5.きっかけと今後のこと
──絵を描くきっかけは、とても些細なものだった。
領地にある本邸とは異なる、祖父母が住む別邸を訪れて散策していると、じっと何かを見つめている祖母を見つけて何を見ているのか尋ねた。
そして私に気付いた祖母はというと、私に手招きすると近付くと見ていた物を見せてきた。
見せてくれたのは美しい女性が描かれた絵で、柔らかい笑みを浮かべていて幸せそうに見えてそれを正直に言った。
『わぁ、きれい……。しあわせそう……』
『あの人にはそう見えていたのね。これは、若い時のお祖母様――私なのよ』
『おばあさまなの?』
絵の女性の正体が若い時の祖母だと教えられ、描いた人が祖父だと告げられて驚いたのは今でもよく覚えている。
『髪も瞳の色もお祖母様にそっくりでしょう? あの人ったら、絵を描くのが趣味で時間があればいつも絵を描いていたのよ。ふふ、懐かしいわね』
小さく笑う祖母の表情は嬉しそうで、それでいてとても幸せそうだった。
『絵は素晴らしいわ。たとえ時間が経っても、大切にしていたらいつまでも保管できてその時の光景を、気持ちを、記憶を思い出すことができるのだもの』
目を細めながら幸せそうに絵を撫でながら話す祖母の横顔は絵の中と同じく柔和で、人を幸せにすることができる力を持つ絵に興味を持った。
それから趣味として絵を描いていた祖父に、絵を教えてほしいと告げて祖父から指導を受け、時間があればたくさんたくさんスケッチブックに絵を描いた。
色んなものを描いた。家族から庭園、リンゴやぶどうといった果物に青い空の風景。
様々なものをスケッチブックに、そしてキャンバスに描いた。
趣味の範疇で絵を描いていた。それで、当時は満足だったから。
だけど──二年前、転機が訪れた。
「今では個展を開催するなんて……時々夢かと思ってしまいます」
ティーカップに描かれた花の紋様に目を向けながら呟く。今でも時折、長い夢を見ているんじゃないかと思ってしまう。
「何言っているの。エリーの絵は本当に素敵よ。私は絵を描く才能ないけどそれは分かるわ。人々に安らぎと感動を与えるなんて素晴らしいわ」
「お姉様……」
呼ぶとお姉様が優しく微笑む。
描いては屋敷に保管していた絵は、私の絵は売れると言ってくれたとある美術商によって変わった。
見せないのは勿体ない、絶対に売れると言われたことで、二年前、初めて新人画家が出展するイベントに一つ、作品を出した。
すると出展した作品はあっという間に購入され、それから少しずつ展覧会や画廊などに自分の作品を二つ、三つと出展するようになった。
参加していくと少しずつ私の作品を認知してくれる人が増えてきて、購入する人も増えて画家として認められているのが感じて嬉しくなった。
「ありがとうございます。……女性が画家になるのは不可能だと思っていたからとても嬉しいです」
少しだけぬるくなったお茶を含んで喉を潤す。……本当に画家として活動するだけじゃなく、個展も開けるなんて夢みたいだ。
私が本名ではなく男性の名前で活動しているのは、画家は男性の仕事だと思われているからだ。
特に私は女性に加えて貴族令嬢だ。お姉様のように高い魔力量を持っていれば魔術師として活動することは許されるけど、貴族令嬢は基本的に侍女か家庭教師で、それ以外で働くのは珍しくて中には眉を顰める人もいる。
そのため、画家として活動する時、平民出身の男性という設定にすることにした。下手に貴族階級にしたら注目されて招待状を貰って大変なことになるからだ。
「…………」
ティーカップを持ちながら考える。
人々が求めているのはエリオット・ケペルだ。──伯爵令嬢のエリーゼ・リストンじゃない。
多くの人々に認められ、素敵な感想を聞くのは嬉しい。だけど、そう思う度、長くは活動できないと思い知らされる。
なぜなら私はフェリクス様の婚約者だから。両親はもちろん、家令や侍女長、そして私に仕える侍女は私がエリオット・ケペルと知って容認しているけど、フェリクス様には画家として活動しているとは教えていないから。
きっと、知ったら嫌な顔される。ただでさえ、私との婚約を望んでいないのに婚約者が実は画家として活動していると知ったら嫌な気持ちになるに決まっている。
『フェリクス様と並んでも全然釣り合わないのに。我儘だと思わないの?』
ロクサーヌ様に言われた言葉が耳から離れない。……どうしてだろう、今までもフェリクス様を慕う色んな令嬢に似たような内容を言われていたのに。
釣り合わないのは私自身がよく知っている。お姉様のように魔力量も多くなくて、勉学も特筆しなければ、竜を使役する才もないのだから。
このまま婚約を続けたら二、三年の間に結婚するだろう。
婚約期間中も冷めていたのだ。結婚したら変わるとは思えない。……フェリクス様と冷めた結婚生活を送り、画家としての幸せを失うのは正直辛い。
「……それならいっそのこと、解消した方がいいのかな」
「エリー?」
ポツリとひとりごとが零れる。……婚約解消。
ふと、思いついたけど婚約解消した方がよく感じてくる。いくら侯爵夫人が希望した婚約でも、婚約の段階で冷え切っているのに結婚して変わるわけない。むしろ、悪化するだけだ。
「……お姉様に相談があります」
「相談? どうしたの、重々しい雰囲気で」
小さい声だったけどお姉様には聞こえたようで、耳を傾ける。
胸の中にある考えをゆっくりと口にする。
「フェリクス様とのことですが……。婚約はしているけど、実はもう三年ほど冷え切った関係になっていて」
「は? え、ちょ、ちょっと待って。……本当に?」
「はい」
私と同じ緑色の瞳を大きく見開かせて狼狽えるお姉様に頷く。普段は堂々として殆ど動じないのに珍しいなと思う。
でも、お姉様もたまにしか屋敷に帰ってきていなかったし、私もフェリクス様との関係で悩んでいても相談したことなかったから驚いても仕方ないと思う。
「あの男、襲撃してくる」
「やめてくださいお姉様。私の話はまだ終わっていません」
「うっ……」
目を据わらせて宣言するお姉様を早口でやめてほしいとお願いする。フェリクス様と犬猿の仲のお姉様だ。止めないと本気でやりかねない。
どうにか宥めると不満そうに、困ったように眉を下げる。とりあえず思いとどめてくれたようで一安心する。
「……分かったわ、でも質問させて」
「なんでしょうか?」
「冷め切っているって言うけれど、どんな感じなの?」
「どんな、ですか」
問いかけるお姉様に少し思案する。……正直に言っていいのだろうか。
でも、本当のことを言わないとお姉様も納得しにくいだろう。それならきちんと言うべきだ。
だから一緒に外出しないことからお茶会の様子、ダンスと隠すことなく伝えると──またお姉様が怒り狂いだした。
「あの男っ……! かわいいエリーを傷つけて! 氷漬けにしてやるっ!!」
「落ち着いてください、お姉様」
再び怒り出すお姉様を宥める。まだ終わっていないから落ち着いてほしい。
少し治まるのを確認すると話を続ける。
「──という状況でこのまま婚姻を結んでも好転しないと思うのです。……ですから婚約を解消を思いついて」
「……本当に言っているの? エリー」
「本気です」
間を空けて慎重に確認するお姉様に力強く頷く。
フェリクス様には本当に好きな令嬢と婚約してほしい。それが双方が幸せになれる条件だ。
「フェリクス様も頷いてくれると思います。当事者同士が言っていたらローギウス侯爵夫人も認めるしかないかと。唯一不安なのは婚約の解消による違約金ですが……この二年間である程度稼ぐことできたので問題ないと思います」
懸念していることを口にする。フェリクス様はいらないと言うかもしれないけど、私から申し出るのだから払った方がいいだろう。
心残りはフェリクス様の愛竜であるフリューゲルともう気軽に会えないことだけど仕方ない。フリューゲルも私たちが冷え切っているって分かっていると思うから残念ながらも受け入れるはずだ。
「……エリーはあの男のこと好きじゃないの? 一応、ご令嬢に人気じゃない」
「フェリクス様ですか? 幼馴染みたいなものとしか……。なので解消しても大丈夫です」
尋ねるお姉様にフェリクス様に対する思いを口にする。
フェリクス様のことは恋愛の意味で好きになろうと思っていた。でも、それはできなかった。
それにエリオット・ケペルとして活動する今、恋愛より画家として成功したい、と思ってしまう。
ありのままの気持ちを伝えると、お姉様が口を開く。
「そう、そうなのね。……エリーがあいつのこと思うのなら嫌だけど我慢しようと思ったけど、好きじゃないのね。──なら協力するわ」
「お姉様……!!」
弾んだ声でお姉様を呼ぶと美しい笑みを浮かべる。
「お父様はもちろん、お母様も説明したら納得するわ。いくら親友からの頼みとは言っても、エリーが辛い思いするのは望まないもの」
お姉様が冷静に両親の反応を予想する。母と侯爵夫人の友情は私たちが生まれる前からだ。きっと説明したら納得してくれるはずだ。
「お父様たちには私も説明するわ。だから安心して」
「ありがとうございます、お姉様」
「いいえ。それであいつ──フェリクスにはどうするの? あんな奴、手紙一つで婚約解消を突き付けていいと思うけど?」
フェリクス様への対応についてお姉様が辛辣な意見を出して苦笑する。元々仲が悪かったけど、私の件でより一層怒っているようだ。
「それはさすがに……。一応、婚約者だったので誠意ある行動をしたいと思います。なので直接お伝えするつもりです」
やんわりと断って自分の意見を告げる。冷え切っていても婚約者だったのだ、きちんとした方がお互いにわだかまりは残らないから直接伝えようと思う。
「エリーらしいわね。まぁでも、その方がダメージ与えていいかも」
「? すみません、後半がよく聞こえなかったのですが」
「ふふ、大丈夫よ。気にしないで」
「はぁ……」
聞くもニコリと美しい笑みで流される。この様子は聞いても教えてくれないだろう。ここは仕方ないと割り切るしかない。
婚約解消を決意し、今後の予定について告げる。
「婚約解消ですが、フェリクス様の予定を伺って侯爵家へ訪れるつもりです」
「私も同行しましょうか? ごねたら私が対処するわよ?」
「大丈夫です。きちんと、はっきりとお伝えするので」
心配して同行しようか聞いてくれるお姉様に首を振る。ごねることないだろうから問題ないと思う。
それに忙しいお姉様の手を煩わせるわけにはいかない。私一人で対処しなければ。まずはフェリクス様の予定を聞くために手紙を出そう。
そしてしばらく婚約解消について話をして、お茶を終えると自室に戻ってフェリクス様に「大切な話があるから会いたい」と手紙を綴った。




