十二灯に十五斤しか渡されなかった油職人は、二十一斤の油壺を置く辺境伯の隣に残ります
「十二灯に十五斤。それ以上は使うな」
ティグラン親方は私の荷箱へ十五斤の油壺を押し込み、その上へ薄い配分表を載せた。商品札にあるのは親方の名。配分表にも親方の名。どこを探しても私の名はない。
いつものことだ。
「一人の部屋に回す油はない。辺境伯様のお屋敷で余計な真似をするなよ。おまえは名工の代わりに行くんだ。失敗すれば、代用品にもならん」
「はい」
「灯芯を細くしろ。十五斤で朝まで持たせろ」
できる。
正確には、十二灯のうち何灯かを夜半から息も絶え絶えにし、私が一晩中走り回れば、できなくもない。
つまり、できるということにされている。
北辺を治める辺境伯様のお屋敷へ着くと、そのご本人が玄関広間で待っていた。
ヴァハン辺境伯は背が高い。黒い上着の肩が広い。眉間には、灯芯を三本まとめてねじ込んだような深い筋がある。
私の荷箱ではなく、私の両手を見た。
油染みが落ちきらない指先。左の人差し指に新しい切り傷。いきなり減点箇所を見つけられた気分である。さすが監査が早い。
「十二灯に、何斤使う」
「十五斤です」
即答した途端、眉間の筋がもう一本増えた。
「誰が決めた」
「親方です。それ以上は贅沢です」
「贅沢」
「はい。……今の返事で、なぜそんなに怖い顔をなさるんです?」
「怖い顔ではない」
「では、その聞き方は煤が出ます」
辺境伯様の視線が、私の顔へ戻った。
しまった。口から出た。
人の会話も灯りと同じだ。空気を入れずに圧をかければ煤が出る。私は職人として当然の指摘をしただけで、決して辺境伯様の顔を煤まみれの煙突にたとえたわけではない。たぶん。
後ろに立っていた老夜番が、咳払いを一つした。
「スムバトだ。油蔵は私が預かる」
「アニチカです。今夜から十二灯を預かります」
スムバトは私の荷箱から十五斤の壺を取り出し、片手で持ち上げた。目盛りを見て、辺境伯様を見る。二人とも何も言わない。
やはり監査だ。
「封を切った油は翌夜へ持ち越せません」
先に申告しておく。余りを隠したと思われては困る。
「承知している」
「ですから、使ったあとで測り直しても帳尻は変えられません」
「それも承知している」
「私も承知しております」
「何を警戒している」
「辺境伯様をです」
スムバトが今度は天井を向いた。咳は出なかったらしい。
その夜、私は温かい肉の煮込みと、まだ柔らかいパンを与えられた。しかも使用人の端ではなく、長卓の席へ座らされた。
まずい。私が来たせいで、誰か一人ぶんの肉が煮込み鍋から消えたに違いない。
「食べないのか」
「食べます。証拠がなくなるまで食べます」
「何の証拠だ」
「いえ、こちらの話です」
きれいに平らげた。美味しかった。罪悪感より肉が強かった。
さらに、寝台と机のある個室まで与えられた。
机には小さな灯りが一つ置かれている。十二灯のうちの一灯だとは思いたくなかったが、世の中はそれほど油景気ではない。
廊下から足音が消えるのを待ち、私は自室の灯りを吹き消した。
一人の部屋に回す油はない。
暗ければ眠ればいい。明日からは、その眠る時間も少なくなる。
* * *
最初の夜、スムバトが十五斤の壺を秤へ載せた。
私は封を切り、十二枚の受け皿へ油を分けた。等分にはしない。玄関広間に二灯、階段に三灯、長い北廊下に四灯、食堂前に一灯、厨房へ下りる曲がり角に一灯、私の部屋に一灯。
人が通る順に厚くする。
灯芯は一本ずつ取り出し、刃を寝かせて細く削った。
「細すぎる」
スムバトが言った。
「十五斤ですから」
火を移す。十二の炎は細い首を伸ばし、いっせいに頼りなく揺れた。美しいとは言いにくい。根性だけで立っている炎だ。妙に親近感がある。
夜半、北廊下の一灯が沈んだ。
私は油差しを持って走った。炎が消える直前、通りかかったスムバトが受け皿を押さえ、傾いた灯芯を二本の指で起こす。
「ここは私が受け取る。次へ行け」
階段の二灯目も低い。
作業室へ戻ったときには、ヴァハン辺境伯がいた。私の油差しを取り上げるでもなく、火を直すでもなく、扉の前に立っている。
「灯芯を細くしたな」
「十五斤ですから」
「夕食は」
「いただきました」
「睡眠は」
「その質問は業務に含まれますか」
「含める」
勝手に項目を増やされた。監査表というものは、だいたい途中から牙を生やす。
辺境伯様は私を食堂へ連れていき、夜食の椀の前へ座らせた。責める言葉はなかった。代わりに、私が食べ終えるまで向かいの椅子から動かなかった。
逃亡防止である。パンは美味しかった。
「次は量を変える」
低い声で、それだけ言われた。
次は別の職人へ変える、の途中を省略したのだろうか。
私は椀を抱え、解雇判定にも保留というものがあるらしいと学んだ。
* * *
二度目の夜、秤の脇に十八斤の壺が置かれていた。
「十八斤?」
「使え」
「三斤も増えています。誰の夕食を液体にしたんですか」
「誰の夕食も油にはしていない」
「寝台を一つ売ったとか」
「売っていない」
「では、辺境伯様の上着を質へ?」
「なぜ私がそこまで困窮している」
困窮していないなら説明してほしい。辺境伯様は説明を省くたび、眉間だけ働かせる。顔の燃費が悪い。
私は灯芯を昨日より太く整えた。
玄関広間の二灯も、北廊下の四灯も十分。階段も持つ。食堂前も、厨房への曲がり角も。十一灯が朝まで安定する配分だった。
残る一灯は自室にある。
夜半、私はその火を消し、残った油を北廊下へ回した。
これでいい。眠るだけの私より、夜中に階段を使う誰かの足首が大事だ。真っ暗でも寝台は逃げない。
ただ、眠気というものは、暗くすれば必ず来るほど律儀ではなかった。
寝台の端に座ったまま朝を待っていると、扉が開いた。
灯りを持った辺境伯様が立っていた。
その目が、消えた灯りへ行く。空の受け皿へ行く。寝台の上に広げたままの毛布へ行く。最後に私の顔で止まった。
「なぜ消した」
「十八斤ですから」
「なぜ眠っていない」
「辺境伯様、声が大きいです」
「答えろ」
扉枠をつかむ指が白い。初めて見るほど怒っている。
やはり失望されたのだ。
十八斤も与えたのに、十二灯すべてを保てなかった。しかも職人本人が寝ぼけた顔で座っている。解雇の火力としては申し分ない。
「一人の部屋に回す油はないと、教わりました」
辺境伯様の口が開いた。
閉じた。
灯りを持つ手が下がり、もう一方の手が私へ伸びる。けれど指先は肩に触れる前で止まり、強く握られた。
「誰に」
「親方にです」
「ティグランに」
「はい」
辺境伯様は踵を返した。
何も言わない。
とうとう判定が出たらしい。
朝、私は荷箱へ服を畳み始めた。十五斤で失敗し、十八斤でも失敗した代用品に、三度目の夜はない。
* * *
「荷を戻せ」
荷箱の蓋を閉めたところで、ヴァハン辺境伯が言った。
「帰れ、ではなく?」
「戻せ」
「荷箱を旧工房へ?」
「箪笥へだ」
「私ごとですか」
「当然だ」
当然らしい。何がどう当然なのか、こちらには一本も灯っていない。
辺境伯様は私の荷箱を持ち上げた。私の返事を待たず、箪笥の前へ運ぶ。片手で蓋を開け、畳んだ服を見て、顔をしかめた。
「少ない」
「油職人の荷物へ、舞踏会用の衣装でも期待なさいました?」
「三度目を行う」
「解雇試験ですか」
「違う」
「昇給試験」
「違う」
「では、公開処刑」
「なぜ悪化する」
説明がないからである。
十二灯の中央に、その壺は置かれていた。
二十一斤。
新しい封はどこにも傷がなく、秤の針は目盛りの上でぴたりと止まっている。十八斤の夜より三斤多い。十五斤の夜より六斤多い。
スムバトは壺の横へ十五斤の空壺を置いた。片手でそちらを示し、次に二十一斤の壺へ無言で手を置く。
六斤の差は、並べると笑えないほど大きかった。
「これは」
「今夜の正規の支給量だ」
辺境伯様が答えた。
「正規?」
「封を切れ、アニチカ」
名前を呼ばれた。
名工の代わりでも、ティグランの職人でもなく。
私は封へ刃先を差し込んだ。刃を押す親指が震え、蝋の端を二度滑った。三度目で赤い封が割れる。蓋を外すと、油の面が灯りを一筋返した。
二十一斤あれば、十二灯すべてへ太い灯芯を使える。
北廊下で誰かが歩いても炎は縮まない。階段で裾が触れても消えない。食堂前も、厨房の曲がり角も、作業室も。
私の部屋も。
灯芯を一本取り上げたところで、玄関広間の扉が開いた。
「これはこれは、辺境伯様。わざわざお呼びいただき恐縮です」
ティグランが揉み手をしながら入ってきた。
私を見ると、その指が止まる。
「アニチカ。おまえ、まだ帰っていなかったのか」
「荷箱を箪笥へ戻されました」
「何を勝手なことを。辺境伯様、この娘は油を使わせれば際限がありません。十五斤で足りるものを浪費し、足りないと言い立てる。私も手を焼いておりまして」
私へ向ける声だけが大きくなった。
「十二灯ごときで失敗したのか。名工の代わりに送ってやった恩も忘れて——」
ヴァハン辺境伯が一歩、前へ出た。
黒い上着の背が、私の視界をほとんど塞ぐ。
右足を半歩前。肩を私側へ引き、ティグラン側へ胸を向ける。私へ伸びていた親方の指先が、その肩にぶつかる前に引っ込んだ。
「いや、しかし、これは私の職人への指導でして」
私の職人。
その瞬間、辺境伯様の手が油壺から離れた。
指が開く。一拍遅れて握られる。
「彼女はおまえの職人ではない」
「商品札は私の名義です。これまでの納品もすべて——」
「だから調べた」
ティグランの語尾が痩せた。
スムバトが二人の間へ十五斤の壺を出した。
「旧工房で私が夜番をしていた頃も、十二灯への正式支給は二十一斤だった」
「年寄りの記憶違いでしょう」
「毎夜、私が封を確かめた」
「余りを翌日に回せば——」
「封を切った油は翌夜へ持ち越せない」
私の声が出た。
ティグランが振り向く。
「おまえは黙っていろ!」
辺境伯様が、さらに半歩を詰めた。
「続けろ、アニチカ」
「二十一斤の封を切り、私には十五斤だけ渡した。六斤は封を戻せないうちに、別の容器へ移したんですね」
「証拠もなく——」
「ある」
辺境伯様が内ポケットから数枚の書類を出した。
薄い紙なのに、ティグランは一歩下がった。
「この屋敷が支給した油は、毎夜二十一斤。受領印はおまえのものだ。納品された灯りの商品札は、すべておまえの名。だが灯芯の切り口はアニチカの刃と一致する」
「職人を指導した成果です!」
「十五斤で十二灯を保たせるよう命じたこともか」
「節約を教えたのです。現に、この娘はそれで仕事を——」
「夜半に炎が落ちた」
スムバトの声は短い。
「十八斤でも、自室を消した」
辺境伯様の声はもっと低かった。
「それは本人の勝手な——」
「眠らせず、食事を削り、名を消した。それがおまえの指導か」
ティグランは私には怒鳴るのに、辺境伯様へは揉み手を戻した。
「辺境伯様、どうか誤解なさらず。この娘は一人前ではありません。私が名を貸さねば仕事を得られない代用品です。手元へ戻して、今後はもっとよく——」
「戻さない」
声が広間を切った。
十二灯の炎が同じ方向へ傾いた気がした。
「返す気もない」
辺境伯様の背中越しに、横顔が少しだけ見えた。噛み締めた奥歯。耳の下まで硬くなった筋。書類を持つ手より、私を隠す側の腕のほうが強く張っている。
「辺境伯様?」
「十五斤と答えたときから調べていた。最初の夜は不足の確認、二度目は彼女が何を削るかの確認だ。証拠を焼かせないため、おまえには知らせなかった」
そこで辺境伯様は、初めて私を振り返った。
「彼女にも、説明しなかった」
「はい。たいへん燃費の悪い監査でした」
「わかっている」
受け止められてしまった。しかも眉間の筋が消えない。今はそこを笑えない。
「暗い部屋で、朝まで起きていた」
辺境伯様の視線が私の目元へ止まる。
「自分の灯りを消して、当然だという顔をしていた」
「当然だとは」
「言った」
「親方の教えを述べただけです」
「それを当然と呼ぶ」
一歩、こちらへ向き直る。
「十五斤で働けることを証明しようとするな。おまえが削られれば削られるほど、ティグランの腕がいいことにされる。十二灯を守るために、おまえの食事と睡眠を燃やすな」
喉の奥が狭くなった。
うまく息が入らない。灯りなら空気穴を広げれば済むのに、人間には調整ねじがない。
「なら、なぜ昨日、あんなに怒ったんです」
「暗かったからだ」
「灯りの話ですか」
「おまえの部屋が」
「やはり灯りでは」
「おまえがいる部屋だ!」
その声に、ティグランまで肩を跳ねさせた。
辺境伯様は私を見たまま、言葉を止められなくなったようだった。
「食卓に座らせても、誰かの分を奪った顔で食べる。寝台を与えても、灯りを消す。油を増やせば自分の一灯から削る。帰る支度だけは、一人でさっさと終える」
「荷物が少ないので」
「そこではない!」
「では、どこです」
「おまえが、ティグランの工房へ戻ると思った」
油壺の蓋から、落ちた封蝋がころりと転がった。
「戻って、また十五斤を渡される。食べずに、眠らずに、あの男の名で灯す。それを考えたら——」
辺境伯様の喉が上下した。
「腹が立った」
「親方に?」
「おまえにもだ」
「なぜ私まで」
「帰ろうとした」
「解雇されると思いましたから」
「私がいつ解雇すると言った」
「一度も説明しない方は、言っていないことを根拠に怒らないでください!」
「帰る前に聞け!」
「聞いたら答えてください!」
私の声も広間へ跳ね返った。
目の奥が熱い。頬まで落ちたものを手の甲でこすると、油染みの残る皮膚が濡れた。
「十五斤でやれと言われたから、やりました。失敗すれば代用品にもならないと言われたから、起きていました。辺境伯様は毎夜、怖い顔で目方を聞くし、食事の量まで調べるし、部屋を勝手に見に来るし! そんなの、追い出す前の証拠集めだと思うでしょう!」
「追い出すためではない」
「今さらです!」
「守るためだった」
「その言い方も今さらです!」
「では、何と言えばよかった!」
「最初から全部です!」
辺境伯様が口を閉じた。
私も閉じた。
言いすぎた。辺境伯へ「全部説明しろ」と怒鳴る油職人。商品札どころか処罰札に名前が載る。
けれど彼は私から目を逸らさなかった。
「そのとおりだ」
小さく言った。
「すまなかった」
ティグランが息を吸う音がした。
「辺境伯様、この娘に頭を下げる必要など——」
「契約を打ち切る」
辺境伯様は振り返りもせずに告げた。
今度こそ、ティグランの揉み手が止まった。
「今夜から、おまえの油も商品札も受け取らない。抜いた六斤、契約日数分の差額を返せ。ここに署名しろ」
「お待ちください。そんな急な——」
「受領印はおまえのものだ」
「分割で、せめて今季の納品だけでも」
「署名しろ」
机へ書類が置かれた。ティグランは私を睨み、それから辺境伯様の肩幅を見た。声を出さず、羽根筆を取る。
署名欄に名が入る。
差額返還の書面へ、受領印が押される。
契約札がスムバトの手で外され、ティグランへ返された。
「アニチカ、おまえからも何か——」
まだ私へ命じられると思ったらしい。
辺境伯様の肩が動くより先に、私は二十一斤の壺を指した。
「火を入れます。今夜は忙しいので」
親方だった人の口が歪んだ。
「その油を使い切れるものか」
「ご心配なく。十五斤で十二灯を持たせた職人ですよ?」
これは少しくらい勝ち誇ってもいい。六斤ぶん、いや、消した夜の数だけ利息をつけたい。
ティグランは契約札を握り、扉の向こうへ消えた。
私は太い灯芯を十二本並べた。
玄関広間の一つ目へ火を移す。炎は丸く立った。
二つ目。
北廊下の四灯には、受け皿の底まで十分な油を満たす。階段の三灯は裾が触れても揺れ戻せる長さにする。食堂前、厨房への曲がり角。
十二番目は、私の部屋。
細く削らない灯芯を受け皿へ置き、火を近づける。芯の先が青くなり、その上へ黄いろい炎がふくらんだ。
消さなくていい。
「どうです」
ヴァハン辺境伯は炎ではなく、私の指先を見ていた。
「美しい」
「どれがです?」
彼の目が私の顔へ上がる。
「全部だ」
「その褒め方は煤が出ます」
「また煤か」
「空気が足りません。主語も足りません」
「足せばよいのか」
「今夜は火の様子だけ見てください!」
スムバトが十二灯を順に確かめ、最後に二十一斤の壺へ手を置いた。
「目盛りどおりだ」
それだけ言って、食堂を顎で示す。
温かい夕食があった。私の席もあった。
今度は誰かから奪った皿ではない。煮込みを最後の一滴までパンで拭い、追加まで食べた。辺境伯様は向かいで黙っていたが、私が二皿目を空にすると眉間の筋が一つ減った。
わかりやすいではないか。
いや、遅い。昨日までの私へ見せてほしかった。
「火を見回ります」
「スムバトが行く」
「ですが」
「おまえは寝る」
「命令ですか」
「調査項目だ」
「まだ監査を?」
「今夜、十二灯を残したまま眠れるか確かめる」
辺境伯様は私の部屋までついてきた。
扉の前で止まり、中へは入らない。灯りの火を見て、寝台を見て、私を見る。
「消すな」
「二十一斤ですから、消しません」
「朝まで」
「火は持ちます」
「火だけではない」
低い声だった。
「おまえも、朝まで眠れ」
軽口が浮かばなかった。
私は扉を閉めた。
机の灯りは、今夜も丸く燃えている。寝台へ入ってからもしばらく眺めた。炎が少し傾く。戻る。油の面は十分に高い。
目を閉じる。
次に開けたとき、窓が白かった。
飛び起き、机を見る。
灯りは残っていた。
小さくなってはいるが、消えていない。
廊下へ出る。玄関広間の二灯も、北廊下の四灯も、階段の三灯も、食堂前も、厨房への曲がり角も。
十二灯すべてが朝の光の中で燃えていた。
スムバトが最後の受け皿を確かめている。その隣に、ヴァハン辺境伯が立っていた。昨夜と同じ上着だ。まさかこの人も寝ていないのでは。
「朝まで持ちました」
「ああ」
「私も寝ました」
「見ればわかる」
「髪ですか?」
「頬に寝台の跡がある」
手で押さえると、たしかに一本、長い筋がついている。
「見ないでください!」
「確認しただけだ」
「睡眠の証拠を顔に刻む契約ではありません!」
食卓には朝食があり、私はパンも卵も残さなかった。
食後、辺境伯様が二枚の書類を差し出した。
一枚目には、毎夜、十二灯へ二十一斤の油を支給するとある。油はヴァハン辺境伯の名で保証され、灯し方も灯芯の太さも職人に任せる。商品札へ記される職人名は、アニチカ。
何度読んでも私の名だった。
「工房契約だ」
「はい」
「ここに残るなら、毎夜二十一斤を置く」
「十五斤へ戻すことは」
「ない」
「十八斤で様子を見ることも」
「ない」
「私の部屋の一灯を数から外すことは」
「許さない」
私は署名欄の上へ指を置いた。
「十二灯に十五斤なら、私は起き続けます」
「ああ」
「十八斤なら、十一灯を守って、自分の一灯を消します」
「ああ」
「二十一斤なら、十二灯を残して、私も眠れます」
辺境伯様の手が机の縁をつかんだ。
「ですから私は、二十一斤を置く工房に残ります」
署名した。
辺境伯様の指から力が抜ける。
けれど、もう一枚ある。
「こちらは?」
「婚姻契約だ」
「油の仕入れ先との?」
「私との」
「辺境伯様が油を搾るんですか」
「なぜそうなる」
「工房契約の次でしたので」
「私と結婚してほしい」
あまりにも真正面から来たので、逃げ道がなかった。
私は二枚目を持ったまま固まった。辺境伯様の耳が赤くなる。けれど目だけは逸らさない。
「いつから、そのような話に」
「言わない」
「そこは説明してください!」
「私にも正確にはわからない。十五斤と答えたときは、守るべき職人だと思った。食卓で肉を一切れずつ数えていたときは、もっと食べさせるべきだと思った。暗い部屋を見たときは、二度と消させたくないと思った。荷をまとめたときは——」
辺境伯様は一度だけ視線を落とした。
「どこへも返したくないと思った」
耳だけでなく、首まで赤くなっている。
「工房は与える。二十一斤も毎夜保証する。食事も、寝台も、部屋の灯りも削らせない。私の隣にいれば、すべて確認できる」
「確認」
「毎日だ」
「求婚ですよね?」
「ああ」
「監査契約ではなく?」
「ああ」
「毎日、食事と睡眠を確認するんですか」
「必要なら」
「必要でなくても?」
「できれば」
「私が逃げないかも?」
「それは必ず」
とうとう耐えられなかった。
声が飛び出した。
笑うつもりなどなかったのに、腹の底から次々と湧いた。辺境伯様の求婚は、甘い言葉より先に油の目方があり、指輪より先に睡眠確認があり、愛の誓いより逃亡防止が厳重だ。
「アニチカ」
「だって、そんな、毎日確認って……!」
「おかしいか」
「おかしいです! 辺境伯様、顔は怖いのに、求婚が油蔵の在庫管理です!」
辺境伯様はまだ真顔だった。
その口元が一度だけ引きつる。
次の瞬間、低い笑い声が落ちた。
初めて聞いた。
眉間の筋がほどけ、肩が揺れる。私が笑うたびに彼も笑い、彼が珍しく息を詰まらせるたび、こちらはもっと止まらなくなる。
十二灯が朝の中で燃えている。
どれも消えていない。
私は二枚目の書類を机へ置き、立ち上がった辺境伯様の袖をつかんだ。
彼の笑いが止まりかける。
「返事を聞いても?」
「その求婚は煤が出ます」
「では、明日はもっと澄んだものを持ってくる」
「明日も求婚を?」
「毎夜でも」
また二人同時に吹き出した。
袖をつかむ手へ、彼の手が重なる。
私は放さなかった。
「ヴァハン様」
その名を呼ぶと、彼の指がぴたりと止まった。
「明日も二十一斤を持ってきてください」




