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短編小説

さよなら、理想の桜道

作者: おでこ
掲載日:2026/03/25

数ある作品の中から見つけていただき、ありがとうございます!

本作は現実世界恋愛の4000字ほどの短いお話です。

隙間時間に、少しだけお付き合いいただければ幸いです(*‘ω‘ *)


 桜が、咲いていた。


 駅の改札を抜けた瞬間、風がひとつ吹いて、薄いピンクの花びらが一枚、コートの袖にふわりと貼りついた。指で摘まんで空に離すと、それはどこか迷うように、ゆっくりと、ゆっくりと、夕風の中へ消えていった。


 三十歳の春というのは、こういうものなのかもしれない。桜を見ても、昔みたいに胸がはじけるわけじゃない。かといって何も感じないわけでもない。言葉にならない、重さとも軽さともつかないものが、ただ静かに積もっていく感じ。


 まっすぐ帰るつもりだった。でも気がつくと、足は反対方向へ向いていた。商店街を抜けて、緩やかな坂の手前で、私は立ち止まった。


 見慣れた、坂道だった。


 もう十年以上、歩いていなかった道。それなのに、体の方が覚えていた。この坂の角度も、アスファルトのひび割れの場所も、古い街灯の間隔も。何もかもが記憶の中の景色と重なって、じわりと胸が滲んだ。


 桜の木は変わっていなかった。坂の両側にずらりと並ぶ老木が、今年もちゃんと満開になっている。花びらが風に舞って、まるで薄い雪のように足元を埋めていた。


 今日の昼間、後輩の山田さんに聞かれた言葉が、まだ頭の隅に残っていた。


「先輩って、学生の頃に好きだった人って、いたりするんですか?」


 他愛もない会話。私は笑って「さあ、どうだろうね」とごまかしたけれど、なぜか一日中、その問いが消えなかった。


 好きだった人。


 花びらが一枚、髪に落ちた。


 私はゆっくりと目を閉じた。



 ――あの頃の記憶が、静かに蓋を開けた。



   ◇



 彼のことを初めて意識したのは、高校一年の四月だった。


 入学したての教室で、まだ誰もがよそよそしく、空気がぴんと張り詰めていたあの朝。彼はただ窓の外を見ていた。特別なことなんて何もしていなかった。それなのに、なぜか目が離せなかった。輪郭のはっきりした横顔と、ほんの少し細めた目と。窓から差し込む春の光の中に、彼はどこか遠くを見ていた。


 この人のことを、好きになる気がする。


(なんでそう思ったんだろう、わかんない)


 根拠も何もなく、ただそう思った。


 それからの三年間は、本当に楽しかった。席が近かったし、学校行事で組むことも多かった。放課後に二人で話しながら帰ることが増えて、気づけば当たり前のように並んで歩いていた。他愛もない話をしながら笑い合う時間が、少しずつかけがえのないものになっていった。


 彼はよく本の話をした。読んだばかりの小説のあらすじを嬉しそうに話して、「面白いから読んでみてよ」と言いながら貸してくれた。私は彼が好きだと言った本を全部読んだ。感想を伝えると、彼は「そうそう、そこ面白いよね」と目を細めた。


(その顔が見たくて、昨夜も夜更かしして読んだ。そんなこと、言えるわけないけど)


 でも同じくらい、苦しかった。


 好きだという気持ちが大きくなるほど、言葉にするのが怖くなった。今のままの温かさが壊れることが、何よりも恐ろしかった。彼が笑う顔を見るたびに胸がぎゅっと締まって、それでもその痛みすら手放したくなかった。彼が他の女の子と話しているのを見かけると、何でもないふりをしながら、心のどこかがぎりっと軋んだ。友達のままでいることは温かかった。でも、友達のままでしかいられないことは、静かに苦しかった。


 三年生の冬、進路の話が増えるにつれて、卒業という言葉が急に重さを持ち始めた。彼は地元の大学に進むと言っていた。私は少し離れた街の学校を受けるつもりだった。それを初めて話した夜、帰り道がいつもより短く感じた。


(もうすぐ終わっちゃう)


 そう思ったとき、胸の奥にずっとしまっていたものが、じわりと滲み出してくる気がした。


 三月が近づいたある放課後のことは、今でも鮮明に覚えている。


 部活の帰りに偶然一緒になって、二人で校門を出た。夕方の空は曇っていて、どこか締め切られたような空気だった。彼が「今日って時間ある?」と聞いてきた。特に理由もなく、ただ寄り道でもしようという話だった。


(嬉しい。すごく、嬉しかった)


 公園のベンチに並んで腰掛けて、他愛もない話をした。受験が終わった解放感とか、春からのこととか。彼は缶コーヒーを二本買ってきて、何も言わず一本を私に差し出した。温かかった。その温もりが、指先から伝わってきた。


(ずっとこのままでいられたら、どんなによかっただろう)


 でもそんな時間にも、終わりは来る。「そろそろ行くか」と彼が立ち上がったとき、私はほんの少しだけ、立ち遅れた。一秒か、二秒か。ただそれだけのことなのに、胸の中に何かが引っかかったまま、残った。


 帰り道、彼が不意に私の名前を呼んだ。振り向くと、夕陽が雲の切れ間から差して、彼の輪郭が橙色に光っていた。何かを言いかけて、でも「やっぱ、なんでもない」と微笑んだ。


(なんでもない、って何だったんだろう)


 言えない言葉が喉のあたりでつっかえて、私はただ「そっか」と返すことしかできなかった。その夜、布団の中でずっと、あの「なんでもない」の意味を考えていた。


 そういう日々が重なって、気づけば卒業まで残りわずかになっていた。



   ◇



 三月の終わり、卒業式の前日のことだ。


 放課後に教室へ忘れ物を取りに戻ったら、偶然、彼と二人きりになった。他の誰もいない教室は静かで、黒板には誰かが書いたチョークの文字がまだ薄く残っていた。窓の外では、固く閉じた桜の蕾がほんのり赤みを帯びていた。明日には、咲き始めるかもしれない。


 もうここで二人きりになることは、ないのだと思った。明日の卒業式が終われば、この教室も、この景色も、二人でいる時間も、ぜんぶ「過去」に変わる。それが怖かった。でもその怖さより、言わずに終わることの方が、もっと怖かった。


 三年間、ずっとそうだった。言おうとして、飲み込んで、また言おうとして、また飲み込んで。その繰り返しだった。


(もう終わりにしたい。この繰り返し……)


 心臓が速くなっていた。手のひらが少し冷たくなっている。それでも、今日じゃなきゃいけない気がした。


 彼は鞄を持ち上げて、「じゃあ、また明日」と言った。


 私は深呼吸してから口を開いた。


 「待って」と声をかける。少し掠れた声だった。

 彼が振り向く。怪訝そうでも、驚いた様子でもなく、ただ静かに私を見ていた。


(今のままじゃ、嫌だ。友達のままじゃ……もう、嫌)


 私はゆっくりと息を吸った。肺がうまく膨らまない気がした。でも、言う。言わなきゃいけない。



「わたし……私、ずっと前からあなたのことが好きでした」



 言い終わった瞬間、全身から力が抜けた。


 ああ、やっと言えた。


 彼に伝えてしまった。


 声が震えていたかもしれないし、顔は絶対に赤くなっていた。でも言えた。三年間、胸の中だけにしまい込んでいた言葉が、ちゃんと外に出た。


(うまく言えたのかな……)


 それだけがじんわりと胸の中で広がって、不思議なくらい、泣きそうだった。


 彼の目が、少し丸くなる。


 沈黙が流れた。長い沈黙だった。窓の外で風が吹いて、桜の枝がざわりと揺れた。教室の中の時間だけが、ゆっくりと流れていた。


 彼の口が、ゆっくりと開く。


 彼から返ってきた言葉は――――



 目を開けると、現実に戻されていた。


 私は坂道の途中に立っている。


 これは私の理想だった。


 『告白』することはできなかった。


 実際のあの日、私は「またね」と笑って教室を出た。

 卒業式の日も、人波の中で目が合って、おめでとうと言い合って、それだけで終わった。言いたかった言葉は、ずっと胸の中にしまったままだった。十二年経った今も、まだそこにある。


 もし言えていたなら、今の人生はどうなっていただろう。


 違う選択があって、違う毎日があったのかもしれない。でも、なってはいない。あの言葉を飲み込んだあの日が、今の私を作っている。


 胸の奥がじんわりと痛い。でもその痛みは、今はもう懐かしい色をしていた。



   ◇



 坂道を、ゆっくりと登った。


 花びらが肩に一枚落ちた。払わずにそのままにした。あの頃も、同じように桜が咲いていた。卒業したら二度とこの景色は見られないと思っていたのに、こうして私はまた同じ坂道に立っている。


 変わっていないのは、桜だけじゃないかもしれない。


 あの頃の私が感じていた、あの胸の痛さ。好きだという気持ちを抱えて、でも言えなくて、遠回りをして、迷ったふりをして。そんな不器用さが、ちゃんと私の一部になっている。言えなかったことも、手放せなかった時間も、ぜんぶ本物だった。後悔は後悔のまま、でもそれが今の自分の根っこになっている気がした。


 坂の頂上まで来ると、視界がひらけた。


 街が夕陽に染まっていた。あの日と同じ橙色だった。空だけは、いつだって変わらない。あの夕暮れの坂道で名前を呼ばれた日も、こんな色をしていた。私が目をそらして、言えなかった夜も、この空の下だった。


 深呼吸をすると、花の匂いが肺の中に入ってきた。


 スマホが震えた。山田さんからのメッセージだった。

『先輩、昔好きだった人の話、ちゃんと聞かせてくださいね!』


 私は少し笑った。


 言えなかった言葉がある。今も胸の奥に消えずにある。もうどこにも届かないけれど、でも確かに存在していた。あの遠回りの帰り道も、名前を呼ばれた夕暮れも、目をそらしたあの瞬間も、ぜんぶ本物だった。だから今でも、少しだけ泣けそうになる。


 それでいい、と思う。


 後悔は、持ち続けていい。言えなかった言葉は、ずっと胸の中にあっていい。ただ、それを抱えたまま、前を向くことはできる。桜はちゃんと咲いていて、空はあの日と変わらず橙で、風は優しかった。あの頃の私が感じていたものは、消えてなんかいない。形を変えて、今の私の中にちゃんと息づいている。


 『いつかね』


 そう打って、送信した。


 桜の花びらが肩に落ちた。今度は、そっと手で払った。


 私は坂道を下り始めた。夕陽の中、自分の影が長く伸びていた。あの頃とは違う歩幅で、でも同じ坂道を、前を向いて歩いていった。


 その背中が、桜の向こうへ消えていく。


 「さよなら」



   ◇



 入れ替わるように、一人の男が坂道の下に現れた。


 スーツの上着を片手に持ち、ネクタイを少し緩めたまま、彼は坂道を見上げた。満開の桜が、夕陽の中でゆらゆらと揺れている。どこかで嗅いだことのある匂いがして、彼は足を止めた。


 何年ぶりだろう、この坂道。


 出張帰りの新幹線を降りたとき、なぜか足がこちらへ向いた。まっすぐ帰ればよかった。でも気づいたら、ここにいた。


 花びらが一枚、彼の肩に落ちた。


 彼はゆっくりと目を閉じた。


 胸の奥で、何かが静かに蓋を開ける音がした。



 春は、決して別れだけの季節ではない。


         

ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「さよなら、理想の桜道」、いかがでしたか?


よかった!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)

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