに違いない。眠りたくはない、まだ眠りたくはない。朝が来てしまうから。視界は勝手に夜空の星を無くしていった。私のすがりたい微かな希望を奪うように。
また朝が来た。正確には8659回目の朝だ。なぜだかそれははっきりと分かる。約23年ここにいることも。私が何者かだったか、家族がいたか、そんなことは覚えていなくて、気付いたらここにいた。私が生まれたのは戦時中だった。家族はそれで死んだと聞いている。いっとき、戦場にかり出されたことがある。あの時は前も後ろもわからず、ただやみくもに銃をふりまわした。だれを殺して、だれに撃たれたかもわからず、遠のいていく意識のなかで私は地面に倒れていて、また気付いた時に敗戦の知らせを受けてここにずっと閉じ込められている。それからずっとこんな生活だ。
ここで友をたくさん失った。泣くなんて変な奴だと蹴られながら私は仲間が永遠の眠りにつくたびに泣き声をあげた。
部屋のドアを私の手が勝手に開く。今日は異臭はしなかった。きっと60パーセントで「魚の生け造り」40パーセントで「お鍋」だ。鉄ドアの冷たさは昨日より増していた。
ああ、今日は「かき氷」か。
どうして夜空はこんなにも綺麗なんだろうか。赤、青、白や緑、その小さい点が無数に散らばって宝石箱をひっくり返したようで、こんなにも美しいのに、どうして手が届かないんだろうか。きっと夜空も私と一緒なんだろうか。空という見えない網にかけられて見せ物にされて。本当は嫌なんじゃないのだろうか。空に留まらす大地を駆け、海を泳ぎ、彼らなりの自由を得たいのでは。そう思うと頬を冷たい液体が伝わった。けれど私は彼らに嫉妬している。同時に同情している。いつの日も私とあの星たちは不幸だ。それを私は最初から知っていたのかもしれない。だから星を、夜空を綺麗と思うのかもしれない。
忌々しい朝はいつでもいつまでも眠ればやってくるし、眠らずとも来る。私は不幸だと8660回目の朝にして初めてそう認識した。自由という幸福を、あまりにも考えすぎた。私は不幸、そう考えると足が急におもくなって初めて立ちくらみを覚えた。
きっと私は、この時を境に壊れてしまった。このまま息絶えてしまえば自由になれるんじゃないだろうか。ふと、そう思っただけで世界はがらりと変わった。私は不幸なんかじゃなかったのだ。ここは私をなんとか幸せにしようとしてくれていたんだ。勢いよく部屋の扉をあけて鉄の扉の前に立つ。今日はなんだろうか昨日は「かき氷」だから今日は……「オムライス」か。
重厚な音とともにドアは開いた。鉄の床が暗闇の向こうまで広がっていて先はよく見えない。
「おや、今日はやけにご満悦だな。なにかあったのか?」
いつも私を幸福にしようとしてくれている声は、すこし戸惑っているようだった。
「いいえ、私とあなたたちの立場を正確に理解しただけです」
死という幸福、私はそれを理解しただけ。笑顔でそう答えた私をどう思ったのか少しのざわめきが、どこかにあるだろうスピーカーから聞こえた。そして、次に聞こえた言葉は私の期待を裏切った。
「今日は中止だ。部屋に戻れ」
どうして夜空がこんなにも憎らしいんだろうか。どうして今日はいつものように私を焼いたり刻んだり叩き潰したりしてくれないのか。私は耐えがたくなって窓ガラスに何度も頭突きをした。かなり性能のいいガラスが二枚も重なっているから、私の頭からいくら血がでようともヒビさえはいらない。自動的に私の動きは止まって、傷はすぐに癒えた。何もかも見たくなくなって眠ろうとした。でも、一人の異端者がそれを遮った。
部屋のドアが開いた。入ってきたのは見たこともない男だった。私を見るなり口に人差し指を立てて音を立てずに近づいてくる。
「いきなり来てなんだが、おまえ、服を着ろ」
男はそう囁いた。ここに来てから服は着ていない。
「着る必要なんてないでしょう。それよりあなたは誰?」
思いっきり眉をひそめて問うても「いいからこれでも着ろ」と聞かない。仕方なく男の言うとおりに手渡された服を着た。男はやっと私の目をみて質問に答えた。
「お前を盗みに来た。ここから出してやる」
「は? 私をここから出してやる、ですって?」
男はその反応にきょとんとした。私が怒っているからだ。
「なにを勝手なことを、私のことを何にも知らないくせに」
「知っているさ」
男は口答えした。
「世界初の感情をもつ人型戦闘機。名は……プレフだったか」
それは記憶の底に沈めたはずの名前だった。私が人間として生きることのできないすべての元凶。最高の宝と呼ばれた私。人を殺すための機械に感情を付加した欠陥品。壊して、壊れて赤ん坊みたいに退行を繰り返す私。
思い出してしまった。私はたくさん殺しては精神回路が壊れ、使い物にならなくなり、仕方なく新兵器の威力実験で処分となるはずが、無意識に作動する自己修復機能により死ななかった。どうやらそれは誰にもわからなかったらしく、死ねなかった。だから拷問の日々を呪いながらこうやって死ねる日を待っていたのに。にくい。まだ私を生かすというのか。私の思いなど微塵も考慮せず、平然と構える男が。憎い。私と同じ苦しみを味わったこともないくせに。
「まあ、んなのは関係ねえ。こんなに感情をむき出しにしちゃあ人間としか思えねえしな」
お前の言葉など、届くはずもない。壊れてしまえ。私のように。
「そう、それじゃあ。お願い」
私はあくまで平静を装って頭を垂れた。笑顔で、男は私の手を握った。
見えていなかった。背中を貫いて胸から飛び出ている剣の切っ先は。体制的に、正面にしかいなかった男が、腕を後ろに回してさえいないのにどうやって私を後ろから刺したのか、どう考えても理屈にそぐわない。ぐらりと視界が揺れた。私の作動しようとした自己修復機能を男は正確に壊していた。それは精神回路の完全破壊。要するに私は壊れていた。
「どうだ、これで幸せかよ」
男は表情を失っていた。
私は笑った。
ああ、これで幸せになれる。
__お前は、不幸に生きる。